来たる2024年7月21日(日)に、てらまっとさんの「ツインテールの天使——キャラクター・救済・アレゴリー」の読書会を行う。
共同企画者である壱村健太さんに告知をお願いした。
【告知】
— 壱村健太 (@ichimura_kenta) 2024年7月14日
7/21(日)の14:00からシンポジウムみたいな読書会をスペースでやります。課題テクストはてらまっと著「ツインテールの天使ーーキャラクター・救済・アレゴリー」です。既にスピーカー多すぎなので追加で上げるのは厳しいですが、聴きにきてね♪ (参加者による発表あり)https://t.co/04moqB0Hrt
てらまっとさんの「ツインテールの天使」は、僕が2011年に刊行したサブカルチャー評論同人誌『セカンドアフター vol.1』に寄稿してもらった論考だ。
『セカンドアフター vol.1』は2011年の秋の文学フリマ(第13回東京)で頒布した。当時ブログに掲載した内容紹介文から、「ツインテールの天使」のところを抜き出してみる。
5万字の力作論考。空気系アニメ、『けいおん!!』最終回、ベンヤミンのアレゴリー論、梅ラボやthreeなどの現代アート、ルイズコピペといったいくつかの領域を経巡ることで、キャラクターによる救済の可能性が問われる。「「終わりなき日常」が終わりを迎えるとき、薄れゆく意識のなかで、私たちは天使のツインテールがひるがえるのを見るだろう」。
5万字という長大な論考にも関わらず、「ツインテールの天使」は、たくさんの人に読まれ、好評を得た。それに留まらずこの論考は、この十数年間、ずっと読まれ続けてきて、今も新しい若い読者を獲得している。これは驚くべき事実だ。
「ツインテールの天使」はなぜこんなにも読まれているのか。それが優れた論考だからだろうか。
何かの価値(優れているかどうか)を決定するのは文脈である。多くの人に読まれているということは、そこに何かしらの文脈が形成されていることを示唆している。しかし、その文脈は可視化されていないように思われる。
ここには別の問題が潜在している。文学フリマで頒布されているような同人誌の論考は、それだけで、独自の文脈を形成できるのかどうか、という問題だ。同人誌に掲載されている文章がマイナーなものと見なされているとしたら、そこで「メジャー/マイナー」の線引きを決定しているのも文脈、あるいは文脈の不在だと言える。
「ツインテールの天使」もまた、多くの人に読まれてきたにも関わらず、マイナーなものに留まっている。しかし他方で、むしろマイナーなものだからこそ、読まれてきたという気もしなくもない。
「ツインテールの天使」は、「ルイズコピペ」の引用に示されているように、自らの地位を「深夜ポエム」と同等のもの、つまり一種の「怪文書」として位置づけている。そこで想定されているのは、ネットに散見されるような、ネタ的な文章の文脈である。言い換えれば、「ツインテールの天使」は、そこで書かれている内容を、文字通りには(真剣には)受け取ってほしくないというメッセージを暗に送っているように見える。
しかし、書かれたものの価値を決定するのは読者である。もしそこに何らかの読者の共同体が想定できるとすれば、そこで育まれている価値とはどのようなものなのか。そうした新しい文脈への興味から、こうした読書会を企画した次第である。
「ツインテールの天使」は以下から読めます。