これまでに書いた文章一覧

【個人誌】

マトリックス論──フィクションの仮想現実について

2022年11月20日発行

 

【論考】

ホラー、ニヒリズム、共同体──『ひぐらしのなく頃に』をめぐって

『未完了域 第1号』2024年12月1日

 

生誕の喜劇──アニメ『けいおん!』と日常系の臨界点

(『日常系アニメのソフト・コア』所収の「日常系アニメにおける視点間の差異──アニメ『けいおん!』について」を全面改稿したもの)

『週末批評』2024年4月5日

 

われらの同時代人アシタカ

『ビンダー vol.8』2023年11月11日

 

鈴木敏夫はいかにして宮崎駿とコンビを組むようになったか

『ビンダー vol.8』2023年11月11日

 

日常における遠景──「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む

(『アニメルカ vol. 2』所収の同名論考を一部加筆・再構成の上、転載したもの)

『週末批評』2023年8月12日

 

ニヒリズムの微光の下で――二〇二一年のいくつかのサブカルチャーについて

『セカンドアフター vol.4』2022年5月29日

 

ゲームシステムとしての現実世界──アニメ『ソードアート・オンライン』論

『ビンダー vol.7』2020年11月22日

 

ファミコン初期の任天堂(試論)1985-1986

『ビンダー vol.6』2018年11月25日

 

砂嵐の向う側へ──矢追純一の「UFOスペシャル」について

『ビンダー vol.5』2017年11月23日

 

高畑勲の醒めない夢──『火垂るの墓』論

『ビンダー vol.4』2016年11月23日

 

ルパン三世(第1期) 高畑ルパンの不可能性

『ビンダー vol.4』2016年11月23日

 

アルプスの少女ハイジ 娘のまなざし、父の無力さ

『ビンダー vol.4』2016年11月23日

 

母をたずねて三千里 母との再会とネオリアリズモ

『ビンダー vol.4』2016年11月23日

 

日常系アニメにおける視点間の差異──アニメ『けいおん!』について

『日常系アニメのソフト・コア』2014年11月29日

 

ガールズ&パンツァー』を見るヒトラー総統──サブカルチャーにおけるナショナリティについて

『セカンドアフター vol.3』2013年11月4日

 

百合的想像力に潜む男性の声──『まりあ†ほりっく』で『魔法少女まどか☆マギカ』を読む

『反=アニメ批評 2012summer』2012年8月12日

 

魔法少女まどか☆マギカ』における失われた未来の風景──震災前後のアニメ状況

『反=アニメ批評2011summer』2011年8月14日

 

キャラクターの不定形な核──『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ

アニメルカ vol.3』2010年12月5日

 

日常における遠景──「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む

アニメルカ vol.2』2010年8月15日

 

【エッセイ】

君たちはどう生きるか フィクションと少年時代

『ビンダー vol.8』2023年11月11日

 

編集後記に代えて

(『セカンドアフターEX2012』第2版に追加した文章)

 

【海外PCゲーム時評】

第4回(最終回) 炎上する宇宙──『No Man's Sky』について

『ビンダー vol.5』2017年11月23日

 

第3回 Fallout とWasteland──二つのRPG

『ビンダー vol.4』2016年11月23日

 

第2回 Telltale──アドベンチャーゲームの新時代

『ビンダー vol.3』2015年11月23日

 

第1回 サバイバル系ゲーム

『ビンダー vol.2』2015年5月4日

 

【巻頭言】

平成の終わり、日本の「二十一世紀」

『セカンドアフター vol.4』2022年5月29日

 

イントロダクション

『日常系アニメのソフト・コア』2014年11月29日

 

二〇一三年のサブカルチャーの風景──巻頭言に代えて

『セカンドアフター vol.3』2013年11月4日

 

二〇一二年時評〔のイントロダクション〕

『セカンドアフターEX2012』2012年11月18日

 

川尻浩作の面影──杜王町特集の序文に代えて

『セカンドアフターEX2012』2012年11月18日

 

巻頭言

『セカンドアフター vol.1』2011年11月3日

 

【対談/座談会】

現代日本の同人批評②

志津史比古 × てらまっと × 砂糖円

『ブラインド vol.2』2024年5月19日

 

細田守が描く「継承」と「共助」──『オマツリ男爵』から『竜とそばかすの姫』まで

(『セカンドアフター vol.4』所収の「スタジオジブリと平成のアニメ映画」から細田守の作品について論じた箇所を抜き出して加筆したもの)

noirse × 志津史比古

『週末批評』2022年9月23日

 

スタジオジブリと平成のアニメ映画

noirse × 志津史比古

『セカンドアフター vol.4』2022年5月29日

 

【音楽対談】音楽になりえない歌――イスラム国のナシードについて

(『サブカルチャーとしてのイスラム国(先行版)』を加筆・修正した上で、転載したもの)

ピアノナイク × 志津史比古

『セカンドアフター vol.4』2022年5月29日

 

震災後の遠景──アニメから見た2012年の風景

(『セカンドアフターEX2012』所収の対談を一部改変・修正のうえ、転載したもの)

志津A × てらまっと

『週末批評』2022年5月5日

 

【音楽対談】音楽になりえない歌――イスラム国のナシードについて

ピアノナイク × 志津A

サブカルチャーとしてのイスラム国(先行版)』2016年12月3日

 

【映画対談】震災後の連帯と分断 ──園子温クリストファー・ノーランを中心に

熱海いかほ × 志津A

『セカンドアフター vol.3』2013年11月4日

 

震災後の遠景──アニメから見た二〇一二年の風景

てらまっと × 志津A

『セカンドアフターEX2012』2012年11月18日

 

【マンガ対談】日常における未来

イワン×志津A

『セカンドアフター vol.2』2012年5月6日

 

【マンガ対談】キャラクターと記憶の継承──『COPPELION』と『侵略!イカ娘』を中心に

イワン × 志津A

『セカンドアフター vol.1』2011年11月3日

「ツインテールの天使」を読むこと——読書会の企画意図

 来たる2024年7月21日(日)に、てらまっとさんの「ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー」の読書会を行う。

 

 共同企画者である壱村健太さんに告知をお願いした。

 

 

 てらまっとさんの「ツインテールの天使」は、僕が2011年に刊行したサブカルチャー評論同人誌『セカンドアフター vol.1』に寄稿してもらった論考だ。

 

 『セカンドアフター vol.1』は2011年の秋の文学フリマ(第13回東京)で頒布した。当時ブログに掲載した内容紹介文から、「ツインテールの天使」のところを抜き出してみる。

 

5万字の力作論考。空気系アニメ、『けいおん!!』最終回、ベンヤミンアレゴリー論、梅ラボやthreeなどの現代アート、ルイズコピペといったいくつかの領域を経巡ることで、キャラクターによる救済の可能性が問われる。「「終わりなき日常」が終わりを迎えるとき、薄れゆく意識のなかで、私たちは天使のツインテールがひるがえるのを見るだろう」。

 

 5万字という長大な論考にも関わらず、「ツインテールの天使」は、たくさんの人に読まれ、好評を得た。それに留まらずこの論考は、この十数年間、ずっと読まれ続けてきて、今も新しい若い読者を獲得している。これは驚くべき事実だ。

 

 「ツインテールの天使」はなぜこんなにも読まれているのか。それが優れた論考だからだろうか。

 

 何かの価値(優れているかどうか)を決定するのは文脈である。多くの人に読まれているということは、そこに何かしらの文脈が形成されていることを示唆している。しかし、その文脈は可視化されていないように思われる。

 

 ここには別の問題が潜在している。文学フリマで頒布されているような同人誌の論考は、それだけで、独自の文脈を形成できるのかどうか、という問題だ。同人誌に掲載されている文章がマイナーなものと見なされているとしたら、そこで「メジャー/マイナー」の線引きを決定しているのも文脈、あるいは文脈の不在だと言える。

 

 「ツインテールの天使」もまた、多くの人に読まれてきたにも関わらず、マイナーなものに留まっている。しかし他方で、むしろマイナーなものだからこそ、読まれてきたという気もしなくもない。

 

 「ツインテールの天使」は、「ルイズコピペ」の引用に示されているように、自らの地位を「深夜ポエム」と同等のもの、つまり一種の「怪文書」として位置づけている。そこで想定されているのは、ネットに散見されるような、ネタ的な文章の文脈である。言い換えれば、「ツインテールの天使」は、そこで書かれている内容を、文字通りには(真剣には)受け取ってほしくないというメッセージを暗に送っているように見える。

 

 しかし、書かれたものの価値を決定するのは読者である。もしそこに何らかの読者の共同体が想定できるとすれば、そこで育まれている価値とはどのようなものなのか。そうした新しい文脈への興味から、こうした読書会を企画した次第である。

 

 

ツインテールの天使」は以下から読めます。

worldend-critic.com

文学フリマにて個人誌『マトリックス論』を頒布します

マトリックス論――フィクションの仮想現実について』

(A5版、54ページ)

著者:志津史比古

 

ブース番号U-10

 

第三十五回文学フリマ東京

会場:東京流通センター 第一展示場

開催日:2022年11月20日(日)

時間:12:00〜17:00

サークル名:セカンドアフター

価格:400円

 

 

BOOTHにて販売開始しました

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 機械は人を騙すのだろうか。映画『マトリックス』が仮想現実に対して提起しているのは、まずこのような問いである。この問いが十全な意味を持つためには、騙すという行為についてよく考えてみる必要がある。とりわけ、誰かから騙されるというのではなく、人は時に自分で自分を騙そうとするという傾向性についてよく考えてみなければならない。

 『マトリックス』の与えた鮮烈なイメージとは、レッドピルを飲むことによって生じる脱出の感覚、つまり「この現実」の外に出るという感覚である。「ここ」で生きるのをやめて、「ここではないどこか」に行くことができる、あるいは「この私」ではない「私」になることができる。そうした希望があの映画で示されていたのではないだろうか。仮想現実が単なる情報環境として捉え返されるならば、そうした希望は縮減してしまうのではないだろうか。

 

 仮想現実は発展途上の技術である。「メタバース」という言葉を巡る昨今の過熱した状況も、「未来」の名の下に「現実」を括弧に入れることができるがゆえに――この空白から無数の空想を引き出せるがゆえに――引き起こされた事態という印象を抱く。仮想現実を描いてきたフィクションは、具体的かつ詳細なイメージを提供してきたという点で、そうした過剰な期待を醸成する役割を果たしてきただろう。

 

 「新しい技術」という見かけの下に提示されている事柄が、実際は、より古いものから借り受けられた多くのものから出来上がっている場合がしばしばありうる。仮にそれが古い問題であったとしても、その提起のされ方のうちに何か新しいものが見つかるかもしれない。仮想現実を夢想することよってわれわれは、どのような現代的な問いを提起しようとしているのだろうか。

 

 

上記の個人誌の他に、サブカルチャー評論同人誌『セカンドアフター』の既刊も頒布します(内容詳細 → セカンドアフター公式ブログ)。当日はよろしくお願いいたします。

 

W3(ワンダースリー)(1965-66年)

原案・総監督:手塚治虫チーフディレクター:杉山卓、制作:虫プロダクション、全52話

 

虫プロのテレビアニメ・シリーズとしては、『鉄腕アトム』(1963-66)に続く二作目。『W3』の放送が開始されたのと同じ年には、『ジャングル大帝』(1965-66)もまた始まっている。つまり、1965年から66年にかけて虫プロは、テレビアニメのシリーズを三つも手掛けていたことになる。

 

手塚治虫のマンガ版が存在するが、これは原作ではない。アニメの企画がまず先にあり、それと歩を合わせる形でマンガのほうも描かれた*1。つまり、『W3』のマンガとアニメは、基本的な設定を同じくするだけの別作品である。アニメ版の物語形式は、マンガ版のようなひと続きのものではなく、一話完結。そのため、アニメの『W3』は、大きな水準で物語が進行することはほとんどなく、(すでに『鉄腕アトム』がそうなっていたように)ある種のパターンを形成・反復していくことになる。

 

戦争を始めとした争いごとをいつまでたってもやめようとしない地球人を滅ぼすべきか否か、その決議のための調査任務を銀河連盟から課された「ワンダースリー」(三人の宇宙人)という大枠の物語設定がまず存在する。この宇宙人たちと交流を持つことになるのが主人公の少年・星真一である。ワンダースリーはそれぞれウサギ、カモ、馬という動物に変身し、真一の家に飼われる形で調査を続ける。

 

『W3』の設定で興味深いのは、真一の他にもうひとりの主人公を据え置いた点だ。真一の兄・光一がそれであり、この点からするならば、『W3』は二つの物語をひとつに統合した作品だと言える。光一は、表立っては駆け出しのマンガ家として振る舞っているが、実際は秘密諜報機関フェニックスのエージェントで、様々な悪の組織と戦うことを使命としている。60年代は『007』の映画シリーズが始まった時期であり、そうした当時のスパイブームに追従する形で、「諜報」というモチーフが二重に(ワンダースリーとフェニックス)取り入れられたのだと想像される。

 

マンガ版では、こうした二層構造が、グローバル(世界征服を主目的に掲げるような暴力的な国家や組織との国際的な対決)とローカル(村の地主に集中する利権とそこから生じる支配関係に対する闘争)という二つの領域における悪との戦いという形で、上手く機能している。だがアニメのほうでは、一話完結という制約が大きいためか、こうした複雑な構造は、単純な勧善懲悪の物語へと還元されてしまっている。たいていは、各エピソードにおいて、「悪」を代表する人物なり組織なりが登場し、真一、光一、ワンダースリーのそれぞれが一致協力する形で、そうした悪者たちと戦い、勝利するという物語のパターンが繰り返されるだけになっている。

 

別の観点からすれば、真一と光一の兄弟は、子供と大人の領域の区分をそれぞれ代表していると考えられる。つまり、子供は、その無力さゆえに、大人たちの関係性のうちに参入できないとしても、何か別の媒介の助け(『W3』で言えば宇宙人たちの不思議な能力)を借りることによって、大人の世界に影響力を行使できる。この当時のマンガやアニメにはこうした類型(大まかに言えば「少年探偵」というキャラクター)が散見されるが、この水準から言うならば、真一のやっていることはほとんどアトムと変わらなくなる。つまり、真一と光一という二人の主人公がいる必然性がほとんどなくなってくるのだ。

 

もちろん、50話以上も話数があるので、こうしたパターンに当てはまらないエピソードもたくさんある。悪者との戦いも極めて牧歌的な形で描かれているので(人が死ぬようなことはほとんどない)、全体的にユーモラスな印象を与える作品になっている。60年代のノリと(ギャグ)センスが随所に見出され、特にカモのプッコと馬のノッコとの間には掛け合い漫才的なやり取りがしばしばなされる(二人が「すいません」という言葉を何度も繰り返すエピソードがあるが(第29話「消された一日」)、これはおそらく林家三平を意識したものだろう)。

 

早口でまくし立てるプッコ(声の担当は近石真介)の長口舌はひとつの見どころで、おそらくアドリブもたくさん入っているのではないかと想像されるが、口パクのアニメーションにほとんどこだわらない形で、長い台詞が滔々と読み上げられる。いつ頃から口パクと台詞とをきっちり合わせるようになったのか分からないが、60年代から70年代にかけてのテレビアニメは、この点に関して、かなり緩やかな印象がある。

 

変わった演出ということで言えば、第36話「ジャングルのちかい」という残留日本兵を題材にしたエピソードにおいて、学徒出陣などの太平洋戦争時の実写映像が用いられるシーンがある。60年代から70年代のテレビアニメでは、この種の実写映像やスチール写真を部分的に用いた演出がいくつか見られるが、そうした事例の中でもこれはかなり初期のものであるだろう。

 

全般的にこの頃のテレビアニメは、ひとつのエピソードに多くの時間や人を費やせないという金銭的な制約のゆえに、それに適合した表現が様々に模索・開発されていた時期だった。虫プロはその代表的な制作会社であるが、『鉄腕アトム』の初期に見出されたようなぎこちなさは、かなり低減した印象を受ける。これは、つまり、テレビアニメ独自の見せ方が(ある程度)定着し出したということであり、例えば派手なアクションを見せなければならないときに人物の動きが制限されたものだとしても、素早いカット割りやカメラワーク(特にトラックアップ/バック)の多用によって、それなりに迫力のあるシーンが生み出される結果になっている。

 

 

作品内容に話を戻せば、『W3』において大人の世界が示されるとしても、それは、世界征服を企む悪の組織との戦いといった極めて空想的な形においてである。「悪」の問題はその種の闘争のうちに単純化され、もっと複雑な形で問いただされるべき悪、例えば「必要悪」のような考えすら問われることはない。唯一の例外は、人間が存在することそのものが悪の源泉なのかもしれないという初発の設定であるが、この点もまた、未来への希望(人間同士の争いを人類はいつか克服できるかもしれない)という形で先送りされ、徹底的に問われることはない。

 

1962年にキューバ危機があり、ベトナム戦争が継続していた60年代半ばの状況がこの作品に影響を与えていたとしても、(『007』のような)スパイものが題材としていた冷戦下の具体的な国際関係が『W3』において俎上に載せられることはない。これは単に国際的な状況に対する鈍感さを示しているというよりも、自国の正当性の自己弁護に汲々とせざるをえない敗戦国日本の苦難があったからだと考えられる。この点で、銀河連盟という上位組織に対して人類の健全さを証明するという基本的な設定は、アメリカを始めとした西側諸国(あるいは国連)に対する日本の立場を必然的に想起させる。

 

アニメ版『W3』の最終回は、マンガの終わり方に近く、反陽子爆弾を実際に用いようとするワンダースリーに対してフェニックス側が戦いを挑むという内容になっている。それまで仲間だと思っていたワンダースリーが人類の敵だと分かったときに、真一は彼らに向かって罵倒の言葉を浴びせかけるが、これは、広島と長崎に原爆を落としたアメリカに向けられた言葉というふうに捉えることもできるだろう。実際のところ、冷戦下の(核戦争の)危機は、日本にとっては、再びその国土に強力な爆弾が落とされるかもしれないという、具体的なリアリティの下で体感されていたように思える。

*1:手塚治虫の発言を参照すると、『鉄腕アトム』と『ジャングル大帝』という二つのアニメ制作からあぶれたスタッフの救済策として急遽企画されたのが『W3』であったらしい(「手塚治虫漫画全集 W3 第3巻〝あとがき〟より」、『手塚治虫劇場』、手塚プロダクション、1991年、26頁)。この点は、(虫プロのアニメーターだった)山本暎一の小説『虫プロ興亡記』(新潮社、1989年)でも同種のことが書かれている。ちなみに人数の内訳は、同書によれば、『ジャングル大帝』が150人、『アトム』が80人、『W3』が35人で、後二作品のスタッフの不足を「外注でまかなう」というものだったらしい(170頁)。

.hack//SIGN(2002年)

監督:真下耕一、制作:ビィートレイン、全28話(本編25話+総集編1話+番外編2話)

 

タイトルは「ドットハック・サイン」と読む。「Project .hack(プロジェクト・ドットハック)」という、ゲームを中心にしたメディアミックス的な作品群のうちのひとつ。アニメだけでも、その後に、『黄昏の腕輪伝説』(2003)、『Roots』(2006)など、いくつもの作品が続く。

 

こうした経緯ゆえに、この『SIGN』だけを見ても物語の全貌を把握することはできない。と言っても、それは、主に「ドットハック」世界の設定に関する部分であって、『SIGN』をひとつの閉じた物語として見ることも可能である。

 

SIGN』に特徴的なことは、ゲーム内世界と現実世界との間に、描写の上で、明確な差異を設定している点である。そこで描かれる出来事のほとんどがゲーム内世界のものであって、現実世界の事柄については、基本的に、キャラクター間の会話の中で示唆されるだけに留まっている。例えば、オフでキャラクター同士が会ったというような会話がされるとしても、実際にそうした描写が示されることはない。現実世界の描写がなされるときは、色を抜いた白黒の画面にホワイトノイズの効果が付されるという具合に、粗い画像として示される(このため、ゲーム世界内のほうが本当で、現実世界のほうが偽りという逆転した印象を与える)。

 

かと言って、ゲーム世界内の描写もかなり限定的なものに留まっている。そこにおけるファンタジー世界内の冒険、例えばモンスターとの戦闘やダンジョン攻略といったものは部分的にしか描かれない。中心に据えられるのはキャラクター間の会話であって、人気のない静かな場所で二人の人物が何か話をしているというシーンがこの作品には頻繁に出てくる。

 

この点で『SIGN』は、演劇的なアニメという印象を与える作品になっている。ここで厳密に「演劇的」という言葉の意味内容を定義しようとは思わないが、少なくとも言えるのは、必然的に会話の妙が際立つようになる演出ということである。多くの一般的なアニメにおいては、会話の流れのテンポを決定づけるために、キャラクターのちょっとした仕草やカット割りによってメリハリをつけているように思える。この点は基本的に『SIGN』も同じだが、キャラクターの動きもかなり抑え気味(顔のアップのショットが多い)の上に比較的長めのショットが目立つゆえに、どこか演劇的な印象を与えるのだ(こうした演出は、ある程度、真下耕一作品の特徴と言えるかもしれない)。

 

こうした演劇的な演出は、ゲーム内のキャラクターの背後に現実のプレイヤーの存在を浮かび上がらせるところで、その効果が最もよく発揮されているように思える。ここが、『SIGN』というアニメの独特な点であるだろう。この作品が最初から標的としているのは、ゲームをプレイしている人間たちのほうであって、ゲームプレイそのものに対してはあまり関心があるようには思えない。実際のところ、オンラインゲームでなされているのはゲームプレイを介したコミュニケーションである、というところで言えば、これは、それほど偏った見方とも言えない。だが、『SIGN』では、もっと極端に、現実の関係性を括弧に入れられる場所として、オンラインゲームの空間が理解されているように思える。

 

もちろん、だからと言って、現実の関係性が本当であって、オンラインゲーム上のそれは偽物であるといった考えが示されているわけではない。いわゆる「アバター」が仮面であるとすれば、現実の関係性において常に問われているのもまた仮面である。例えば、(主要キャラクターのひとりである)ベアはおそらく、自身の「父」という仮面から距離を取るためにオンラインの世界に入ったのだろうが、結局のところ、彼が最終的にその身に付与することになるのも同じ「父」のアイデンティティである。現実世界で満たされないものを虚構で穴埋めする、いわゆる「代償行為」という考え方が一面では真実であるとしても、そこで得られるとされる(部分的な)満足が仮面の効果である可能性については常に考慮に入れておくべきだろう。つまり、ベアの場合であれば、上手く「父」を演じられないという不器用さが彼にとっての(自身の欲望から距離を取るための)仮面なのだ。

 

SIGN』に見出されるオンラインとオフラインとの距離感は、90年代後半から2000年代にかけて特有のもの、つまりネットが普及し出した時代に固有のものなのかもしれない。現在、この距離はもっと狭まっているように思える。単にオンとオフを明確に分けられないというだけでなく、ネット上のコミュニケーションを無下に切り捨てることはできないという現実が存在するように思える。逆に言えば、『SIGN』には、いつでも気が向けばオンラインから切断できるといった気楽さ(当時の雰囲気)が表明されているように思うのだ。

 

その点では、主人公の司が抱え持つ、ゲームからログアウトできないという基本的な問題設定、言い換えれば、自身のよりリアルな実存が(現実よりも)ネット上に存在しているという肌感覚は、現在のわれわれのほうがより深刻な水準で実感している可能性がありうる。司は、父親からの家庭内暴力によってコミュニケーションに障害を負った(他人を容易には信用できなくなった)少女として設定されており、彼女が現実への帰還を果たすのは、ゲーム内で他の人物たちとの親密な交流を経ることによってだった(ベアに至っては、司の後見人を名乗り出るまでになる)。

 

ここにおいて見失われているのは、現実の社会的な関係性の強固さであり、それゆえにこそ、そうした関係性の外部を夢想させるような領域としてオンライン上の自己像が理想化されるという位階構造である。このとき、「理想化」と言っても、そこには、自身の社会的な属性を自嘲的に披露する(ネタ消費のうちにそれを還元する)という振る舞いも含める。あたかも自己の存在を一般化できるかのように振る舞えるのがネットの特性であるとしても、言い換えれば、ありふれた何かとして自分を示すことができるとしても、そうした一般性をどうしようもないものとして引き受けて生きざるをえないのは、やはり現実という場でしかないように思える。

 

日常の風景のうちに見出される最小限のギャップ――『はたらく魔王さま!』の感想

 『はたらく魔王さま!』のアニメを見ていて、いくつか気になる点があったので、そのことについてちょっと考えてみたい。


 このアニメは、魔王と勇者との闘いという類型的なファンタジーの形式を通して、現代日本社会の日常生活(戯画化された貧乏生活)を描いている作品だと言えるが、ここには、簡単に言って、魔王と勇者との闘いという大状況と、日本の都市におけるしがないフリーター生活という小状況との間に大きなギャップがある。まさに、この作品は、このような寸法の違い=ギャップを利用して、日本社会の現状のうちにひとつ違った角度からの視点をもたらしていると言える。


 単純に考えて、この大状況と小状況との間には、二つの視点の方向性が存在していると言える。ひとつは、この平凡な日常生活から、「ここではないどこか」という遠くの世界(異世界)を夢想するという方向性。取り立てて大きな出来事が起こらない平凡な日常生活から、何がしか大きな出来事を夢見るといった方向性がある。


この方向性は、現在のサブカルチャー作品の多くに見出される視点であり、この視点においては、まさに、主人公たちの平凡な社会的なポジショニング(その大半が中学生か高校生という学生)が一時的に括弧に入れられ、何かこの世界の危機・秘密・陰謀に関わるような巨大な出来事へと、ある種の使命の下、駆り立てられる。


 『魔王さま』においてはこのような類型的な作品設定にある程度は従いつつも、そこにおいて大きな出来事と見えたもの(魔王と勇者との闘いに象徴される善と悪との闘い)が、この日常生活の小さな関係性のうちに位置づけ直されてしまう。魔王は、その魔王という地位から行動するよりもむしろ、ファーストフード店のアルバイト店員という地位から行動するほうが、自らのアイデンティティにとって、つまりその存在の意味づけにおいて、極めて重要な価値を持つかのように振る舞う。ここにあるのが第二の方向性であり、それは大状況を経ることによって再び小状況のうちに戻ってくる視点(平凡だが穏やかなこの日常生活の価値を再発見する視点)の方向性である。


 魔王と勇者との闘いという物語自体がすでに旧時代的なものとして類型化され、それが持つ寓話的な意味合いのリアリティが薄れてしまっているという現状もあるだろうが、この作品において試みられているのは、「ここではないどこか」を夢想するまなざしがこの日常生活へと逆転して向けられる、そのような視点の転換である。


 このような日常への視点の転換、日常的な価値の強調という方向性は、ここ最近のサブカルチャー作品によく見出される傾向だと言えるが(とりわけ「日常系」と呼ばれる作品群において顕著である)、『這いよれ!ニャル子さん』のような異世界からやってきた他者たちを描く作品においても、そのような傾向を見出すことができるだろう。


ニャル子さん』におけるクトゥルー神話のモチーフは他者性の水準において極北であると言えるが、そこにおけるまったき他者性(「名状しがたい unspeakable」とか「名づけられない not to be named」というような否定形によって示されるもの)、想像不可能である極めて異質なものが、美少女キャラの装いの下、身近な日常生活のうちへと顕現する、というところがこの作品のギャグになっているところである。把握しがたいもの、捉えどころがないものが、極めて俗なもののうちへと(とりわけオタク的な想像力のうちに)変換される。このような変換行為のうちに狙われているのは、異質な他者性の馴致化、異質なものを身近なものへと想像的に同化させるといったこと以上に、むしろ、すでにここにある身近なもののうちにあるギャップ、身近であるがゆえに死角に置かれてしまっているようなものへの再認識といったものではないだろうか(それは、まさに、今日のオタク的な消費文化そのものの異質性、そうした想像力そのものの不気味さを改めて意識させることに繋がる)。


 同様の意味で、『魔王さま』は、異世界から他者がやってくることによって、この日常を何かしら非日常的なものへと変えるという作品類型に大筋は従いながらも、やはり、この日常のうちに見過ごされていたギャップに焦点を合わせるという視点が存在しているように思う。


 こうした微小な差異、微小なギャップ、(スラヴォイ・ジジェクがしばしば述べるような)「最小限の差異」は、例えば、マンガ『ドラえもん』の実質的な最終回である「さようなら、ドラえもん」のエピソードにおいて、ドラえもんのいなくなった部屋を「がらんとしちゃったよ」という言葉で表現しているときに示される、その空白と同様のものであるだろう。のび太の部屋それ自体は、ドラえもんが来る前も去った後も変化はない。しかし、ドラえもんの去ったあとには、部屋の中の空間部分が、何もないことそれ自体が強く意識されるようになる。ここに暗示されているのは、そこに何かが付け加わることによって初めてその喪失が意識されるような空白である。


 こうした喪失については、『魔王さま』のOPとEDにおいて明確に示されている。そこに描かれているのは、この作品の主要人物の中で唯一異世界の住人ではない佐々木千穂が、魔王を初めとした他の登場人物との間に見出す決定的な差異である。OPでは、魔王を初めとした異世界の住人たちが異世界の風景(魔王城)をバックに立ち並んでいるところに千穂が後ろから走ってやってくると、異世界の風景が現代日本の風景(魔王たちが住むアパート)へと変わる。EDにおいては、ショーウィンドウのうちに魔王たちの服(彼らが現代日本社会で生活しているときに着ている服)を着たマネキンが立ち並んでいるのをガラス越しに千穂が眺めている場面が描かれる。


 いずれにしても、千穂と他の登場人物との間にある差異が強調して描かれているのだが、この差異は、もちろん、彼女が魔王たちと出会う以前は意識することすらなかった差異だろう。これは再会と喪失を同時に示す差異だと言える。EDのショーウィンドウの場面について、次のような連想を働かせることが可能だろう。すなわち、ここで描かれているのは、前世で共に闘った仲間(「ソウルメイト」などとも呼ばれる)との再会といったオカルト話に顕著に示されるような忘却されていた記憶の想起の瞬間であり、また同時に、自分がかけがえのないものをすでに失っていたことに気づく瞬間である。彼女がこれまで日常生活を送っていたときにはその喪失に気づくことはない。しかし、ひとたびショーウィンドウのマネキンを見たときに、そこに決定的な喪失を実感するのであって、この意識が同時にまた、ガラスによって象徴される彼らと自分との隔たりを意識させることになるのである。


 このような再会と喪失というテーマは、まさに、セカイ系と呼ばれる一連の作品の主要なテーマだと言えるが、今日における問題とは、このような再会と喪失というある種すでに類型となってしまっている物語の枠からいかに抜け出し、そこからどのような新しい物語を生み出すことができるのか、といったことにあるだろう。


 例えば、類型的なセカイ系作品と見なすことができるようなアニメをこれまで作ってきた新海誠の最新作『言の葉の庭』はこのような問題系に貫かれた作品だったように思う。言い換えれば、『言の葉の庭』は、ある種のセカイ系批判を行なっていた作品だったように思うのだ。セカイ系からいかに脱却するかという試みについては、すでに前作の『星を追う子ども』においても行なわれていたと言えるが、『言の葉の庭』は、そうした脱却を「失敗したセカイ系」とでも言うべきものを描くことによって試みているように思う。


 『言の葉の庭』は、前半と後半で大きく話を分けることができる作品であるが、その後半が始まるのは、メインの登場人物である男女が、お互いに、その社会的なポジションと名前とを認識し合う瞬間からだと言える。それまで、その前半部において、新宿御苑の東屋で雨の降る午前中のみに会っていた二人は、言ってみれば、セカイ系における再会を果していた「きみとぼく」だったわけであり(二人がそのときに初めて出会ったとしても、そこでの出会いは再会である)、この東屋こそが二人にとっての永遠の約束の場所だったことだろう。しかし、二人の社会的なポジションが明確になり、それによって二人の関係性がはっきりと意識されるようになった後半部においては、そこで再会の経験は喪失してしまったと言える。つまり、その社会的なポジションが明らかになる以前、どこの誰かも分からないという状態だからこそ、ここには何かしら、ロマンティックな遠さの観念が生まれていたのであり、二人の関係が明確になって以後は、たとえ二人が実際に会っているとしても、そこには取り戻すことのできない決定的な喪失が存在する(二人が至上の幸福を実感する場面があるが、こんなふうに幸福を実感する瞬間こそ、その幸福の終わりを暗に意識している瞬間だと言えないだろうか)。その意味では、主人公がその後に経験する失恋は、単にその最初の喪失の反復でしかないことだろう(この点で、二人は約束の場所である東屋のうちでもう二度と出会えないのであり、二人の関係を繋ぐ靴は、その場所に永遠に捨て置かれるしかない)。


 この作品に見出されるセカイ系批判とは次のようなものである。まず第一に、遠さの観念がなくなったところから物語が(別言すれば人生が)始まるということ。第二に、物語(=人生)が開始されるためには、永遠の場所を放棄しなければならない、ということである。『言の葉の庭』それ自体が何かしら新しい物語を提示していたかと言われれば、そこまで十全に物語を展開していたとは言いがたいところがあるが、いずれにしても、そこにおいて強調されていたのは、「きみとぼく」という二者関係からの堕落(楽園からの追放という意味での堕罪)であり、まさに現にある社会的な人間関係のうちから物語を再開するということである。


 『魔王さま』に話を戻してみれば、この作品のメインの話は、OPやEDに示唆されているような遠さの観念はほとんど前面に出されずに、日常における戯れのみが描かれている。もちろん、そこには、類型化されたファンタジーの形式が大きな役割を担っており、言ってみれば、こうした類型を通して、日常における二重化された風景(ファンタジーの風景と現代日本の風景)が描かれていると言える。


 こうした二重化された風景については、『ソードアート・オンライン』(以下『SAO』)においても描かれていたが、この作品においてもまさに、隣の部屋にいる兄妹の関係性の距離感とオンラインゲーム上における二人の関係性の距離感といった形で、そのギャップが示されていたように思う。『SAO』が『言の葉の庭』と異なるのは、兄妹の関係性が明らかになった以後も、オンラインゲーム上での関係性が続くということである。


 『魔王さま』も『SAO』と同じような形で物語が展開していると言えるだろう。つまり、ファーストフード店のアルバイト店員の正体が魔王だと分かってからも、魔王はそのアルバイト店員の価値観の下で行動する。もちろんここには、アイデンティティのレベルにおいて、ズレが存在しているのであり、このズレをどのように考えるのかが大きな問題だと言える。


このズレ、このギャップを、ひとまず、自分自身とのズレと考えることができるだろう。 おそらく、このようなズレはネットの出現によって、より意識しやすいものになったと言えるだろうが、それを単に「ネット/リアル」のような二分法で簡単に分けて考えられるかと言えば、そうとも言えないだろう。一面においては、いまここにいる自分から距離が取れやすくなった時代だとも言えるが、逆から見れば、そんなふうに容易に距離が取れるからこそ、いまここにいる自分の重みがどうしようもなく逃れがたいものに実感されるようになった、とも言える。


 おそらく『魔王さま』に見出される解放感は、このような自己の存在の重みと関係している。例えば、『魔王さま』の物語を『SAO』のようなネットとリアルとの関係性に置き換えて考えてみたらどうだろうか。つまり、魔王とフリーターとの分裂をネットゲーム上の人格とリアルの人格との分裂というふうに考えてみたらどうだろうか。彼がフリーターとしての自己に同一化できているのは、まさに彼が自身の本性を魔王であることのうちに見出しているからである。つまり、彼が単にネットの世界では評判の高いフリーターだったとしても、そんなふうにネットの世界のうちに自己の本性を見出しているからこそ、リアルな自己との同一化が上手くできるようになっているのではないか、などと考えてみることもできる。


 しかし、上記したように、単純にネットとリアルというふうに物事を分けることも難しいだろうし、自分自身との最小限のギャップを意識するのもまた難しいことである。おそらく、多くの人が、『言の葉の庭』で描かれるような堕落(堕罪)として、自己自身との関係を実感しているであろう状況においては、『魔王さま』のように自己との同一化を果たしているのは、一種の諦念のように見えるかも知れない。しかし、『魔王さま』においても、やはりそこには遠さの観念が、つまり、この自己は仮の姿だという観念が残っているように思える。この遠さの観念をどのような水準に位置づけるのかがひとつ問題としてあるだろう。


 ネットの自由さは、『SAO』の最終回が示していたように、いつでもどこでもログインすることができるところにあると言える。失われていたと思っていたものを再び自分たちの上空に出現させることもできる。むしろ、そこに遠さの観念がある限り、約束の場所は決してなくならないことだろう。しかし、そこに立ち現れるのは、休日の晴れた午後の新宿御苑でしかないのかも知れない。だが、重要なのは、この午後の新宿御苑そのもののうちに最小限のギャップを見出すことだ。当たり前のことだが、雨の降る休日午前の新宿御苑そのものが永遠の場所であるわけではない。雨の新宿御苑は、晴れた新宿御苑のうちにすでに存在している最小限のギャップを思い起こさせるための迂回路、遠さの観念だと言える。


 六畳一間のアパートを「魔王城」と呼び、アルバイトに行くための自転車を「デュラハン号」と呼ぶこと。ここにあるギャップはもちろんギャグであるわけだが、六畳一間のアパートに住んでアルバイト先のファーストフード店に行くために自転車に乗るような人が実際にいたとしても(実際にいるだろうし、様々なヴァリエーションの生活を無数に想像することが可能であるが)、そこには何かしら、自己とのギャップが存在しているはずなのだ。いったい自分は自分の住んでいる家や部屋を何と呼び、自分が通勤や通学に使っているものを何と呼んでいるのか。そこに名前がないとすれば、そこにある「名状しがたいもの」こそが日常生活における死角を構成していると言える。このギャップのうちにこそ、自分にとっての生の場があるのだ。

セカンドアフター公式ust 第4回 :『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 を中心に2012年を振り返る

日時:2012年12月22日(土)21:30〜
参加者:てらまっと(@teramat)さん、ピアノナイク(@PIANONAIQ)さん、他
司会:志津A(@ashizu)
会場:セカンドアフター公式ust



先日の文フリで増刊号『セカンドアフターEX2012』を買っていただいたみなさん、ありがとうございました!


もう今年も残りわずかとなってきましたが、週末研の忘年会会場からustの放送をお送りしたいと思います(「週末研とは何ぞや?」という方はこちらを参照してください)。


『ヱヴァQ』については、すでに多くのことが語られていると思うので、何かこれ以上新しいことが語れるのかどうか分かりませんが、ネタバレありでいろいろと語っていきたいと思います。


他に、時間に余裕があれば、アニメを中心に2012年を振り返るということもやってみたいと思います。


忘年会会場からの放送ということで、参加者や内容等、いろいろと流動的になることが予想されますし、何かトラブルも起こる可能性もありますが、ご了承ください。


いつもの宣伝になりますが、同人誌『セカンドアフター』の第1号と第2号は、委託通販しておりますので、興味のある方はぜひ、お求めください。→こちら


それでは、当日は、よろしくお願いします。