盲点と弱い因果性――『ドライブ・マイ・カー』から『納屋を焼く』を読む

 今回は、村上春樹の短編小説『納屋を焼く』(1983)を検討してみたい(新潮文庫『蛍・納屋を焼く・その他の短編』所収)。

 

 春樹の小説は、昔から好きで、一時期(もう20年くらい前になるが)、知り合いと「村上春樹研究会」と題した読書会をやっていたこともあった。長編小説を中心に、春樹の小説を年代順に読んでいくという試みで、確か『1Q84』あたりまで読んだと思う。しかし、ここ最近はご無沙汰状態で、春樹の新作も読んでいない。

 

 そんな中、ふと思いついたことがあって、かなり久しぶりに『納屋を焼く』を読み返してみた。改めて読んでみても、やはりとても面白い。小説に謎めいた部分があり、それが読了後も、ずっと頭の中に残っていく。何かが引っかかっている。そうしたもどかしさが、この小説自体の魅力になっている。

 

 この短編小説の主題とは何か。端的に言ってしまえば、それは「暴力」だろう。

 

 村上春樹の小説に関して、しばしば「暴力」という観点から論じられることがある。『羊をめぐる冒険』、世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』、『1Q84』。地下鉄サリン事件の被害者へのインタビュー集である『アンダーグラウンド』もそうだろう。

 

 春樹の多くの作品において暴力が取り扱われているとしても、そこには、あるひとつの傾向があるように思われる。それは、直接的な暴力ではなく、間接的な暴力が描かれるというものだ。

 

 ここでいう「直接/間接」というのは、因果関係がはっきりしないということである。

 

 何らかの暴力がそこで発生していること自体は間違いないとしても、加害者と被害者の関係性がはっきりしない。誰かが誰かを殴ったとか、そうしたわかりやすい形で事件が起きることは稀である。そうではなく、意図しない仕方で自分が誰かを傷つけていたとか、逆に、知らないうちに自分が誰かに暴力を奮われていたといった事態が描かれる。こうした意味において、そこで示されるのは、「弱い因果性」なのである。

 

 僕が『納屋を焼く』についてふと思い出したのも、こうしたぼんやりとした因果関係についてちょっと考えてみたいと思ったからである。つながっているのかつながっていないのか、よくわからない、弱い関係性について。

 

 

 『納屋を焼く』の話は、かなりシンプルだと言える。というよりも、そもそも何かが起こっているのだろうか。何かが起こっているのか起こっていないのか、それすらも判明ではないという、ぼんやりとした話なのである。

 

 主人公(語り手)の「僕」が知り合った若い男の奇妙な話がこの短編小説の中心にある。この男は、定期的に納屋を焼いているのだという。

 

 主人公は、その話を聞いてから、本当に納屋が焼かれるのかどうかが気になって、毎日の日課として、ジョギングをしながら、近所の納屋をチェックする。しかし、いつまで経っても納屋は焼かれない。

 

 しばらくして男と再会した主人公は「結局、納屋を焼いたのか」と聞いてみる。男は「焼いた」と答える。主人公は、毎日納屋をチェックしていたのに、なぜそれを見逃していたのだろうか。物語は、この疑問点に対して、特に明確な答えを与えないまま、宙ぶらりん状態のまま終わる。

 

 結局のところ、何がどうなったのか、よくわからない。よくわからないからこそ、いろいろな推察の生じてくる余地がある。

 

 ひとつの注目点として、人間関係がある。

 

 例えば、主人公は既婚者であるが、妻の存在は影が薄い。妻があたかもいないかのように書かれている。こういうところが大きなポイントだろう。

 

 他の登場人物としては、女友達とその彼氏がいる。この彼氏が「納屋を焼いている」と言っている男である。

 

 主人公と女友達は、恋人のような関係性と言えるのかもしれない。しかしそれは、作中においては、取り立てて恋愛的なものとしては語られてはいない。この女性にはたくさんのボーイフレンドがいて、主人公もその中のひとり程度の扱いである。主人公の言によれば、納屋を焼いている男が、彼女の最初の「きちんとした形の恋人」(55頁)だった。

 

 おそらくこの三角関係とも言えない三角関係が、この短編のキモなのだろう。しかしそうだとしても、一般的な三角関係とは異なる。つまり、異性を間に挟んだ同性同士の対立というのではなく、むしろこの同性同士(この場合で言えば主人公と男)の同質性が問題になっていると言える。

 

 男が主人公に納屋を焼く話をするときのシチュエーションが興味深い。主人公の妻は、どこかに出かけていて不在である。そのときに女友達と男が主人公の家を訪ねてくる。食事をした後、女友達は眠くなって、二階の部屋で仮眠を取る。残った主人公と男が大麻を吸いながらくつろいでいるときに、突然、男が「時々納屋を焼くんです」と話し出すのである。

 

 この短編小説をどう解釈したらいいのだろうか。

 

 

 もしかしたら、男が言う「納屋を焼く」というのは、文字通りの意味ではなく、何か別のことを表現しているのかもしれない。そうした可能性もほのめかされていると言える。

 

 この短編小説の終わりで、主人公は女友達と連絡がつかなくなる。女友達が主人公の前からいなくなったこと。それが男の言う「納屋を焼く」と関係しているのかもしれない。そうだとすれば、それは、殺人か何か、そうした犯罪行為をほのめかしている可能性もある。

 

 しかし、このようなミステリー的な連想は、間違った推測だろう。というのは、どこか作者自身が、読者にそのように思わせたがっている(ミスリードさせている)ところがあるからだ。言い換えれば、最も重要なことは、そこに謎があるとしてもそれは、最初から答えを与えることを拒んでいるような謎だ、ということである。

 

 答えが与えられないまま、主人公は、宙ぶらりん状態で、日常生活を送り続ける。人間関係が突然ぷっつりと切れて、彼ら彼女らの代表していた「意味」が、その後に、何の結びつきも持たなくなる。こうした切断が、この短編小説において重要なものとして示されているように思えるのだ。

 

 ぼんやりとした因果関係、弱い因果性ということで言えば、主人公が「納屋を焼く」ことに強い興味を持ったからこそ、女友達との関係性が切れたのかもしれない。そもそも、なぜ主人公は男の話にあれほどの興味を持ったのだろうか。

 

 主人公が以下のように考える箇所がある。

 

時々僕は彼が僕に納屋を焼かせようとしているんじゃないかと思うことがあった。[…]たしかに僕は時々、彼が焼くのをじっと待っているくらいなら、いっそのこと自分でマッチをすって焼いてしまった方が話が早いんじゃないかと思うこともあった。だってそれはただの古ぼけた納屋なのだから。(74頁)

 

 ここには、はっきりとした鏡像関係、同一化が見られる。春樹の小説では、しばしば、ある種のコンビのようなものが描かれることがあるが(初期作品における「僕」と鼠がその最たるものだが)、そうしたものの形成がここでは問題になっているのかもしれない。

 

 つまり、弱い因果性の水準においては、女性を括弧に括り、脇に置いておくことによって可能となるような、男性同士の関係性がある、ということである。

 

 こうした男同士の関係性について考えるために、春樹の別の短編小説をちょっと参照してみたい。それは、2021年に映画化された『ドライブ・マイ・カー』(2013)である(文春文庫『女のいない男たち』所収)。

 

 

 『ドライブ・マイ・カー』でも、『納屋を焼く』と似たような、人物関係が問題になる。主人公の家福とその妻、そしてこの妻と不倫関係にあった高槻という男の三角関係が示される。

 

 家福は、妻の死後、なぜ彼女が他の男たちと寝ていたのか、その理由が知りたくて、高槻に接近する。あからさまな話はしないで、一時的に疑似的な友人関係を築こうとする。ここにも、女性を括弧に入れた形で成立する男同士の友愛関係の成立が試みられている(しかしながらそれは当然、破綻する)。

 

 『納屋を焼く』と少し違うところは、主人公が高槻に対して、敵意をはっきりと表明している点である。家福は、何らかの形で、高槻に復讐できないかと考える。悪意を持った計画がいくつか練られはする。しかしそれが実行に移されることはない。

 

 家福がそう言っているように、高槻との関係は基本的には良好で、二人は本当の友達になれたかもしれない。しかし家福はそれを「演技」の水準に留め、家福のほうからこの関係をぷっつりと途切れさせる。高槻に二度と連絡しなくなったのだ。

 

 家福と高槻の関係は、やはり、鏡像的なものであるように見える。家福にとって高槻は、自分にない何かを持った人物として想定されている。しかしそれは、高槻にとっても同じだったろう。家福は何よりも高槻の愛した女性の夫なのだから。つまり、家福が高槻に向けるまなざしのうちには、それが自分自身に跳ね返ってくるところがあるのだ。

 

 高槻について語った以下の家福の台詞は、彼が自分自身について語っているものと読んでも、そうおかしくはないだろう。

 

でも、はっきり言ってたいしたやつじゃないんだ。性格は良いかもしれない。ハンサムだし、笑顔も素敵だ。そして少なくとも調子の良い人間ではなかった。でも敬意を抱きたくなるような人間ではない。正直だが奥行きに欠ける。弱みを抱え、俳優としても二流だった。それに対して僕の奥さんは意志が強く、底の深い女性だった。時間をかけてゆっくり静かにものを考えることのできる人だった。なのになぜそんななんでもない男に心を惹かれ、抱かれなくてはならなかったのか、そのことが今でも棘のように心に刺さっている(68頁)

 

 家福は、高槻との会話の中で、「盲点」という言葉を持ち出す。「僕は彼女の中にある、何か大事なものを見落としていたのかもしれない。いや、目では見てはいても、実際にはそれが見えていなかったのかもしれない」(59頁)。これに対して高槻は、こう応答する。「もしそれが盲点だとしたら、僕らはみんな同じような盲点を抱えて生きているんです」(60頁)。

 

 家福は、自分に足りなかったものとは何か、妻は自分の何に不満を抱いて他の男と寝ていたのか、それを知りたかったのだろう。しかしおそらく、自分の中に足りないものがある、逆に言えば他の男(高槻)には満ち足りた何かがある、という発想それ自体が「盲点」を作り出すのではないだろうか。

 

 家福が高槻のうちに想定している「充実」が自分自身の「欠如」の裏返しであり、それに自分では気がついていないということ。それこそが盲点そのものである。

 

 

 結局のところ、『ドライブ・マイ・カー』もまた、謎が謎のまま残る話、決定的な解決が与えられず、宙ぶらりん状態のままで終わる話だと言える。

 

 解決が存在しないのは、そもそも間違った問いかけがそこでなされていたからだ。同じように『納屋を焼く』もまた、間違った問いかけによって答えが与えられないまま放置された話であるように思える。

 

 しかしそうだとしても、では、正しい問いかけはどこにあるのかと言われれば、そんなものもないのかもしれない。正しい問いかけは、間違った問いかけを通してしか、答えのなさからしか導き出されないだろう。

 

 この場合の「正しさ」とは、漠然とした方向づけという程度のものである。こちらがダメだったのだから、あちらのほうへ。ここじゃなかったのだから、別のところへ。その程度の方向転換でしかない。

 

 「盲点」との関連で言えば、『納屋を焼く』はまさに盲点についての物語だと言える。主人公は、焼いた納屋を見落とす。すべてを見ているようであったとしても、見落としが生じる。

 

 言ってみればそこには、自意識の外とでも言うべき領域があるのだ。納屋を焼いている男は言う。「近すぎるんですよ」と。

 

 この「近さ」というところに、おそらくは、暴力が生み出される余地がある。盲点と暴力の間に関連性がある、ということだ。弱い因果性によって、盲点と暴力がつながっている。

 

 このような形での暴力を停止する方法があるとすれば、それはやはり、人間関係のうちでしか、発見できないだろう。つまり、問われているのは、他者の存在なのだ。

 

 『納屋を焼く』や『ドライブ・マイ・カー』で問われている他者とは女性である。どこか蚊帳の外に置かれているように見える女性との関わりのうちに断絶の根がある。

 

 『納屋を焼く』においては、不在の妻の存在がもっとも謎めいている。主人公が強迫神経症的な仕方で、すべての納屋を毎日チェックしたとしても、納屋は焼け落ちた。このような彼の「盲点」は、妻との関係における決定的な欠落を示唆しているように見える。

 

 

 最後にひとつ話を付け加えたい。

 

 春樹は、自分の小説の傾向に関して、「デタッチメント/コミットメント」という対立する言葉を持ち出して特徴づけている(『村上春樹河合隼雄に会いにいく』)。簡単に言ってしまえば、それまでデタッチメントの小説を書いていたのが、次第にコミットメントの小説に変わっていった、という話だ。

 

 デタッチメントとは、社会的な関係性から距離を取るということである。とは言え、ここに厄介さがあるのだが、デタッチメントが「関わりのない状態」を指す言葉だとしても、それは、春樹の小説においては、「関わらない」という仕方で関わる状態が描かれる。

 

 盲点とか弱い因果性の問題は、こうした意味でのデタッチメントの態度を指しているように思われるのだ。

 

 それでは、コミットメントは、積極的に社会的な関係性を構築していくことを指しているのか。ここにも難しさがある。

 

 ひとつヒントとなるのは、『ドライブ・マイ・カー』において、女性に運転を任せるという転換点が示されている点である。これは、自分の盲点を他人に預けるようになった、と言えはしないだろうか。

 

 自分ですべてを運転するのをやめた。すべてを自分でコントロールできると思うのをやめた。そうした変化が描かれているように思える。

 

 これがコミットメントだとするならば、それは、どんな形であれ、人は人と関係を持ってしまう、つまり自分が望んでいない形で相手にメッセージを送ってしまう(相手を傷つけてしまう)というコミュニケーション上の難点を抱えているという条件を引き受けることだと言えるだろう。