2006-05-01から1ヶ月間の記事一覧

データ化、デジタル化

昨日に引き続いて、『うえきの法則』について、もう少し。 『うえきの法則』を見ていて非常に気になるところがあった。それは「才」というものについてである。これは、言ってみれば、才能のようなものであって、例えば、「勉強の才」を持っていると勉強がよ…

不信のまなざし

『うえきの法則』について少し。 アニメを見ていて思ったことは、この作品は、間違いなく、相対主義の時代の作品だ、というものである。つまり、何が正しくて何が間違っているのかがはっきりしなくなった時代に、絶対に正しいものがあるとすればそれは何か、…

終わる「私」の世界

昨日、隕石が落ちるとかで、ネットでいろいろと話題になっていたが、こうした終末の雰囲気は、サブカルチャーの問題と密接に関わるところなので、少しコメントしてみたい。 今回の騒動を語るための二つの観点がある。ひとつ目は、大きな物語と大状況という観…

他者の欲望との折り合いのつけ方

最近、高野文子の『るきさん』をペラペラと読み返しているのだが、やはり、るきさんの生活には憧れるところがある。非常に豊かな生活を送っているという気がするのだ。 これは、例えば、村上春樹の小説を読んでいても思うことなのだが、そこで、街の風景等、…

団地の魅力

大友克洋の『童夢』を読んだ。 このマンガは団地を舞台にしているが、僕は、このマンガで描かれている団地の雰囲気が非常によく分かる気がした。僕は、別段、団地に住んだことは一度もないのだが、小学生のときの友人が団地に住んでいて、その友人の家によく…

『耳をすませば』について(15)

前回予告した通り、今回で、ひとまず、『耳をすませば』についての話は終わりにしたい。 僕が『耳をすませば』という作品を取り上げて強調したかった点は、そのファンタジーの形態にある。言い換えれば、『耳をすませば』とは、ファンタジーがいかにして生じ…

『耳をすませば』について(14)

場所とアイデンティティとの関係について、ここ数回にわたって問題にしてきた。場所というものに着目することが、近年のサブカルチャー作品を見ていくにあって、重要な観点となるだろう。場所の移動や風景の変化というものは、そこにいる登場人物のアイデン…

『耳をすませば』について(13)

前回も、いくつかのアニメ作品を通して、場所とアイデンティティとの関係を考察してみた。前回問題にしたかったことは、『十二国記』で端的に描かれているような「ここは私の場所ではない」という感覚である。その点で、「ここではないどこかに」、本当の「…