「私はここにいる」――『涼宮ハルヒの消失』に見る肯定の思想

(ネタバレ大いにあり)


 今月の6日から公開されている劇場アニメ『涼宮ハルヒの消失』。僕は初日に見に行ってきたのだが、感想をブログに書くのはしばらく控えようと思っていた。何というか、考えがまとまるための熟成期間がしばらく欲しいと思っていたのである。それでは、現在、もう考えが熟成したのかと言われると、まだ十分ではない気もするが、待っているといつまでも書かない気がしてきたので、ひとまずこの作品について自分が考えていることを書いてみることにする。


 また、僕は、『涼宮ハルヒ』という作品だけでなく、その制作会社の京都アニメーションも非常に重要だと思っている。つまり、京都アニメーションが作るアニメとはどのようなアニメなのかということにも関心を持っている。しかし、京都アニメーションについてはまだ考えがまとまらないので、ひとまず今回は、この『ハルヒ消失』というアニメがどういった作品であるのかという点に集中して考察を展開してみることにしたい。京都アニメーションの作品としての『ハルヒ消失』が他のアニメ作品とどういう関係にあるのか、等々のことについては、また別の機会に問題にしてみることにしたい。





 まず、いきなり、原作にはなかったアニメオリジナルの場面について考えることから始めてみよう。それは、物語の終盤、病院で目覚めたキョン長門有希と会話をする場面である。原作でキョン長門は病室で会話をするが、アニメでは屋上で話をする。なぜこのような変更をしたのか。答えは明確であるように思える。それは雪を降らせたかったから、長門有希の「ユキ」と雪の「ユキ」とを掛けたかったからである。


 この場面を単に感傷的な場面として捉えるのは容易であるが、僕はこのシーンが、「消失」という物語全体において、非常に重要な役割を果たしていると思っている。そもそも、この場面で降っている雪をどのような意味を持つものとして考えることができるだろうか。僕が連想したのは、アニメ『CLANNAD AFTER STORY』最終回の一場面、朋也たちのいるアパートの外が光の玉で満ちている場面である。「消失」の最後で降る雪も、この光の玉と同じ意味を持っているとは言えないだろうか。つまり、ここで問題になっているのは、別の世界の記憶、別の世界に住んでいた者たちの思い、とりわけ、もうひとつの世界にいた長門の思いではないだろうか。


 キョンから「ユキ」と呼ばれることで顔を上げる長門有希。この瞬間に、もうすでにこの世界から消失してしまったもうひとつの世界の長門の思いが結晶化されたとは言えないだろうか。忘却されていたものが、この瞬間だけ、想起されたとは言えないだろうか。少なくとも、この場面では、キョンから名前で呼ばれるという可能世界で想定される出来事が奇跡的に実現している。この場面を挟むことによって、長門の「ありがとう」という最後の言葉にも非常に多くのニュアンスが込められることになる。この「ありがとう」は、長門が真に伝えたかったメッセージをキョンが受け取ったこと、つまり、長門をひとりの女の子としてキョンが認めたことの感謝の印だと考えられないだろうか。





 そもそも、「消失」で描かれる世界が、長門有希の望む世界であったとすれば、長門は何を望んだのだろうか。昔のアイドル風の言い方をすれば、「普通の女の子になる」ことが長門の願いだったのだろうか(普通の女の子になり、キョンと恋愛関係に陥ること)。長門の望みについてはまた後で問題にするとして、ひとまず、この「普通」というものについて考えてみよう。


 「消失」で描かれる世界は、宇宙人も未来人も超能力者もいない世界、ハルヒが超越的な世界改変の力を持っていない世界である。そうした普通の世界にやってきたキョンは、果たして自分はこのような世界に生きることを望んでいたのか、というふうに自分自身に問いかける。つまり、不思議なことが起こらない、普通の日常生活を送ることがキョンの望みだったのだろうか、と。物語終盤での自己内対話は、一見すると、そのことを巡って行なわれているように思える。


 しかし、この自己内対話の場面で問題になっていることは、日常か非日常か、普通の世界か不思議な世界か、という選択だけでは必ずしもないように思える。今まで自分のいた世界を選ぶかこの新しい世界を選ぶかの二者択一において、キョンは、かなりあっさり、今までいた自分の世界のほうを選んでいるように思える(緊急脱出プログラムを起動させるシーン)。つまり、キョンに葛藤があるにしても、日常か非日常かというところが葛藤の中心ではないように思えるのだ。


 では何が問題になっているのか。おそらく、キョンの葛藤は、現在自分がこの世界にいるということを積極的に引き受けることができるのかどうか、というところにあるのではないか。この世界から他にどこにも行くことができないとすれば、(「消失」で描かれていたような)この世界かあの世界かという選択を行なうことができないとすれば、この世界で生きていかざるをえないのではないか、と思う人もいるかも知れない。しかし、そうなのではなく、この世界で生きていくことを自分で積極的に選択していくという最後の仕上げは誰にとっても問題になりうることだと思われる。


 誰も自分で選んでこの世界に生まれ出てくるわけではない。そういう意味では、誰もが世界に対して受け身の姿勢で臨んでいるとも言える。世界と「私」との関係においては、世界のほうが「私」よりも優先する。こうした関係性を逆転させ、自分がこの世界を選んだのだというふうに関係性を再構築すること。こうした手続きは誰にとっても問題になりうることだし、まさにこの問題を描いているのが、この『涼宮ハルヒの消失』という作品であるように思われるのだ。


 キョンは基本的に受動的な人物として描かれている。彼は、自分が巻き込まれた状況に対して、シニカルな距離を取ることで、何かに関わることを極力避けようとする。彼は何かに熱くなることがほとんどなく、冷めた視線で自分の置かれた状況に的確なツッコミを入れていく(こうしたキョンの態度は村上春樹の小説の主人公「僕」のデタッチメントな態度と相同だと言える)。そうした自分の受動的な態度に根本的な反省を加えているのがこの「消失」だと考えられないだろうか(すでにそれ以前に「溜息」のエピソードでキョンは自分の態度に反省を加えていたが、「消失」ではさらに根本的なレベルで反省を加える)。


 しかし、この世界で生きていくことを自分から積極的に肯定していくことは非常に困難な作業だと言える。というのも、それは言うなれば、自分で自分の逃げ道を封じていくことに繋がるからである。傍観者的な態度のままでいることはもうできない。どんな形であれ、自分がこの世界にコミットしているということを認めていかなくてはならない。





 ここでちょっと視点を変えて、ハルヒの抱えている問題に焦点を当ててみよう。この世界に生きていくことを自分から積極的に引き受けていくということ。これは、ハルヒの意識のレベルにおいては、不思議なことがほとんど起こらない退屈な日常というものを受け入れていくことだと言える。少なくとも、この世界がつまらないとしても、それを世界の責任だと言うことはできない。ハルヒは、そのことを自覚しているので、自分から面白いものを探したり、面白い状況を自分で作っていこうとする。しかし、彼女の中にも揺れがあって、もしかしたら問題は自分にではなく、この世界にあるのではないかというふうに考えてしまうために、世界崩壊を初めとした危機が何度も起こることになる。


 ハルヒの悩みを別の方向から明確にすれば、「憂鬱」のエピソードで描かれていたように、自分こそが平凡な「ただの人間」でしかないんじゃないか、というものだろう。彼女が未来人や宇宙人といった特別な存在を求めるのも、ハルヒ自身が自分の可能性に疑問を持っているからだと言える。「憂鬱」のエピソードにおいて、ハルヒをこの世界に留めることになったのはキョンのおかげだと言えるが、『涼宮ハルヒ』という作品全体を通して、この根源的な問題、つまり、この世界で「私」が生きていくことの問題は残り続けていると言える。


 そうした意味で重要なエピソードであるのが「笹の葉ラプソディ」である。このエピソードは「消失」でも再び取り上げられることになるわけだが、なぜこのエピソードがそんなにも重要なのか。それは、この三年前の七夕のエピソードが『ハルヒ』という物語全体の起点になるからだとも言えるが、もっと重要なのは、このときにハルヒが校庭に書いたメッセージが「私はここにいる」だったからである。


 つまるところ、あらゆる物事の結節点になるのが「私はここにいる」という一事なのである。ハルヒは自分が平凡な人間かも知れない、この世界は退屈なものかも知れないという危惧を抱えているかも知れないが、だとしても、彼女はそこにいる。つまり、この世界で生きている。このことを疑うことは非常に難しいだろうし、仮に疑ったとしたら、ありとあらゆるものの根拠が失われてしまうことだろう。「私はここにいる」という一事から出発するということ。そして再びこの一事に帰ってくるということ。つまり、「私はここにいる」ということを自分の選択した結果として引き受けるためにはどうしたらいいのか、ということがこのエピソードで問題になっているのではないかと思うのである。





 さて、それでは、「消失」に話を戻そう。「消失」において世界の選び直しが問題になっているのはハルヒではなく、キョンのほうである。キョンはどんなふうに、この世界を選び直すのか、つまり、「俺はここにいる」という事実を自分の選択の結果にするのか。非常に興味深いのは、「消失」において、こうした選択行為の問題が、たった一度の選択としてではなく、合計三回の選択の問題として提示されていることである。その三つとは、まず、文芸部のパソコンで緊急脱出プログラムを起動するかどうかという場面、二つ目は、世界改変直後の長門に再修正プログラムを打ち込むかどうかという場面、そして、最後の三つ目は、再修正プログラムを長門に撃ち込むために過去に戻る場面(これは「消失」では描かれない)である。


 なぜ選択行為がこんなふうに三つに分裂しているのか。それは、まさに、自分がいるこの世界を自分自身が選ぶという状況を作り出すためである。最初の選択行為において、キョンは、自分が現在いる改変後の世界から改変前の世界に戻ることを選択する。このときキョンにとって重要だったことは、自分の見知っているSOS団のメンバーに会いたいということである。それゆえ、キョンは非常にあっさり緊急脱出プログラムを起動させる。


 しかし、次の選択行為の場面において、長門に再修正プログラムを撃ち込もうとする前に、かなり長い独白が、自己内対話が挟み込まれる。なぜ最初の選択行為においてあっさり答えを出したのに、この選択行為の時点では長々と悩むのか。その理由は上に書いたように、ここにおいては、こちらの世界かあちらの世界かということがもはや問題なのではなく、自分の今までいた世界を受動的にではなく積極的に引き受けることができるのかどうか、ということが問題になっているからだと思われる。


 そして、興味深いのは、この二度目の選択行為の根拠になっているのが、一度目の選択行為だった、ということである。そもそも、二度目の選択において、キョンは、何かを選ぼうとしているのではない。選ぼうとしているのではなく、自分がすでに選んでしまっているということを確認しているのだ。この確認が決定的であるのは、この地点において、世界と「私」との関係が逆転するからである。すでに自分はどこかの地点でこの世界に生きることを選んでいたのだということを確認するのだ。


 最後に、最も奇妙な選択行為の場面、自分がすでに過去にこの世界を選んだという選択行為をこれから未来で行なうという場面がやってくる。キョンはすでに元の世界に戻ってきている。しかし、世界を再改変するための行為はまだ終わっていない。世界は再改変されているのだから、キョンがこの世界に戻ってきているのだから、選択行為はすでになされているはずである。だが、キョンはもう一度自分から積極的に選択する必要があるのだ。この状況こそが重要である。この状況こそ、自分がいるこの世界を自分自身が望んだものとして再度選択していくこと(過去を作り出すために未来に行為すること)なのである(第二回目と第三回目との間に空いた短い時間で「消失」の物語は終わるわけだが、この時間とは、世界に対して受動的であったときとこれから世界を積極的に引き受けていくときとの間に空いた短い時間だと言える)。





 さて、「消失」において、こんなふうに自分のいる世界を自分で選び直すという手続きが問題になっているとしても、そうした手続きを行なうための大きなきっかけとなったのは、別の世界の存在があったからである。つまり、この世界ではない別の世界というものが立ち現われてきたからである。この別の世界とは、端的に、平行世界と呼べるだろう*1。つまり、もし自分が違う選択をしていたら違う人生を歩んでいたかも知れないというふうに想定されるような可能世界のことである。そして、「消失」が興味深いのは、ここで問題となる可能性が、キョンの可能世界としてではなく、長門の可能世界として立ち現われてきたところである。


 そもそも、長門の抱えている問題とは何だろうか。キョンはこの世界に対して受動的な態度を取っていたわけだが、長門はそれ以上の態度で世界に臨んでいたと言える。つまり、長門はこの世界に自分自身を関わらせないという形で臨んでいたのである。これは端的に諦念的な態度と言えるだろう。長門には「私」というものが存在しない。長門は自身の置かれた環境と情報統合思念体と呼ばれる超越者との媒介を果たすだけである。彼女は、「エンドレスエイト」のエピソードで描かれていたように、世界で起こることをただ単に観測して、突発的な事態に対処するだけである。


 こんな長門が自我を持ってしまったというのが「消失」で描かれていることである。長門は感情を持ってしまった(それは恋愛感情かも知れない)。いずれにしても、この「私」の出現は、長門にとっては「エラー」とか「バグ」として捉えられるものである。つまり、「私」の出現は、単に観測対象であった世界に何らかの影響を及ぼすかも知れないのである。そうした長門の悩みが世界改変という根本的な事態を引き起こしたわけだが、ここで長門がやったこととは、自分のうちに生じた自我を、ある意味、抹消するというものだったと言える。彼女は葛藤を解決するために、まったく別の自分を作り上げたのである。


 「消失」で描かれる世界。この世界は長門が望んだ世界という意味では、長門の夢の世界だと言える(ここにおいて『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』との比較検討が可能になる)。しかし、この世界に、元の世界の長門はいない。キョンが抱いたのも、この長門はあの長門ではない、という印象である(「俺は今のお前じゃなくて、今までの長門が好きなんだ。それに眼鏡はないほうがいい」)。しかし、こんなふうに自分をまったく別の存在に作り上げてしまったということ、自分のうちに生じた感情をこんなふうに抑えてしまったということ、これこそが長門の隠れたメッセージになっているのであり、そのメッセージをキョンはちゃんと聞き届けたと言える。そのメッセージとは、つまり、「私はここにいる」ということ。長門の中にひとりの女の子としての感情が芽生えたということである。


 最初の選択行為の場面において、キョンは、長門の作り出した世界かハルヒの作り出した世界か、どちらを選ぶのかということを問題にしていたとも言えるが、そこでキョンハルヒの世界を選んだというふうには言いがたいのは、ハルヒがこの世界を作り上げたその原因の一端はキョン自身にもあるからである。そのことが描かれているのが三年前の七夕である(「世界を大いに盛り上げるためのジョン・スミスをよろしく!」)。つまり、結局のところ、キョンは、ハルヒの世界ではなく自分自身の世界を選んだとも言えるのである。そして、長門の夢の世界を選ばなかったとしても、長門の真のメッセージをキョンはちゃんと受け取ったはずである。


 上記したように、改変後の長門の姿は長門自身が望んだものだとすれば、ある意味、長門は自分自身を見失ってしまったのではないかと思う。『しゅごキャラ!』の「×キャラ」のように、自分自身を見失う形で誕生したキャラクターが改変後の長門だったのではないか。だとすれば、元の世界に戻ってきたキョンが「何としてでもお前を取り戻しに行く」というふうに長門に言ったのは、この世界にいる長門の存在を、長門の中に生じた自我を承認する行為だと言えるだろう。ここにおいて、長門のメッセージは長い回り道をしてキョンに届いたと言える(そして、ここで、冒頭に問題にした「ユキ」のシーンがやってくるのである)。


 この最後の場面での「情報統合思念体」を巡るやり取りは非常に興味深い。「なんだって一人寂しく部屋に閉じこもって本だけ読んでそうな、鬱な娘を設定しやがったんだ」というキョンの非難は、この『ハルヒ』という作品を書いた作者の谷川流に向けて、さらには、こうした長門のようなキャラクターを好むオタクたちの集合的無意識に向けて発せられた非難の言葉だと言えはしないか。つまり、キャラクターたちは、作者や読者の欲望に支えられた夢の世界の中で生きているのであり、そういう意味では他人の夢の中でしか生きざるをえない。そういう状況の中で、なおかつ、この生を肯定していくにはどうしたらいいのか、というようなキャラクターの生の問題もここには含まれているように思える。こうしたレベルにおいては、作者の谷川流もキャラクターたちの思いというものを無視することができないのではないかと思う(つまり、このシーンを書いたことによって、谷川流はキャラクターたちの「私はここにいる」というメッセージを聞き届けたはずである)。





 長々と書いてしまったが、作品の最後の場面(これも原作にはない)について言及することで、この考察を終えることにしたい。


 アニメのラストカットは、図書館で本を読んでいる長門が、貸し出しカードを少女に作ってあげる少年の姿を見て、本で口元を隠す、というものである。貸し出しカードをキョンに作ってもらった思い出は長門にとって大きく、改変後の世界においては、この思い出が長門キョンを繋ぐ絆となっている。この最後の場面で長門が何を思ったのかという点についてはいろいろと想像できるが、もっと重要だと思われるのが、長門キョンとの関係性ではなく、見知らぬ少年と少女との間で、何かひとつの物語が、もしかしたら改変後の世界で長門が夢見たような物語が展開されるかも知れないという可能性である(こんなふうに他者に委ねられた可能性については京都アニメーションの別のアニメ『AIR』の最後でも描かれていることである)。


 別のどこかで、自分の知らない人たちが、自分の実現しなかった夢を別の形で実現しているかも知れないということ。これが、実現しなかった可能世界の思いの出口のひとつになりうるのではないかと思うのである。「エンドレスエイト」の最後でキョンが言っていたことが重要である。平行世界の自分からのメッセージがあの既視感であり、そのおかげで自分はループを脱出するために行動することができたのだ、と。しかし、消失してしまった平行世界の自分との間に明確な関係性があるという保証はまったくない。原因・結果の関係性はそこにはないのではないかと思う。だが、そこにあえて関係性を築くということ。それこそが他者と関係するということであり、そのことが自己の救済をもたらすことに繋がるのではないかと思うのである。


 おそらく、ハルヒキョンとの関係性において最も重要だと思われるのが、この他者性の問題である。今回の「消失」のエピソードでより明確になったことは、ハルヒの欲望とキョンの欲望とが相補的な関係にあるということである。「卵が先か鶏が先か」という言葉と同様の意味で、キョンが先かハルヒが先かという問題が生じる。この点を突き詰めて行けば、自己と他者というような問題に行き着くだろうし、小説の構造的なことを言えば、キョンの一人称が当然問題にならざるをえなくなるだろう(村上春樹の小説の一人称が問題であるように)。


 こうした諸々の問題が今後描かれるエピソードで根本的なレベルから取り扱われることを期待して、次の『ハルヒ』のアニメを待ちたいと思う。

*1:コメント欄参照