永遠の文化祭に向けて



 前回は、60年代から80年代までのアニメ史を概観することによって、80年代において作品の中にメタレベルの視点が導入される余地ができてきた、ということを述べた。そして、今日は、そのメタレベルの導入について具体的な話をしようと思っているわけである。


 いったい、ここで問題にしているメタレベルとは、どのようなことを指して言っているのだろうか? 僕は、この言葉を、非常に広い意味で捉えようと思っている。ある何かについて語っているときに、その何かについて語っているという発話行為自体をもその発話の中に入れるとき、そうした発話は自己言及的なメタレベルと言えるだろう。発話内容のレベル(対象のレベル)と発話行為のレベル(メタレベル)とをはっきりと分けて考えるということもあるだろうが、ここでは、そうした区別や分類に関しては、具体的に作品を見ていきながら考えていきたいと思っている。


 ここで取り上げたい80年代の三つの作品がある。それは、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、『トップをねらえ!』、『メガゾーン23』である。これら三つの作品は、それぞれ独特な形で、80年代のメタレベルを体現しているが、そうしたメタレベルのあり方が、今日にあっては、セカイ系と呼ばれる一群の作品の土台となったと考えられるのである。


 例えば、典型的なセカイ系作品を作り出している新海誠のことを考えてみよう。彼の『ほしのこえ』には、『トップをねらえ!』の強い影響を見出すことができるが、そのことは、おそらく、偶然ではないだろう。つまり、新海が偶然に影響を受けた作品が『トップ』だったという話に終わらずに、そこには、80年代の一連の作品と今日のセカイ系作品とを結ぶ糸が見出せるように思えるのである。


 さて、まずは、『ビューティフル・ドリーマー』から出発しよう。この作品に見出すことができる多様なメタレベルの糸をすべて手繰り寄せることは非常に困難な作業である。ここでは、そのいくつかの線を指摘するに留めておこう。


 まずは、取っ掛かりとして、この作品の監督である押井守が現在までに何をやってきたか、ということを考えてみよう。近年の『イノセンス』に見出すことができる衒学的な態度はひとまず措くこととして、押井守の作品に見出すことができる現代思想的な世界観、もっと限定すれば、ポスト構造主義的な世界観が何を意味しているのか、ということを考えてみようと思っているのである。


 まず、第一に、それは、超越性の消去である。対象のレベルとメタレベルとがはっきりと分かれている場合、そこには階層秩序がある。例えば、夢オチというのは、そうした秩序に根拠を持っている結末である。いったい、どのようなときに夢オチが使われるのか、ということを考えてみよう。それは、大体において、ある物語の収拾がつかなくなったときである。収拾のつかなくなった物語を強引に終わらせるため、導入されるのがメタレベルなわけである。つまり、そこで混乱を極めていた問題のすべては、そもそも問題ではなかった(現実的な出来事ではなく、すべては架空の出来事、夢だった)というわけである。


 メタレベルと対象のレベルとが厳然と分かれている場合、そのメタレベルは、対象のレベルからは超越していると言えるだろう。対象と同じレベルに内在しているわけではなく、そこから超越している。部分的な要素には還元されない超越のレベルにある視点。このような超越としてのメタレベルは、対象のレベルを突き進むのではなく、そこから一歩退くことによってもたらされると言えるだろう。つまり、メタレベルの視点から捉えられるのは、対象のレベルからでは捉えることのできない、対象のレベルそれ自体の前提である。


 しかし、ここで、次のような疑問が生じることだろう。いったい、対象レベルとメタレベルとの厳然とした差異は、何によって保証されているのか、と。こうした保証が何ひとつないということこそが超越性の消去であり、その結果もたらされるのは、押井守がその作品の中でしばしば描く無限後退である。『ビューティフル・ドリーマー』の最後のほうのシーンで、主人公の諸星あたるが、夢から覚めるとまた別の夢の中にいて、そして、またその夢から覚めるとまた別の夢の中にいるという、あの一連のシーンが描いているのが、それである。ここにおいて、対象のレベルとメタレベルとの差異は、それほどはっきりとはしてこなくなる。メタレベルもまた、そこから一歩後退すれば、対象レベルとなり、そこでその対象を捉えているメタレベルも、また一歩後退すれば、対象のレベルとなる。かくして、ここに現われてくるのは、超越の観念ではなく、(平板化された)無限の観念である。


 メタレベルと対象のレベルとがはっきりとは分かれていないということは、そうした明確な区別を行なうもの、他の諸記号を統率するメインの記号の存在が、ここでは、抹消されているということである(ある記号が特権的な役割を果たすということはなく、すべての記号は同じ価値を持っている)。つまり、これが、押井守の作品に見出すことができる現代思想的な第二の観点、無頭の観念である。


 この無頭状態を最もよく印づけている作品は、劇場版『機動警察パトレイバー』だろう。大規模な犯罪を起こしたその犯人が不在であるというこの結末は、極めてショッキングなものである。様々な部分的な要素を統括するひとつの頭があるのではなく、部分的な要素の流れによって、ひとつの頭が(事後的な効果として)生じるというこの発想は、『攻殻機動隊』にも通じるところのある視点である。


 ここで押井が徹底的に避けていることは、物語を、例えば善と悪といった、二つの対立する要素に還元することである。『パトレイバー』においても、『攻殻機動隊』においても、重要なのは、誰が悪の黒幕なのか、ということではない。両作品とも、犯罪を扱っているにも関わらず、事件を起こした犯人を断ずるといった典型的な態度をずらそうと試みているのである。それゆえ、これらの作品で問題になっているのは、人ではなく、システムである。無頭のシステムの流れが様々な場所で様々な事件を起こしているということが言えるのである。


 『ビューティフル・ドリーマー』に話を戻すことにしよう。メタレベルについて上でいろいろと述べてきたが、この言葉をもっと大まかに、つまり、対象のレベルから距離を取るというぐらいの意味で捉えてみることにしよう。いったい、この作品では、対象からどのように距離を取っているのだろうか? そして、そこでの対象とはいったい何なのだろうか?


 まず第一にこの作品がなしていること、それは、「『うる星やつら』とは何か?」という問いを発し、それに答えようとしていることである。答えは最初から出ている。つまり、それは、文化祭の前日を永遠と繰り返すことだ、というものである。


 日本のサブカルチャーにおいて、文化祭は独特のアクセントをもって語られている。学園ものの作品においては、文化祭は欠かすことのできない重要なイベントであるが、それは、いったい、なぜだろうか? それは、そうした学園ものの作品が、文化祭という非日常そのものの雰囲気をベースにして作られているからである。通常の文化祭であれば、そこには始まりがあり、終わりもある。日常と非日常とが厳然と分かれている。しかし、学園ものの作品の場合、文化祭が終わったとしても、非日常は永遠に続いていく。角の生えた宇宙人がやってくるということそれ自体が非日常であるわけだ。


 なぜ、文化祭当日ではなくて、前日なのだろうか? この差異は微妙であるが、重要な差異である。当日と前日との違いは、「もう始まってしまった」か「まだ始まっていない」との違いであるだろう。文化祭の前日までは来るべき文化祭のための準備期間なわけだが、窮極的には、そこで待望されているものは文化祭であるとは言えないだろう。つまり、文化祭の準備期間とは、何か未知のものの到来のための準備期間であって、文化祭の当日とは、根本的には、無関係と言えるのではないだろうか?


 森達也の『A』というドキュメンタリー作品において、オウムの施設(サティアン)の光景が内部から映し出されていたが、その光景は文化祭の光景と非常によく似ていた。そこにあるのは、例えば教室を無理矢理喫茶店に改造したときに現われてくるちぐはぐさ、ある種の安っぽさである。文化祭においては、あらゆる行為が擬似行為として捉えられるところがあるだろう。つまり、出店の食べ物がまずくても問題ないし、喫茶店のサービスが悪くても問題ないし、コンサートの演奏が下手でも問題ないし、演劇の演技が下手でも問題ない。「なぜなら、それは文化祭だから」という形で一種の免罪符が与えられているのである。こうした雰囲気がオウムの施設の中からも漂ってくるのである。しかし、だからと言って、オウムの人たちに真剣さがなかったとはとても言えないだろうし、そのことは文化祭についても言えることである。「文化祭だから何をやっても許される」というまったりとした雰囲気と「だからこそ、バカげたことをやってみよう」という熱い情熱とが奇妙にも同居しているのである。


 「これは現実ではない」という冷めた現実主義と「永遠にお祭り騒ぎを楽しもう」という熱い理想主義との奇妙な同居。これこそが文化祭の雰囲気であり、その点で、文化祭の準備とは、絶対に実現不可能な理想世界のための準備期間だと言えるのである。従って、「まだ始まっていない」というのは、「まだ理想が実現可能か不可能かは決定していない」ということであり、文化祭の当日に何がやってくるのか分からないという状態なのである。だが、一方で、文化祭に何が起きるのかということは、誰もが知っていることでもある。去年と同じような文化祭がやってくるだけであり、来年も今年と同じような文化祭が繰り広げられるだけである。しかし、こうした冷めた現実主義の合間を縫って、安っぽいものが奇妙なリアリティを発し始める瞬間がある。それが文化祭の前日という待望の期間ではないだろうか?


 こうした観点から見ていくとすれば、時が再び動き出し、文化祭の当日の朝を迎えるという『ビューティフル・ドリーマー』のラストシーンをどのように評価すればいいのだろうか? おそらく、それは、永遠のユートピアの拒絶、実現不可能な理想主義に埋没することなく、しっかりと現実を見据えるべきだ、といったような説教臭い結論ではないだろう。注目すべきは、あたるがラムに向かって「それは夢だ」と言ったあとに、また再びいつものドタバタ騒ぎが起きる瞬間である。つまり、ここにアイロニカルに導入されている視点は、『うる星やつら』という作品は、そもそも、日常生活それ自体が非日常だ、というものである。学校の校舎に吊るされた「うる星やつら」というタイトルの看板が示しているのも、まさに、そうしたことだろう。つまり、「うる星やつら」の非日常的な物語は、ここから始まるのであり、また、永遠にそこにある、ということである。


 まさに、この視点こそ、メタレベルの視点であるだろう。そこあるのは非常に冷めた視点である。言ってみれば、この視点は、作品の限界を印づけているのである。作品は作品であり、作品それ自体がその作品世界を超越することなどできない、ということを述べているのである。非日常的な世界に日常をもたらすことなどできはしない。日常と非日常との断絶を印づけるものがあるとすれば、それは、作品には終わりがある、ということだけである。作品を見終わったあと、映画館を出て、日常生活に舞い戻ったときに感じる奇妙なギャップ。まさに映画はそうしたことを意図しているわけだが、そうしたギャップだけが断絶を感じさせてくれるリアルなものであるだろう。


 現実と理想、現実と虚構、現実と夢といった一連の対立項を考えるには、『ビューティフル・ドリーマー』は打ってつけの作品である。これら三つの対立項において、常にアクセントが置かれているのは「現実」のほうであるが、しかし、現実と夢との関係は、そう容易に解かれるものではない。次回もこうした対立項を軸にして、80年代の作品を見ていくことにしたい。