アニメ

空虚な「私」と再帰的自己発見

前回は、「愛されなかった子供たち」という近年のサブカルチャーに頻繁に見出すことができる主題から出発して、純愛とニヒリズムとの二極化という図式を提出した。今日のサブカルチャーには、この二面性が頻繁に見出される。過剰な不信とナイーブな信頼とが…

愛されなかった子供たち、純愛とニヒリズムとの二極化

前回は、「愛するものを守る」という価値観との関連で、今日のヒーローの無力さの問題を取り上げた。今日のヒーローに課せられた使命は、ある意味、非常に小さいものである。昔のヒーローは、全世界の危機や宇宙全体の危機を救う必要があった。それに対して…

ヒーローの無力さ、弱さ

前回は、「なぜ闘わなければならないのか」という問いの視点から、「愛するものを守る」という価値観を問題にした。「なぜ闘わなければならないのか」というふうに問いかける登場人物が、その問いを差し向けている相手は、具体的な誰かではなく、その登場人…

なぜこの「私」が闘わなければならないのか?

前回は、セカイ系作品にしばしば見出すことができる「愛するものを守る」という価値観を問題にしたが、今日もまた、この価値観を問題とすることにしたい。 「愛するものを守る」という価値観は、『機動戦士ガンダムSEED』が端的に示しているように、「なぜ闘…

関節の外れた世界、二つのリアリティ

ここ数ヶ月にわたって、セカイ系と呼ばれる最近のサブカルチャーに特有の物語を考察の対象としてきたわけだが、今回は、このセカイ系の物語が備えているひとつの側面を強調してみたいと思っている。それは「愛するものを守る」という価値観である。 「愛する…

永遠なものから有限なものへ

ここ数回、80年代のサブカルチャー作品と今日のサブカルチャー作品との関係を見てきた。今日のサブカルチャー作品を考えるにあたって、80年代の作品と同時に考えることが極めて有効だと思ったわけである。今日も、この作業を推し進めてみよう。 『ビューティ…

同じ時を過ごすこと、仮象の重視

前々回から、80年代のアニメとメタレベルというテーマで話を進めているわけだが、ここで、改めて、なぜこうしたことを問題とするのか、ということを明確にしてみよう。 ここ最近、僕がずっと問題としていることは、セカイ系と呼ばれる一群の作品に関してであ…

永遠の文化祭に向けて

前回は、60年代から80年代までのアニメ史を概観することによって、80年代において作品の中にメタレベルの視点が導入される余地ができてきた、ということを述べた。そして、今日は、そのメタレベルの導入について具体的な話をしようと思っているわけである。 …

80年代アニメの土壌

大状況と小状況との関わり、大状況の物語が空疎化し、それを補填するような形で小状況の物語が拡大していること。こうした物語の状況を、前回までは、様々なアニメ作品を通して見てきたわけだが、今回からは、同様の状況を、少し歴史的な観点から眺めてみる…

切断線のない物語

前回は、今日のアニメ作品において、大状況が非常に空疎なものとなり、むしろ、その空疎さを補填するような形で、小状況が機能している、そのような現状を概観した。旧来の作品においては、大状況と小状況とは滑らかな接続の仕方をしていた。常にアクセント…

日常生活の貧しい物語

前回は、セカイ系と呼ばれる一連の作品群において、主人公たちが普段生活をしている小状況としての日常生活が、全世界の危機という大状況に短絡的に結びついていく、そうしたプロセスを大まかに見ていった。こうした物語において常にアクセントが置かれてい…

セカイ系における小状況の拡大

前回は、セカイ系と呼ばれる一連の作品群に見出される諸要素、とりわけ、記憶の想起という要素を問題化した。今回も、この記憶の想起という点から話を始めていきたい。 前回、偽の記憶(模造記憶)について少し言及したときに、記憶が個人のアイデンティティ…

セカイ系と記憶の想起

前回は、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』を取り上げて、この作品に見出すことのできる世界のあり方(日常生活とその外の世界との明確な分離)を問題にした。今回も、この点を、もっと推し進めてみたい。 『最終兵器彼女』という作品を分析するとき、おそら…

終わる予感と終わらない日常生活

近年のサブカルチャー作品において、世界の二分化という事態が起こっているということを前回指摘した。つまり、主人公たちが生活している日常世界とその外部の世界というふうに世界が二分しているわけである(自分たちの日常生活とTVの世界というふうに、こ…

日常の彼方としての異世界

前回は、世界、社会、「私」という三つのタームの諸関係を扱った。今回も、これら三つのタームの諸関係を扱っていきたい。 ここで僕が問題にしたいこと、それは、現在のわれわれの世界観、現在の様々なサブカルチャー作品に見出すことができる世界観とはどの…

世界−社会=「私」

前回からまた時間がかなり経ってしまったので、まずは、前回までの話題をまとめてみたい。 前回まで僕が問題にしていたのは、承認を巡るギャップの問題、部分的な承認と全的な承認とのギャップの問題である。「私」の存在すべてを認めてほしいにも関わらず、…

自我の亀裂としての多重人格

前回の最後で、僕は、「次回は、いわゆる「自分探し」などで問題となる自分固有の欲望の問題に進んでいきたい」と書いたが、あまり先を急ぐ必要もないので、今回は、前回話題にした部分的な承認と全的な承認とのギャップの問題をもっと深めていきたいと思う。…

部分的な承認と全的な承認

さて、今日は、ヒーローの無力さの問題を取り上げてみたい。 少年向けのアニメやマンガでは、主人公の強さをいかにして表わすか、ということに対して、様々な工夫がなされている。端的な例を出せば、それは、合体であり、変身であるだろう。少年向けのアニメ…

努力、友情、勝利

前回からかなり時間が経ってしまったが、今日から本格的に、「カーニヴァル化する社会」と現代アニメとの関係を問題にすることにしたい。しかし、「関係を問題にする」とは言っても、鈴木謙介の本を細かく取り上げるつもりはない。むしろ、ここでやりたいの…

カーニヴァル化する社会と現代アニメ

鈴木謙介の『カーニヴァル化する社会』という本を読んだ。この本の著者は僕とほとんど同い年なので、そこで提出されている問題については、いちいち、納得させられるところがあった。その点に関して、今日から数回にわたって、現代のアニメーションと関わら…

日常生活は存在しない

先週、最終回を迎えた『フタコイ オルタナティブ』について、感想を少し書いてみたい。 まず、この作品に見出すことができるのは、現在のサブカルチャーが直面している混迷ぶりである。『フタコイ』は、大きく分けて、二つの側面から成り立っている作品であ…

『機動戦士Zガンダム』と大衆の問題(4)

前回は、シャアというキャラクターに注目していくことによって、『機動戦士ガンダム』という作品が、いかに、従来のような善悪二元論的な図式を回避しているか、ということを見てきた。今日はまず、そのような善悪二元論的な物語を回避した結果、『ガンダム…

『機動戦士Zガンダム』と大衆の問題(3)

『機動戦士ガンダム』の対立図式を明確にすることは、極めて困難なことである。この点こそが、『ガンダム』という作品が、単純な善悪二元論に回収されない作品である、ということを端的に示している。今日は、その点を、もっと明確にしてみたい。 そもそも、…

『機動戦士Zガンダム』と大衆の問題(2)

さて、前回は、富野由悠季が、単純な善悪二元論的な発想に対して、そこに亀裂を生じさせるような作品(『無敵超人ザンボット3』)を作った、という話をしたわけだが、今日は、その帰結が『機動戦士ガンダム』という作品を生み出したということを示してみたい…

『機動戦士Zガンダム』と大衆の問題(1)

今日、劇場版『機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者』を見てきた。僕は、以前から、TVで『Zガンダム』の再放送を見ているので、今回この劇場版を見ても、取り立てて、感慨を抱くことはなかった。TV版のダイジェストを見ている感じだった。従って、今日は、映画の感…

ナイーブという名のリアル

前クールにTVで放送されていた二つのサブカルチャー作品、アニメ『ファンタジックチルドレン』と特撮ドラマ『シブヤフィフティーン』には、奇妙な共通点がある。それは、仮象にこだわる、という点である。 昨今、ブームになっている純愛ものでは、常に、こ…

木を植えた男

カナダのアニメーション作家、フレデリック・バックの『木を植えた男』のビデオを友人から借りて見た。 僕がこの作品を最初に見たのは、高校生のときだ。深夜に放送していたのを録画して見たのだ。この作品を見るのは、それ以来である。つまり、これまで、た…

定型的な物語と新しい作品

定型的な物語を抜け出せるかどうか、それが、その作品が革新的なものであるかどうかを判断するときの大きな基準となる。『Xenosaga THE ANIMATION』をやっと見終えたのだが、この作品も、そうした定型化に完全に嵌ってしまっていた(とりわけ、その最終回の…

蘇る竜王伝説

『レジェンズ』と『陰陽大戦記』、この二つの作品には、多くの共通点を見出すことができる。 まず、この両作品とも、おもちゃ会社とのタイアップによって作られたアニメ作品である。主人公は、商品となっている玩具によって、敵と闘う(この点で、『レジェン…

傷を負った子供たち

愛とは、ある個人の固有性を重んじることである。他の人とは置き換えられない、ある個人の固有性を絶対視することである。 『新世紀エヴァンゲリオン』以降、アニメやマンガなどのサブカルチャー領域は、その様相を一変させた。『エヴァンゲリオン』以降、傷…