偽者として生きるということ――『魔法少女リリカルなのは』に見る現代的な不安

 フロイトは「精神現象の二原則に関する定式」という論文の中で次のような奇妙な夢を報告している。

 ある男が父が長いあいだ苦しんだ不治の病気を看病したが、父の死んだ翌月に何回も次のような夢を見たという。父がまた生きかえって、昔のように彼に話をしている。ところが彼は、父がもう死んでしまっているのに、それを知らないでいるのを非常に心苦しく感じていた。
(『フロイト著作集6』、井村恒郎訳、人文書院、1970年、41頁)

 自分がもうすでに死んでいるのにそのことを知らないということ。ここにひとつ現代的なモチーフを見出すことができるような気がする。


 こういうことを僕が思ったのは、『魔法少女リリカルなのは』のアニメ(第1期)を改めて見たからなのだが(劇場版『なのは』も見た)、この作品に登場するフェイトというキャラクターが抱えている問題というのも、まさに、この「自分がすでに死んでいるのを知らない」という状態ではなかったか。


 フェイトの場合は、正確に言えば、「自分がすでに死んでいる」ではなく、「自分が偽者であることを知らない」という状態である。彼女は自分が母親の本当の娘だと思っている。しかし、実際はそうではない。彼女は死んだ娘アリシアの代わりに生み出されたクローン人間である。その事実を知ったフェイトがいったいどのようにして立ち直ることができたのかということが、この物語の大きな山場だと言っていいだろう。


 現代の問題というのは、つまるところ、こんなふうにすでに何かが死んだり崩壊しているのに、まだそのことに気がついていない、あるいは、薄々気がついているにも関わらず、そのことを直視することができない、ということである。とりわけ、家族関係の問題は深刻であるように思える。フェイトの物語に象徴的に見出されるのも、すでに亀裂が走っている家族関係である。


 アニメの次のような場面が印象的である。フェイトの思い出においては、母親との親密な関係がしっかりと存在している(母親とのピクニックの場面)。しかし、そこには、ひとつ不安要因もある。この思い出の中で、母はフェイトのことを「アリシア」と呼ぶのである。この事実を疑問に思いながらも、フェイトはそのことを追究しようとはしない。逆に言えば、この時点で、フェイトは何か不穏なものを感じ取っているわけだが、それを直視することができないのだ(不穏な予感にさいなまれながらも、真実を追究した人物として、ソフォクレスの描くオイディプス王の名前を上げることができるだろう)。


 数年前に耐震偽装問題というものがあったが、ここにもまた何か不穏なものが感じられないだろうか。自分の住んでいる家が大地震のときに崩壊するかも知れないという安全性に対する不安だけがここで問題になっていたのだろうか。いや、それだけではなく、ここには、ハウスとしての家だけではなく、ホームとしての家が崩壊するかも知れないという不安も含意されていなかっただろうか。つまり、単にハウスとしての家の耐震強度にだけ不安があるのではなく、ホームとしての家のレベル(家庭や家族関係のレベル)においても耐震強度の不安が見出されたのではなかったか。


 こうした崩壊の予感を見事に描いたアニメ作品として、『東京マグニチュード8.0』の名前を上げることができるだろう。『東京マグニチュード』においては、まず始めに家族の崩壊の危機の問題が提出され、その問題が、ある意味、大地震という物理的な崩壊という形で表現される。そして、逆説的にも、物理的なハウスの崩壊が、むしろ、ホームの修復に役立つという、そのようなプロセスが描かれていた作品だったと言える。


 話を元に戻すと、つまるところ、僕は、『なのは』の物語をそんなふうに理解したわけである。すでにもう崩壊しているものにいかにして直面し、そこでの問題をどんなふうに克服するのか。そうしたことを描いた作品だと思ったわけである。


 自分が偽者かも知れないというフェイトの不安もまた極めて現代的であるように思う。これは家族の崩壊の問題と同じ文脈なのだが、ここでの問題とは、自分のアイデンティティに大きな穴が開いてしまっている、ということである。自分が何者であるのかというその実存の根底に大きな穴が開いてしまっているのだ。


 こうした底が抜けてしまった実存の問題に関して、僕は以前、『テイルズ オブ ジ アビス』を題材にしながら論じたことがあるので、興味がある方はそれも読んでいただきたい。


交換可能な生としてのレプリカの生――アニメ『テイルズ オブ ジ アビス』について
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090929#1254229650


 偽者としての生とはどのような生なのか。『アビス』に近づけて考えてみれば、それは、誰か別の人の存在を剥奪してしまったという罪を抱えた者の生のことである。フェイトの苦しみとはまさにこうしたところにあるだろう。


 フェイトの悩みは、母親の要求に上手く応えられない、というところにある。母のプレシアはフェイトに「ジュエルシード」と呼ばれる宝石(魔力を秘めた結晶体)を集めてくるように要求する。フェイトはその要求に上手く応えることができない。そのことにフェイトは自責の念を抱く。しかし、おそらく、フェイトが薄々感じ取っていただろうことは、母親の要求はもっと過剰だ、ということである。つまり、母が真に望んでいることは、愛する娘アリシアを蘇らせたい、というものである。フェイトは母の愛を獲得するために、母の要求に応えようと努力するわけだが、そもそも母の愛は別の方向に向かっている。たとえフェイトが母の要求を完全に満たしたとしても、フェイトが母の愛を獲得することはできなかっただろう。


 自分が偽者であることをフェイトが知ったとき、おそらくフェイトが感じた気持ちというのは、罪の意識だったことだろう。母親が欲しかった本当の娘では自分がないことに対する罪の意識、自分が偽者であることに対する自責の念。フェイトがアリシアの偽者であることにはフェイトの責任はまったくないわけだが、しかし、彼女は、母の欲しいものを与えることができなかったことに対して罪の意識を抱いたことだろう。


 ここでの罪を、ある種の原罪として位置づけることができるように思える。それは、つまり、知らず知らずのうちに自分が誰かの居場所を奪い取ってしまったという罪である。フェイトは母から「お前は偽者だ」と宣告されることによって、自分の居場所を剥奪されるわけだが、しかし、罪の意識という観点からするならば、そもそも剥奪行為を行なっていたのはフェイトのほうだったということになる。


 なぜ自分は生まれてきたのだろうか。自分の生きている意味とは何か。こうした問題に直面した場合、それに答えることは容易ではないが、『なのは』の物語において、フェイトは前進する。彼女が行なったことは、自分の同一性を確認すること、ある種の生まれ直しをすることである。


 フェイトとプレシアとの最後の対面の場面で、フェイトは母に向かって次のように言う。「私はアリシアテスタロッサじゃありません。あなたが作ったただの人形かも知れません。だけど、私は、フェイト・テスタロッサは、あなたに生み出してもらって育ててもらったあなたの娘です」。この台詞の含意は明確である。フェイトはアリシアと同じ姿形をして同じ記憶を持っているかも知れないが、アリシアそのものではない。つまり、偽者である。しかし、アリシアではなく、フェイトという別の名前を与えてくれたということ、そんなふうにひとつの存在を獲得することができたということ、そのことから、フェイトは、やはりプレシアのことを母と呼ぶのである。「私があなたの娘」なのではなく、「あなたが私の母さん」だ、というふうにフェイトは言う。彼女はこんなふうに関係性の再構築を行なうのである。


 結果として、そんなふうにフェイトが言ったとしても、プレシアはフェイトのことを認めることがなかったが(劇場版においてはちょっとした救いが描かれる)、しかし、彼女は自分自身の存在を獲得することができたと言える。それは、言うなれば、偽者の存在という自らの存在規定を肯定することによってである。偽者だったからこそ、彼女はフェイトという名のひとつの存在を獲得することができたのだ。ここにおいて、フェイトに取りついていたアリシアの亡霊は死に、真にフェイトという名の存在が誕生したと言えるのである。


 こうしたフェイトの生まれ直しの過程において、なのはという少女が大きな役割を果たしたことは間違いないだろう。なのはが果たした役割がどんなものであったのかということは、この作品の最後の場面で端的に描かれている。最後の場面で、なのははフェイトに向かって、二人がどうやったら友達になれるかということを教える。なのはの答えは単純である。名前を呼ぶこと。名前を呼ぶことこそが、まさに、存在の承認というレベルにおいて問題になっていることであり、フェイトというふうに呼びかけられることで、彼女は、アリシアに肉体を貸し与えていた存在としてではなく、これまでもずっとフェイトという名の存在者だったというふうに承認されることになったのである。


 僕は、こうした物語展開から、現代人の生の問題というものを見出さざるをえない。偽者の生の問題と関連する現代人の生の問題とは、言ってみれば、自分が偽者であるかも知れないという不安に絶えず脅かされつつ、あたかも本物であるかのようなフリをして毎日を過ごすということ、これではないだろう。つまり、ここには、何か決定的な欠損があるのではないかという不安が、暗い予感あるのだ。


 『なのは』が最初にテレビ放送されたのは2004年であるが、東京では同時期の同じ時間帯に、『舞-HiME』と『ローゼンメイデン』という二つのアニメも放送されていた。『舞-HiME』と『ローゼン』についてはこのブログでも何度か問題にしたが、こんなふうに『なのは』について考えてみると、これら三つの作品にはやはり共通する問題が見出せるように思える。そんなふうにゼロ年代の半ばに提出された問題が2010年代になってどのような展開をすることになるのかというのは大きな問題である。『なのは』という作品が何かを開いたとすれば、『なのは』が可能にしたこととは何なのだろうか。そうしたことを考えていくのは重要であるだろう。


 また、ゼロ年代には、家族の再構築、あるいはもっと広く、関係性の再構築を描いた作品がたくさんあったが、そうした問題設定がこれからどのように展開していくことになるのかというのもひとつの注目点だろう(僕は依然として『けいおん』が重要だと思っている)。いずれにしても、2010年代が始まったということに乗じて、何か新しい方向性、希望のある方向性を打ち出してみたいと思っている。そのためには、ある種の反省も必要になると思うが、何にしても、書かなければならないのに書かないまま終わってしまった記事がたくさんあるので、そうした課題をちょっとずつでもこなしていきたいと思っている。