盲点と弱い因果性――『ドライブ・マイ・カー』から『納屋を焼く』を読む

 今回は、村上春樹の短編小説『納屋を焼く』(1983)を検討してみたい(新潮文庫『蛍・納屋を焼く・その他の短編』所収)。

 

 春樹の小説は、昔から好きで、一時期(もう20年くらい前になるが)、知り合いと「村上春樹研究会」と題した読書会をやっていたこともあった。長編小説を中心に、春樹の小説を年代順に読んでいくという試みで、確か『1Q84』あたりまで読んだと思う。しかし、ここ最近はご無沙汰状態で、春樹の新作も読んでいない。

 

 そんな中、ふと思いついたことがあって、かなり久しぶりに『納屋を焼く』を読み返してみた。改めて読んでみても、やはりとても面白い。小説に謎めいた部分があり、それが読了後も、ずっと頭の中に残っていく。何かが引っかかっている。そうしたもどかしさが、この小説自体の魅力になっている。

 

 この短編小説の主題とは何か。端的に言ってしまえば、それは「暴力」だろう。

 

 村上春樹の小説に関して、しばしば「暴力」という観点から論じられることがある。『羊をめぐる冒険』、世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』、『1Q84』。地下鉄サリン事件の被害者へのインタビュー集である『アンダーグラウンド』もそうだろう。

 

 春樹の多くの作品において暴力が取り扱われているとしても、そこには、あるひとつの傾向があるように思われる。それは、直接的な暴力ではなく、間接的な暴力が描かれるというものだ。

 

 ここでいう「直接/間接」というのは、因果関係がはっきりしないということである。

 

 何らかの暴力がそこで発生していること自体は間違いないとしても、加害者と被害者の関係性がはっきりしない。誰かが誰かを殴ったとか、そうしたわかりやすい形で事件が起きることは稀である。そうではなく、意図しない仕方で自分が誰かを傷つけていたとか、逆に、知らないうちに自分が誰かに暴力を奮われていたといった事態が描かれる。こうした意味において、そこで示されるのは、「弱い因果性」なのである。

 

 僕が『納屋を焼く』についてふと思い出したのも、こうしたぼんやりとした因果関係についてちょっと考えてみたいと思ったからである。つながっているのかつながっていないのか、よくわからない、弱い関係性について。

 

 

 『納屋を焼く』の話は、かなりシンプルだと言える。というよりも、そもそも何かが起こっているのだろうか。何かが起こっているのか起こっていないのか、それすらも判明ではないという、ぼんやりとした話なのである。

 

 主人公(語り手)の「僕」が知り合った若い男の奇妙な話がこの短編小説の中心にある。この男は、定期的に納屋を焼いているのだという。

 

 主人公は、その話を聞いてから、本当に納屋が焼かれるのかどうかが気になって、毎日の日課として、ジョギングをしながら、近所の納屋をチェックする。しかし、いつまで経っても納屋は焼かれない。

 

 しばらくして男と再会した主人公は「結局、納屋を焼いたのか」と聞いてみる。男は「焼いた」と答える。主人公は、毎日納屋をチェックしていたのに、なぜそれを見逃していたのだろうか。物語は、この疑問点に対して、特に明確な答えを与えないまま、宙ぶらりん状態のまま終わる。

 

 結局のところ、何がどうなったのか、よくわからない。よくわからないからこそ、いろいろな推察の生じてくる余地がある。

 

 ひとつの注目点として、人間関係がある。

 

 例えば、主人公は既婚者であるが、妻の存在は影が薄い。妻があたかもいないかのように書かれている。こういうところが大きなポイントだろう。

 

 他の登場人物としては、女友達とその彼氏がいる。この彼氏が「納屋を焼いている」と言っている男である。

 

 主人公と女友達は、恋人のような関係性と言えるのかもしれない。しかしそれは、作中においては、取り立てて恋愛的なものとしては語られてはいない。この女性にはたくさんのボーイフレンドがいて、主人公もその中のひとり程度の扱いである。主人公の言によれば、納屋を焼いている男が、彼女の最初の「きちんとした形の恋人」(55頁)だった。

 

 おそらくこの三角関係とも言えない三角関係が、この短編のキモなのだろう。しかしそうだとしても、一般的な三角関係とは異なる。つまり、異性を間に挟んだ同性同士の対立というのではなく、むしろこの同性同士(この場合で言えば主人公と男)の同質性が問題になっていると言える。

 

 男が主人公に納屋を焼く話をするときのシチュエーションが興味深い。主人公の妻は、どこかに出かけていて不在である。そのときに女友達と男が主人公の家を訪ねてくる。食事をした後、女友達は眠くなって、二階の部屋で仮眠を取る。残った主人公と男が大麻を吸いながらくつろいでいるときに、突然、男が「時々納屋を焼くんです」と話し出すのである。

 

 この短編小説をどう解釈したらいいのだろうか。

 

 

 もしかしたら、男が言う「納屋を焼く」というのは、文字通りの意味ではなく、何か別のことを表現しているのかもしれない。そうした可能性もほのめかされていると言える。

 

 この短編小説の終わりで、主人公は女友達と連絡がつかなくなる。女友達が主人公の前からいなくなったこと。それが男の言う「納屋を焼く」と関係しているのかもしれない。そうだとすれば、それは、殺人か何か、そうした犯罪行為をほのめかしている可能性もある。

 

 しかし、このようなミステリー的な連想は、間違った推測だろう。というのは、どこか作者自身が、読者にそのように思わせたがっている(ミスリードさせている)ところがあるからだ。言い換えれば、最も重要なことは、そこに謎があるとしてもそれは、最初から答えを与えることを拒んでいるような謎だ、ということである。

 

 答えが与えられないまま、主人公は、宙ぶらりん状態で、日常生活を送り続ける。人間関係が突然ぷっつりと切れて、彼ら彼女らの代表していた「意味」が、その後に、何の結びつきも持たなくなる。こうした切断が、この短編小説において重要なものとして示されているように思えるのだ。

 

 ぼんやりとした因果関係、弱い因果性ということで言えば、主人公が「納屋を焼く」ことに強い興味を持ったからこそ、女友達との関係性が切れたのかもしれない。そもそも、なぜ主人公は男の話にあれほどの興味を持ったのだろうか。

 

 主人公が以下のように考える箇所がある。

 

時々僕は彼が僕に納屋を焼かせようとしているんじゃないかと思うことがあった。[…]たしかに僕は時々、彼が焼くのをじっと待っているくらいなら、いっそのこと自分でマッチをすって焼いてしまった方が話が早いんじゃないかと思うこともあった。だってそれはただの古ぼけた納屋なのだから。(74頁)

 

 ここには、はっきりとした鏡像関係、同一化が見られる。春樹の小説では、しばしば、ある種のコンビのようなものが描かれることがあるが(初期作品における「僕」と鼠がその最たるものだが)、そうしたものの形成がここでは問題になっているのかもしれない。

 

 つまり、弱い因果性の水準においては、女性を括弧に括り、脇に置いておくことによって可能となるような、男性同士の関係性がある、ということである。

 

 こうした男同士の関係性について考えるために、春樹の別の短編小説をちょっと参照してみたい。それは、2021年に映画化された『ドライブ・マイ・カー』(2013)である(文春文庫『女のいない男たち』所収)。

 

 

 『ドライブ・マイ・カー』でも、『納屋を焼く』と似たような、人物関係が問題になる。主人公の家福とその妻、そしてこの妻と不倫関係にあった高槻という男の三角関係が示される。

 

 家福は、妻の死後、なぜ彼女が他の男たちと寝ていたのか、その理由が知りたくて、高槻に接近する。あからさまな話はしないで、一時的に疑似的な友人関係を築こうとする。ここにも、女性を括弧に入れた形で成立する男同士の友愛関係の成立が試みられている(しかしながらそれは当然、破綻する)。

 

 『納屋を焼く』と少し違うところは、主人公が高槻に対して、敵意をはっきりと表明している点である。家福は、何らかの形で、高槻に復讐できないかと考える。悪意を持った計画がいくつか練られはする。しかしそれが実行に移されることはない。

 

 家福がそう言っているように、高槻との関係は基本的には良好で、二人は本当の友達になれたかもしれない。しかし家福はそれを「演技」の水準に留め、家福のほうからこの関係をぷっつりと途切れさせる。高槻に二度と連絡しなくなったのだ。

 

 家福と高槻の関係は、やはり、鏡像的なものであるように見える。家福にとって高槻は、自分にない何かを持った人物として想定されている。しかしそれは、高槻にとっても同じだったろう。家福は何よりも高槻の愛した女性の夫なのだから。つまり、家福が高槻に向けるまなざしのうちには、それが自分自身に跳ね返ってくるところがあるのだ。

 

 高槻について語った以下の家福の台詞は、彼が自分自身について語っているものと読んでも、そうおかしくはないだろう。

 

でも、はっきり言ってたいしたやつじゃないんだ。性格は良いかもしれない。ハンサムだし、笑顔も素敵だ。そして少なくとも調子の良い人間ではなかった。でも敬意を抱きたくなるような人間ではない。正直だが奥行きに欠ける。弱みを抱え、俳優としても二流だった。それに対して僕の奥さんは意志が強く、底の深い女性だった。時間をかけてゆっくり静かにものを考えることのできる人だった。なのになぜそんななんでもない男に心を惹かれ、抱かれなくてはならなかったのか、そのことが今でも棘のように心に刺さっている(68頁)

 

 家福は、高槻との会話の中で、「盲点」という言葉を持ち出す。「僕は彼女の中にある、何か大事なものを見落としていたのかもしれない。いや、目では見てはいても、実際にはそれが見えていなかったのかもしれない」(59頁)。これに対して高槻は、こう応答する。「もしそれが盲点だとしたら、僕らはみんな同じような盲点を抱えて生きているんです」(60頁)。

 

 家福は、自分に足りなかったものとは何か、妻は自分の何に不満を抱いて他の男と寝ていたのか、それを知りたかったのだろう。しかしおそらく、自分の中に足りないものがある、逆に言えば他の男(高槻)には満ち足りた何かがある、という発想それ自体が「盲点」を作り出すのではないだろうか。

 

 家福が高槻のうちに想定している「充実」が自分自身の「欠如」の裏返しであり、それに自分では気がついていないということ。それこそが盲点そのものである。

 

 

 結局のところ、『ドライブ・マイ・カー』もまた、謎が謎のまま残る話、決定的な解決が与えられず、宙ぶらりん状態のままで終わる話だと言える。

 

 解決が存在しないのは、そもそも間違った問いかけがそこでなされていたからだ。同じように『納屋を焼く』もまた、間違った問いかけによって答えが与えられないまま放置された話であるように思える。

 

 しかしそうだとしても、では、正しい問いかけはどこにあるのかと言われれば、そんなものもないのかもしれない。正しい問いかけは、間違った問いかけを通してしか、答えのなさからしか導き出されないだろう。

 

 この場合の「正しさ」とは、漠然とした方向づけという程度のものである。こちらがダメだったのだから、あちらのほうへ。ここじゃなかったのだから、別のところへ。その程度の方向転換でしかない。

 

 「盲点」との関連で言えば、『納屋を焼く』はまさに盲点についての物語だと言える。主人公は、焼いた納屋を見落とす。すべてを見ているようであったとしても、見落としが生じる。

 

 言ってみればそこには、自意識の外とでも言うべき領域があるのだ。納屋を焼いている男は言う。「近すぎるんですよ」と。

 

 この「近さ」というところに、おそらくは、暴力が生み出される余地がある。盲点と暴力の間に関連性がある、ということだ。弱い因果性によって、盲点と暴力がつながっている。

 

 このような形での暴力を停止する方法があるとすれば、それはやはり、人間関係のうちでしか、発見できないだろう。つまり、問われているのは、他者の存在なのだ。

 

 『納屋を焼く』や『ドライブ・マイ・カー』で問われている他者とは女性である。どこか蚊帳の外に置かれているように見える女性との関わりのうちに断絶の根がある。

 

 『納屋を焼く』においては、不在の妻の存在がもっとも謎めいている。主人公が強迫神経症的な仕方で、すべての納屋を毎日チェックしたとしても、納屋は焼け落ちた。このような彼の「盲点」は、妻との関係における決定的な欠落を示唆しているように見える。

 

 

 最後にひとつ話を付け加えたい。

 

 春樹は、自分の小説の傾向に関して、「デタッチメント/コミットメント」という対立する言葉を持ち出して特徴づけている(『村上春樹河合隼雄に会いにいく』)。簡単に言ってしまえば、それまでデタッチメントの小説を書いていたのが、次第にコミットメントの小説に変わっていった、という話だ。

 

 デタッチメントとは、社会的な関係性から距離を取るということである。とは言え、ここに厄介さがあるのだが、デタッチメントが「関わりのない状態」を指す言葉だとしても、それは、春樹の小説においては、「関わらない」という仕方で関わる状態が描かれる。

 

 盲点とか弱い因果性の問題は、こうした意味でのデタッチメントの態度を指しているように思われるのだ。

 

 それでは、コミットメントは、積極的に社会的な関係性を構築していくことを指しているのか。ここにも難しさがある。

 

 ひとつヒントとなるのは、『ドライブ・マイ・カー』において、女性に運転を任せるという転換点が示されている点である。これは、自分の盲点を他人に預けるようになった、と言えはしないだろうか。

 

 自分ですべてを運転するのをやめた。すべてを自分でコントロールできると思うのをやめた。そうした変化が描かれているように思える。

 

 これがコミットメントだとするならば、それは、どんな形であれ、人は人と関係を持ってしまう、つまり自分が望んでいない形で相手にメッセージを送ってしまう(相手を傷つけてしまう)というコミュニケーション上の難点を抱えているという条件を引き受けることだと言えるだろう。

意味からの逸脱としてのナンセンス――つげ義春の夢マンガについて

 前回のエントリで映画『インサイド』を「脱出」という観点から論じたが、今回もまた、この「脱出」という主題を推し進めてみたい。

 

 今回、取り上げたいのは、つげ義春のマンガ、その中でも夢を題材にした作品群である。

 

 『ねじ式』(1968)が代表作であるが、つげ義春には、彼が実際に見た夢を元にした作品がいくつかある。夢がそうであるように、話のまとまりがあまりなく、物語の展開にいくつもの飛躍があるような、そうしたマンガである。

 

 「脱出」という主題で言うならば、つげ作品には、失踪もの(蒸発もの)とでも呼べるようなマンガもある。そこで描かれているのは、現実生活からの逃亡だ。しかし、これらのマンガでは、単に逃げることよりも、むしろ「逃げ切れない」という事態が描かれることのほうが多い。

 

 『ゲンセンカン主人』(1968)が特にそうだが、逃げ切ったと思ったとしても、後から自分を追う者がやってくる。逃げても逃げ切れない。自分を追ってくる者がいて、それに最終的には捕まってしまう。

 

 こうした感覚で問われているのは、端的に言えば、罪責感だろう。罪の意識をどこかに抱えているからこそ、その重圧から何とか楽になりたいと思い、逃亡しようとする。しかし、罪の意識を感じているのは、他ならぬ自分自身なのだから、単に場所を移動しただけでは、罪責感から逃れ去ることはできない。自責の念はどこまでも自分を追いかけてくる。

 

 つげ義春自身、実際に、そのような失踪経験があったことを「蒸発旅日記」というエッセイ(『貧困旅行記』所収)で書いている。一度は電車に乗って、遠くの土地に行ったとしても、そこに居つくことはできなくて、結局のところ、帰ってきてしまうという話だ。

 

 こんなふうに元の場所に戻ってしまう空回りの経験は、『ねじ式』でも描かれている。それは、主人公の少年が汽車に乗って隣村に行こうとしても、結局同じ村に戻ってしまう、という場面だ。少年は言う。「ああ、ぼくはなんて無駄な時間をつぶしてしまったのだろう」。

 

 こんなふうに、全般的に言えば、つげ義春のマンガでは、「脱出」が課題になっているところがあるとしても、それは、失敗を運命づけられているものとして、そうなっているのである。

 

 

 まず、『夜が掴む』(1976)と『外のふくらみ』(1979)を見てみよう。これら2作品では、ある点において、とてもよく似た状況が描かれている。それは、「外」が部屋の中に侵入してくるという事態である。

 

 通常、何かから「脱出」するといった場合、それは「内」から「外」へ出ていくことである。その意味で言えば、これら2つのマンガで描かれるような、「外」が「内」に侵入してくるというのは、とても奇妙な事態だと言える。「内」と「外」の境界がズレているというか、別の仕方での線引きがそこで行われようとしているのだ。

 

 安全であるはずの家、「外」とは隔絶されているはずの家が、もはや安全な場所ではなくなり、そこは「外」が侵入してくる危険な場所になっている。

 

 『夜が掴む』において家の中に侵入してくるのは、厳密に言えば、「外」ではなく「夜」である。しかし、「外」が部屋の「内」に侵入してくるというシチュエーション自体は同じだと言える。

 

 部屋に侵入してくる「夜」は何らかの不安を象徴しているように読める。主人公の男が抱えている問題があり、その予感が「夜」に対する警戒という形を取る。男は言う。「おきているときはなんでもなくとも、無意識の状態で眠っていたら、そのスキに入ってくるじゃないか」。

 

 実際、物語の最後において、パートナーに出ていかれて孤独になった男の足を、部屋に侵入してきた「夜」が掴むのである。

 

 『外のふくらみ』では、侵入した「外」に対して、主人公は、逆に積極的な行動を取る。つまり、侵入した「外」を潜って、家の外に出ていくのである。だが「外」に出たとしても、主人公の抱く不安は拭い去れない。彼は、地下道で迷い、出口を探し求め、最終的には階段のある狭い空間にはまり込み、そこで身動きが取れなくなる。

 

 つげ義春の『夢日記』(新潮文庫つげ義春とぼく』所収)を読んでみると、このマンガの内容は、つげが昭和43年(1968年)12月に見た夢が元になっているようだ。その記述には、つげが感じた不安や焦燥感がより鮮明に認められる。

 

 ふくらんだ「外」に出ようとするときには「呼吸ができず窒息しそうになる」(45頁)。また、地下道で出口を求めているときには「遠くに出口のあることがわかっているが、つのる恐怖にできるだけ近道をえらぼうとする」(46頁)。そして、階段にはまって動けなくなってしまうところでは「小さな穴から地上の光が見えるが、どうにもならず、自分がこんな穴の中にいることは、誰にも気付かれることなく、このまま死ぬのかと思うと絶望的になる」(46頁)。

 

 これら2作品では、結局のところ、「脱出」の試みは失敗したわけだ。

 

 しかし別の観点からすれば、こんなふうに夢を元にした取り留めのないマンガを描くこと自体が、ひとつの「脱出」の試みだと考えられなくもない。それは、「意味」の拘束から離れて、「非意味(ナンセンス)」の領域に逃れようとする試みだと言える。

 

 

 つげ義春の別の夢マンガ『ヨシボーの犯罪』(1979)を見てみよう。

 

 そこでは、犯罪行為を隠そうとする主人公(ヨシボー)の姿が描かれる。彼は証拠隠滅のために画策する。そのような仕方で、罪責感からの逃走が描かれる。

 

 ヨシボーは、他人の目を気にする。あらゆる他人の目が、彼の犯罪行為を咎める目になっている。従って、彼の逃亡とは、こうした人々の目から逃れる行為だと言える。

 

 しかしながら、この短編マンガは、興味深いことに、途中で横滑りをする。当初の(証拠隠滅という)目的が忘れ去られて、それに伴って罪責感や不安感もどこかに行ってしまう。最終的にはある種の快活さが戻ってくるのである。

 

 ヨシボーを見る他人の目もまた、自転車に乗る彼の「颯爽とした様子」に驚く目に変化している。つまりこの瞬間では、彼は自分の姿をむしろ他人に見せつけたいのだ。

 

 最終的に古い民家や温泉を見つけて興奮した彼は「ああ、嬉しくなっちゃった。よし、みんなに教えてあげよう」と呟いて、帰っていくのである。

 

 『ヨシボーの犯罪』によく示されているように、夢はしばしば、話の展開を横滑りさせる。あるシチュエーションから別のシチュエーションへと、はっきりとした脈略もないまま、ぬるっと移行したりする。

 

 『ヨシボーの犯罪』が興味深いのは、こうした横滑りに伴って、主人公の気分にも変化が生じている点である。

 

 主人公が行き詰まり状態のままであり続ける他のつげ作品とは違って、この短編マンガでは、「脱出」が成功しているように見える。もちろん、厳密に言えば、それは単なる一時的な気晴らしのようなものなのかもしれないが。

 

 しかしながら、横滑り的な展開が、脱出に向けてのひとつの模索だというふうに考えることもできるだろう。つまり、つげ義春の夢マンガで試みられているのは、話の道筋をどうやって逸脱させて別の方向にもっていくのか、ということなのである。

 

 逆に『ねじ式』では、それほどの横滑り感はない。というのは、血管から流れ出る血をどうにかしなければならないという課題が最初に示され、この状態を改善してくれる医者を求めた末に、最終的には治療されるという物語上のまとまりがあるからだ。

 

 しかし、実際のところ、『ねじ式』にも、そうした中心的な物語の展開とはほとんど関係のない挿話が随所に見られる。その点では、やはりこのマンガでも、脱線や逸脱が試みられているように思われる。

 

 

 つげ義春の夢マンガによく似たナンセンスな作品の例として、次に、さくらももこの初期の短編マンガを検討してみたい。『神のちから』(1992)に収録されている「それてゆく会話」である。

 

 このマンガでは、2人の男が取り留めのない会話をしている姿だけが描かれる。話題が次々と移り変わっていって、話の文脈や脈絡がなくなっていく。「〇〇といえば」という形で、前の話の一部が次の話題の始まりになる。ただそうした話の連鎖だけがあり、このマンガ全体を通して、何か結論が出てくるわけではない。つまり、続けようと思えばいくらでも続けられる話をしているだけなのである。

 

 このマンガでは何が試みられているのか。もちろん、これは、ギャグである。そこでのおかしさは、話の部分部分の要素が全体のまとまりのうちに回収されていくという物語の基本構造をズラしているところから生じている。簡単に言ってしまえば、無限に横滑りしていく運動自体が、ナンセンスなギャグになっているのである。

 

 別の言い方をすれば、このさくらのマンガにはメタ視点がない。話の横滑りを俯瞰的に見て、それらを総合するような視点、限られたページ数に描かれた会話の有限性、それに決定的なオチ(意味)を与えるような視点は存在しない。

 

 もちろん厳密に言えば、このマンガを描いた作者の視点がそこにあり、同じ話が二度繰り返されていることを密かに数えているメタ視点は存在する。しかしこの視点を作中人物が自覚することはなく、同じ話を繰り返したのも単なる気のせいということになって、流されていく。これがオチになっている。

 

 ちなみに、少し前に別の場所で公開した僕の「さくらももこ論」において、ナンセンスという観点から、さくら作品のギャグについて論じた(箇所がある)ので、興味のある方は参照してみてほしい。

 

note.com

 

 つげ義春の夢マンガにも、確かにそこにはオチがある。しかし、『ヨシボーの犯罪』がそうであるように、夢の本質を横滑りに見るとするならば、それはいくらでも展開させることができるだろう。

 

 夢のナンセンスな展開を終わらせるのは、結局のところ、その夢からの目覚めというメタ視点(いわゆる「夢オチ」)を獲得することによってでしかない。

 

 

 議論を整理するために、ここで、ナンセンス(非意味)と意味を対比的に位置づけてみよう。

 

 そもそも、話が「理解」されるというのは、どのような経験なのだろうか。それは、要素同士のつながりが明確になるということ、要素間のつながりに必然性があると思えることではないだろうか。

 

 このつながりの感覚が「意味がある」と思える経験であり、「理解」をもたらす経験だと考えられる。

 

 これに対して、ナンセンスの経験とは、逆に、要素間につながりが見出せないこと、仮にそこにつながりがあったとしても、そこに必然性が見出せないことだと言える。

 

 要素がバラバラで、つながりが薄く、展開が横滑りしていって、まとまりに欠け、オチらしいオチもないということ。こうした状態が「意味がわからない」とか「理解できない」といった感覚を生じさせる。

 

 もちろん、精神分析家のフロイトが論じていたように、われわれが普段見る夢は、そこに何の意味もない不条理な産物のように思えたとしても、夢を見た当人の連想を辿っていくと、その人物がその日にその夢を見た必然性、夢内容の明確な「意味」というものが明らかになってくる。

 

 だが、夢を素材にしたフィクション(例えばマンガ)の場合、作者にとってはその要素に様々な連想が働くかもしれないとしても、読者にとってはその連関は明確ではない。それゆえにそこには、不条理さという印象が際立つことになる。

 

 

 改めて『夜が掴む』や『外のふくらみ』について考えてみると、これらのマンガに行き詰まりの感覚があるのは、ナンセンス的な横滑りが、ある時点において、停止しているからである。特に『外のふくらみ』がそうであるように、主人公が移動できず、身動きが取れなくなると、それ以上の展開の仕様がない。

 

 逆に考えれば、ナンセンスとは飛躍である。前後の脈略を大きく飛び越えて、大胆な移動ができる、ということである。

 

 だから、ナンセンスにおいては、本質的に、行き詰まりは存在しないと言える。どんな時点においても、横滑りしていって、別の移動の系列を生じさせる余地が残っているということになる。

 

 だとすれば、「脱出」の可能性とは、常に、あるシチュエーションとは別のシチュエーションへと脈絡なく移動できる軽快さに依拠していると言えるだろう。それは、さくらももこのマンガがそうであったように、脱線し続けることによっていくらでも雑談を続けられるという、その継続性への信頼にも依拠している。

 

 どこまでも逸脱していって、それを果てしなくいつまでも続けられるということ。これこそが脱出可能性そのものであるだろう。

創造性の解放としての「脱出」――映画『インサイド』について

 しばらく前に、『インサイド』(2023)という映画を見た。

 

 映画を見終わってから、僕は、自分が以前に書いた文章のことを思い出していた。2022年に書いた「ニヒリズムの微光の下で」という論考である(『セカンドアフター vol.4』所収)。

 

secondafter.hatenablog.com

 

 この論考の中で僕は、いくつかの観点から、2021年のカルチャーを取り上げた。そのひとつの観点が「脱出」である。

 

 「脱出」を論じるにあたって中心的に問題にしたのは『Sonny Boy』(2021)というアニメである。これは異世界転移型の漂流もの(学校ごと異世界に転移してしまう)であり、その意味では、そこで課題になっていたのは「脱出」というよりも「帰還」だったと言える。しかし僕は、そうではなく「脱出」が問題なのだ、と主張した。

 

 「帰還」と「脱出」では何が違うのか。細かい話になるので、ここでは説明しない。簡単に言ってしまえば、「脱出」という言葉で問われているのは、社会的現実の圧力からどうやって逃れるか、ということである。

 

 「脱出」という主題を考えるにあたって、論考の中で僕は、いろいろなフィクション、特に映画作品を参照した。それは、シチュエーション・サスペンスとでも呼ぶべき作品群で、デスゲームものでもある。

 

 主人公たちが、理由はよくわからないが、どこかに閉じ込められていて、何らかのゲームをするように強いられる。そういう作品群である。

 

 このジャンルの代表作に『キューブ』(1997)がある。『キューブ』は、多数の立方体からなる巨大な構造体に閉じ込められた人々が、そこから脱出しようとする物語である。

 

 興味深い点として『キューブ』では、なぜ彼らがそこに閉じ込められたのかという背景的な説明がほとんどなされない。ただシチュエーションだけが示されて、脱出に向けた過程だけが描かれるのである。

 

 こんなふうに、シチュエーションが極度に限定されていて、かつ、背景の物語が乏しい作品は、ある種の哲学的な問いを投げかけているように思えるところがある。

 

 サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』がそうであるような、形而上学的な文学作品に通じるところがある、ということだ。この戯曲では、誰かを待ち続けるという限定的な状況だけが示されることで、神の不在という状況下において行き場所を失った人間の姿が寓意的に描き出されていた。

 

 こうした点から言って、映画『インサイド』もまた、「脱出」を主題にした形而上学的な作品と見なせるところがあるのだ。

 

 

 『インサイド』は、美術品の泥棒である主人公のネモが、富豪の邸宅(高層ビルの屋上のペントハウス)に飾られている作品(エゴン・シーレの絵画)を盗み出そうと潜入するところから始まる。家の持ち主は海外出張で長期間留守にしているらしい。

 

 絵を手に入れて逃げ出そうとした矢先、セキュリティの誤作動によって、ネモは部屋に閉じ込められてしまう。誰もやってくることがないまま、何週間も、彼は部屋の中でひとりで生活し、そこから抜け出す方法を模索し続ける。最終的にネモは、天窓を破壊して、そこから外に出ていく。

 

 こんなふうにストーリー自体はとてもシンプルである。登場人物も実質的に主人公しかいないし、必然、台詞も少ない。

 

 しかし、シンプルであるからこそ、この映画の寓話性が際立つ。そしてそれが何を寓意しているのかを考え出すと、とたんに難しさが生じてくる。

 

 もちろん、ここで生じる難しさは、作品を見ている側の「解釈」の問題だとも言える。脱出までの過程を描いたサスペンス映画と見れば、そこには大した深みはない。

 

 そうは言っても他方で『インサイド』は、いろいろと謎めいたほのめかしが散りばめられている映画でもある。そうした要素をつなげて考察していけば、何らかの奥深い意味を発見できるかもしれない。

 

 しかしここではそうした「考察」ではなく、この映画の寓意性からどのような解釈を引き出せるかについて考えてみたい。

 

 

 まず、素朴な問いを提起してみよう。この映画のタイトルが示す「インサイド」とは、何の「内側」なのだろうか。

 

 もちろん映像に示されていることを言えば、それは、部屋の内側である。しかし、寓話として考えれば、どうか。

 

 僕の解釈とはこうだ。それは「他人の頭の中」ではないのか。

 

 ネモが侵入した部屋には美術品を始めとして、多くの物品が置かれている。こうした品々は、その持ち主がどのような人間であるかを示す断片の集積である。そうした意味で、他人の部屋に入るというのは、そこに住んでいる人の頭の中を覗いているようなものだと言えるところがある。

 

 他人の頭の中に入って、ネモは何をするのか。彼が最初に目的としていたのは「盗み」だ。寓意的に言えば、それは、他人の創造性を盗むということになるだろう。

 

 この意味で、『インサイド』で真に問題になっているのは、芸術における創造性であるように僕には思えたのだ。

 

 最初ネモは、他人の頭の中に入って、その創造性を盗もうとする。それは、一種の盗作行為のようなものである。しかし、次第に彼は、自分オリジナルの創造力に目覚めていく。そうした物語がここでは展開されているように思えたのだ。

 

 映画の冒頭に、次のような印象的な台詞がある(この言葉は最後にも繰り返される)。

 

子供のころ、先生が聞いた。「家が火事になったときに3つのものを持って逃げるとすれば、何を持っていくか?」。私はこう答えた。「スケッチブック、AC/DCのアルバム、そして猫のグルーチョ」。もちろん他のほとんどの子供たちは、両親だとか姉妹だとか言ったが、私はそうは言わなかった。これで私は悪人ということになるのだろうか。猫は死んだし、AC/DCのアルバムはコジョって奴に貸したら二度と戻ってこなかった。でもスケッチブックは残っている。猫は死に、音楽は消え去る。でも芸術はずっとある(art is for keeps)。

 

 実際この言葉の通り、ネモが時おり、小さなメモ帳のようなものに鉛筆で絵を描いているシーンが何度か出てくる。ここから以下のような推察が成り立つ。

 

 ネモは、芸術家を志していた時代、少なくとも、絵を描くことを始めとした何らかの創作活動に打ち込んでいた時期があったのではないだろうか。そして、それをある時に断念したがゆえに、芸術作品を盗み出す仕事をするようになったのではないだろうか。オリジナルの芸術作品を作り出すのをやめて、他人の創作物を盗むようになった、ということである。

 

 そうした意味で、この映画は、ネモが「盗むこと」から再び「創ること」へと移行する過程を描いていると解釈できる。

 

 どんな人であっても、ゼロから何かを作り出すことはできないだろう。まずは他人の作品の模倣から出発するのではないだろうか。作品を「盗む」という行為は、そうした模倣行為を示唆しているようにも思える。

 

 こうした意味で、ネモはまず「他人の頭の中」に入る必要があった。しかしいつまでも「他人の頭の中」に居続けるわけにはいかない。いずれそこから外に出ていく必要がある。

 

 彼の苦悩、部屋に閉じ込められた苦悩とは、他人の影響の外へと抜け出せない苦しみ、自分独自の足場を確立できないことの苦しみのように見えてくる。

 

 ネモは、ある時から、部屋の壁に絵を描いたり、奇妙な祭壇を作ったりする。これは単なる暇つぶしというのではなく、他人の作品に触発されて、自分でも何かを作り出そうとした創作衝動の表れと考えられる。

 

 そもそも創作衝動とは何だろうか。なぜ人は、芸術作品を作りたいと思うのか。

 

 その理由は、この映画が描いているように、この世界に自分が閉じ込められていて、自由を失っている、その息苦しさから逃れたいと思うからではないだろうか。その意味で言えば、創作衝動とは自己解放の衝動である。

 

 

 最終的に、主人公が天窓を突き破って脱出するシーンは、自分の創造性を解放する象徴的な瞬間として読み取れる。他人の世界から外に出た、というわけだ。

 

 さらに大きな視点で見ると、この「部屋」は現実世界そのもの、人間の生涯のメタファーとしても読み取れる。

 

 ネモは、彼の苦悩を表現した創作物を後に残して、部屋から去っていく。つまり、創作物とは、作者の生の残存物である。その人物がこの世界でどのように生きたのか、どのような喜びや苦しみを味わったのか、そうしたもろもろの痕跡である。

 

 映画では、食べ物や飲み水がないこと、そして孤独の苦しみが描かれるが、それ以上に、創作の苦しみの比喩として、自分自身の足場を築くことの困難さが強調して描かれていた。

 

 自分独自の作品を作るためには、まずは、しっかりとした足場を築く必要がある。しっかりとした足場がなければ、出口(天窓)には辿り着けない。実際ネモは、不安定な足場から転げ落ち、足を引きずるようになった。

 

 「他人の頭の中」から外に出ていくことの困難さ。それは、高みに達することの困難さであり、足場を地道に築いていかなければならない困難さでもある。

 

 ネモは、足場を築くために、部屋の中にあるありとあらゆるものを利用した。ほとんどすべてのものを破壊して、脱出のための手段(道具)に変形させたのだ。

 

 創作行為とは何であるのか。それがここに端的に示されている。つまり、創作とは何よりもまず破壊行為なのである。

 

 創造=破壊によって、人は、この世界から「脱出」する。自由になる。ネモも最後にこう言っている。「破壊のない創造はない(there’s no creation whithout destruction)」と。

他人の夢に取り込まれて自分の人生を歩めなくなること――映画『サンセット大通り』について

 先日、「週末批評」というサイトに、高畑勲監督のアニメ映画『火垂るの墓』(1988)についての論考を寄稿した。

 

worldend-critic.com

 

 論考を書いたもともとの経緯については、サイトに詳細があるので省くが、10年くらい前に書いたものを大幅に改稿したのがこの「火垂るの墓」論である。

 

 論考の転載に関連して、X(旧ツイッター)のスペース機能を使った「解題スペース」なるものを開催してもらった。

 

 このスペースを聞いてもらった人ならわかると思うが、僕はそこで、『火垂るの墓』は『サンセット大通り』ととてもよく似ている、という話をしている。

 

 もともと、『火垂るの墓』を『サンセット大通り』と関連づけていたのは(スペースに一緒に参加していた)noirseさんという人だ。noirseさんは、最近発表した高畑勲論の中で、次のように言っている。

 

火垂るの墓》の構造はフィルムノワールのフラッシュバック手法に則っていて、たとえば《サンセット大通り》(1950)では主人公の脚本家が死体で発見されるところから始まるのだが、事件を振り返る語り手も死んだ脚本家自身となっている。構造だけ取り出せば《火垂るの墓》と《サンセット大通り》は同じだ。

mercuredesarts.com

 

 まさにその通り。しかし、僕がこの2つの作品を似たものと考えたのは、ここで指摘されているような語りの構造からではない。物語の内容の面から、『火垂るの墓』は『サンセット大通り』とほとんど同じ事態を描いていると思えるところがあったのだ。

 

 

 『サンセット大通り』には、大きく分けて、2つの時代区分がある。ひとつは作品発表当時(1950年)のトーキーの時代、もうひとつはサイレント映画全盛期の1920年代である。

 

 かつて黄金時代があり、それがもう過ぎ去っている。映画産業も今と昔では別のものに変質してしまっている。そうした過去と現在の差異が残酷に示されるのである。

 

 物語の中心にいるのは、過去の栄光を忘れられずにいる大女優、ノーマ・デズモンドだ。彼女は、サイレント時代に築いた巨万の富で未だに贅沢な暮らしをしているが、もはや女優としての人生は終わっていて、新しい映画にお呼びがかかることはない。そうした干された状態に不満を抱いている彼女は、自分が主演する映画の脚本を自ら書き、それを大物映画監督に撮ってもらおうと画策している。

 

 そんなノーマが住む豪邸に、主人公であるジョーが、たまたま迷い込む。彼は売れない脚本家で、悩みの種であった金銭問題をノーマが何とかしてくれそうな予感を抱くと、彼女に取り入り、ノーマの書いた脚本の修正をするという仕事を得る。豪邸に同居する一種のヒモ生活を送ることになるのだ。

 

 何不自由ない暮らしを送りながらも、ジョーは次第に、ノーマの幻想(自分は未だに現役の大女優である)に付き合うだけの偽りの生活に嫌気がさしてくる。最終的に彼は、強い決心の下、邸宅を出ていこうとするが、それを阻止しようとしたノーマに拳銃で撃たれ、絶命する。

 

 

 『サンセット大通り』は、昔からとても気になっていた映画だ。何度も繰り返し見たというほどではないが、最初に見たときに強い印象を受け、その後もずっと何か引っかかりを自分の中に残していた映画だった。

 

 今回改めて見返してみて、この引っかかりが何だったのかが、ある程度クリアになった。

 

 『サンセット大通り』に描かれていることとは何か。簡潔に言ってしまえば、それは、他人の夢に取り込まれて自分の人生を生きられなくなる、という事態である。

 

 哲学者のジル・ドゥルーズが、ヴィンセント・ミネリの映画に関連して言っていたことが思い出される。曰く「他人の夢に捕らえられたら、あなたはおしまいだ」と。ドゥルーズの言っていることと厳密に同じではないかもしれないが、『サンセット大通り』もまた、他人の夢(欲望)に捕らわれる状況を描いている。

 

 そもそも主人公のジョーは、何がしたかったのだろうか。これがよくわからない。むしろ、自分の望みが何なのか、彼自身が十分に自覚できていなかったからこそ、ジョーは他人の夢に取り込まれてしまったと言える。

 

 もちろん表面的に言えば、彼が望んでいたのは、脚本家として成功することだったろう。しかし彼は、ある時期から、ひとりで脚本を書かなくなった。ノーマの脚本に手を入れるようになっただけではない。物語の途中で若い脚本家志望の女性と共同執筆するという展開になるが、これも同じ状況を示している。

 

 このもうひとつのラブロマンスもまた、他人の夢に取り込まれた状態だったとは言えないだろうか。相手は違うとは言え、ジョーのやっていることは同じ、女性の夢の実現のために尽力するというものだ。この相似に気づいたからこそ、彼は自ら、この若い女性との関係を絶ったのではないだろうか。

 

 ジョーがノーマの邸宅から出ようとしても、なかなか出られないのは、どこかで彼がそこに住むことを欲していたところがあったからではないだろうか。ノーマの豪邸自体が映画作品そのもののようなもの、つまり時の停止した世界であって、言ってみればジョーは、現実世界で生きるのをやめて、映画というフィクションの世界に入り込んだのだ。

 

 自己嫌悪を感じながらもジョーは、他人の夢の中で一登場人物としての役割を与えられて、それを演じることを望んでいたのではないだろうか。それは、自分が主役の映画を生きる(自分で物語を書く)のではなく、他人の映画の主要登場人物として生きる、ということである。

 

 

 ここまで述べてきたことから、『火垂るの墓』が『サンセット大通り』によく似ている作品だ、という主張もおそらく理解してもらえるだろう。

 

 『火垂るの墓』は、兄の清太が、妹・節子の無垢な世界を守るために、現実から距離を取った夢の王国を築く話である。しかし、逆の視点から見れば、それは、妹の夢に取り込まれて自分の人生を生きられなくなった兄の話ということになる。

 

 妹の節子が死んだとき、本来ならば清太は、そこから自分の本当の人生を歩めたはずだ。彼は盗みでも何でもできた。自分ひとりを生かすだけなら、それほど難しくなかったはずだ。しかし彼は、生きる希望を失い、衰弱死してしまう。

 

 僕は「火垂るの墓」論の中で、「他人が残した夢につまずく」という話をした。他人の心残り、やり残したこと、できなかったこと、道半ばで終わったこと。そうした他人の残された夢に足を取られて、自分が本来歩むべきだった道から外れて、別の人生を歩んでしまう。それが「他人の夢につまずく」という事態だ。

 

 論考の中で僕は、こうした逸脱を、必ずしも否定的なものとして論じてはいない。どちらかと言えば、肯定的なものと考えている。その理由は、仮に自分本来の人生を歩むということがありうるとしても、それは、他人の夢から外に出るという契機を経てこそ、成し遂げられるものではないかと思うからだ。

 

 改めて考えてみると、他人の人生に振り回されるというのは、程度の差はあれ、どんな人にとっても体験する事態だろう。

 

 例えば、親の期待がそうしたものだ。親が望んだ何かになろうとするのは、子供にとってはむしろ自然な振る舞いだろう。しかしそこに何か過剰な要求を感じ取るのは、一定期間を経た後、親の満足と自分の満足の間にズレを見出して以後になるだろう。

 

 そうだとすれば、自分本来の人生を歩む出発点とは、他人の期待に応えることに苦しさを感じる瞬間だと言える。他人の期待を裏切り、他人を不満足な状態にさせること。意図せずにそうした事態を引き起こした瞬間が、自分の人生の始まりだと言える。

 

 『サンセット大通り』も『火垂るの墓』も、脱出に成功しなかった話、自分の人生を生きることに失敗した話である。僕はどちらかと言えば、こうした否定的な展開に強く惹かれる。失敗がそこに示されるからこそ、どうすればそうならずに済んだのか、という問いが提起されるからだ。

 

 だがおそらく、「失敗」とは、事前にそれを予知して回避できる何かではない。失敗が失敗として意味を持つのもまた、それが他人にとっての後悔という形で、そこに負債として残されている場合だろう。人はそこにつまずく。そして「失敗」の中で自分の人生を始めるのである。

ゲーム『Into the Breach』の魅力――単純だが奥深いゲームシステム

去年はまっていたゲームがいくつかある。そのうちのひとつ、『Into the Breach(イントゥ・ザ・ブリーチ)』(2018)を紹介、オススメしてみたい。

 

『Into the Breach』のジャンルは「ターン制ストラテジー」とか「戦略シミュレーション」に分類されるだろう。『大戦略』、『ファミコンウォーズ』、『ファイアーエムブレム』、『ガチャポン戦士』、『ネクタリス』、『スーパーロボット大戦』といったのと同系統のゲームだ。

 

こうした先行するゲームと比較すると、『Into the Breach』はマップもユニットも限定されていて、同じターン制ストラテジーだとしても、そのプレイ感覚はかなり違ったものになる。喩えて言うならば、「将棋」よりも「詰将棋」に近い感じだ。

 

やることは同じだとしても、選択の幅がぐっと狭まったストラテジーゲーム。この制限が『Into the Breach』の魅力に繋がっている。1回のプレイ時間が短くなる代わりに、似たようなステージを何度も繰り返しプレイすることになる。しかし単調なわけではない。そうならないための工夫がある。このあたりのバランス調整が見事だと言える。

 

システムが複雑なゲームと単純なゲームがあったとき、どちらがより面白くなるだろうか。もちろん一概には言えない。しかし一般的に言えば、選択の幅が大きくなればなるほど、ゲームの奥行きもまた広がるだろう。プレイするたびに、驚くようなことが起き、新鮮な気持ちのままプレイすることができる。逆に単純なゲームの場合は、似たような展開が起こりやすいという点で、飽きやすくなるだろう。

 

では、ゲームはシステムが複雑であればあるほどいいのか。もちろん、そんなこともないだろう。複雑なゲームの欠点は、ルールの習得に時間がかかる点だ。取っつきが悪く、何をしたらいいのか分からない。丁寧なチュートリアルがあったとしても、勉強させられているような感じになって、退屈になりやすい。それなりの習得期間を経て、やっとゲームが面白くなる。だからこの手のゲームは人を選ぶ。

 

となれば、多くの人が楽しめる理想的なゲームとは、システムは単純だとしても奥が深いゲーム、ということになるだろう。しかし、そういうゲームはなかなかない。

 

これは「調整」の問題かもしれない。例えば将棋やチェスのことを考えてみよう。これらのゲームの盤面がもっと大きかったり、駒(ユニット)の数が多かったりしたら、ゲームは複雑になるだろう。反対に、盤面をもっと小さくして駒を少なくしたら、ゲームは単純化する。ゲームが複雑化すれば1回のプレイ時間は長くなる。単純化すれば短くなる。ではどのあたりが妥当なのか。

 

もちろん答えはひとつではない。しかし『Into the Breach』は、単純化の方向に歩を進めた。ここが大きいと言える。

 

『Into the Breach』にはローグライクっぽさもある。そもそも、このゲームを開発したSubset Gamesは、2012年に『FTL:Faster Than Light』というローグライク系のゲームを出している。限定された状況を何度も繰り返す点は『Into the Breach』に似ている。

 

ゲームは、プレイヤーに同じことを何度もさせるように要求する。だから、その行為を飽きさせないために、それが違った意味を持つようにさせる必要がある。実際は同じことを繰り返させているだけだとしても、それをいかにプレイヤーに意識させないかに苦慮しているゲームもあるだろう。これに対してローグライクはむしろ、繰り返していることをプレイヤーに強く意識させるように仕向ける。

 

その意味で言えば、『Into the Breach』は、ローグライク化されたターン制ストラテジーと言える。単純なことを何度も繰り返させるが、そこには様々な変化がある。設定の上でも、プレイヤーは「タイムトラベラー」となり、違う時間軸を渡り歩いていく。

 

ローグライクが一般的にそうであるように、『Into the Breach』は、やり込みたい人はとことん、やり込める内容になっている。僕自身はそこまでの気力がなく、途中で止まってしまったが、はまる人ははまると思うのでオススメしたい。

 

ちなみに、参考までに書いておくと、僕がメインに使っていたパイロットはチェン・ロンだった。行動後にさらに1歩動けるスキルを持つ。このささやかな「1歩」の恩恵がとても大きい。

 

部隊はボンバーメカが一番使い勝手が良かった。ボマーメカとチェンジメカの能力が強力である。ボマーメカから発射されるボムは移動もできるので、行動範囲がとても広くなる。ボムは、出現する敵を抑えたり、防御に使ったりなど、攻撃以外にも使い道がある。

 

結局のところ、移動範囲が大きくなり、手数が増やせるようになるのが最適であるように思える。このあたりは、どういうプレイスタイルを選択するかによっても変わってくるだろう。