『耳をすませば』について(15)



 前回予告した通り、今回で、ひとまず、『耳をすませば』についての話は終わりにしたい。


 僕が『耳をすませば』という作品を取り上げて強調したかった点は、そのファンタジーの形態にある。言い換えれば、『耳をすませば』とは、ファンタジーがいかにして生じるのかというその起源の点を描いた作品だと言えるのである。


 その点において、ファンタジーのポジションは、創作活動それ自体の中から、世界の読解能力の次元へと移行する。世界の諸断片の背後を読み取っていくこと、そのことによって世界を二重化させ、パースペクティヴを変化させること、そうした一連の試みがファンタジー体験だと言えるのである。


 この『耳をすませば』についてのエッセイの中で、僕が試みようとしたことは、異世界というものを空間的にではなく、時間的に位置づけることにあった。この点において、恋愛とノスタルジーという二つの経験が、ファンタジーの構造を考えるにあたって、重要な参照項となった。恋愛もノスタルジーも、そこに、時間的な契機が入りこんでいる。そこにある経験とは、何かが反復するという経験なのである。この点で、いわゆるセカイ系作品においては、時間という要素が最も重要なものになっているのである。


 異世界の存在とは、言ってみれば、余計なものである。それは、世界に付け加えられたプラス・アルファの要素だと言える。しかし、世界とは、それほどまとまりのない諸断片の寄せ集めでしかないとすれば、どうだろうか? つまり、われわれの日常生活もそうかも知れないが、有意味であるということのほうが特殊な事態であり、無意味であることのほうが通常の状態であるとすれば、どうだろうか? もし、そうだとすれば、異世界とは、『雲のむこう、約束の場所』で語られているような意味で、世界の見ているひとつの夢、世界の可能性のひとつだと言えるかも知れない。


 ネットワークという言葉を用いて、問題になっていることを言い換えてみよう。問題になっていることは、世界とは有機的なネットワークであるのかどうか、ということである。この点で言えば、雫のやろうとしていることは、世界の潜在的なネットワークの探求だと言える。一見したところ偶然的なものに思えた諸断片に意味があること。これこそが、例えば、図書カードに同じ名前を見出したときに感じられた驚きだったわけである。


 以上のことは、われわれの情報処理能力の問題と密接に関わる。その点で言えば、やはり、(作品の中でも語られていた)図書カードに名前を書くことからバーコード化への移行は、極めて重要な移行だと言えるだろう。つまり、そこでの問題とは、情報処理のフォーマットが一律のものになってしまうこと、機械が情報処理を代行することによって世界の裏面が消え去ってしまうということである。


 この点こそが、宮崎駿作品の主要なテーマだと言えるだろう。つまり、世界の裏面の喪失という事態に対して、いかにそれに対面するか、という問題である。このことを簡単な言葉でまとめてみれば、問題になっていることは、世界からあらゆる奥行きが喪失してしまった、ということである。つまり、目に見えているものがすべてだ、ということになってしまったということである。これこそが世界の平板化の問題である。


 重要な点は、妖怪や神々が実在するかどうか、ということではない。ネットワークの多様性が失われて、ただひとつのライン、あるいは、数本のラインしか、そこになくなってしまう、ということが問題なのである。


 ここにおいて、必要になってくるのは、平板な世界に節目を作る作業、世界に奥行きをもたらす作業である。そして、この点において、重要になってくるのが、時間というファクターなのである。分節化が行なわれるべきなのは、空間以上に、時間に対してなのである。ここで模索されるべきなのは、過去・現在・未来が直線的に繋がっている時間ではない時間の分節化、起伏のある時間の分節化である。


 こうした時間の分節化の必要性こそが、一連のセカイ系作品を生み出した原動力なのだろう。そこで最も重視されているのは、過去の時間である。過去の時間が、何らかの形で、現在において反復するということが、そこでは描かれているのである。これは、端的に言って、過去を変える試みだと言ってもいいだろう。あるいは、それは、過去を意味づけし直す試みである。


 さて、以上が今まで語ってきたことの大体のまとめであるが、次に、今後問題とすべきことを大まかに述べてみよう。


 今まで、僕が、このブログに書いてきたことは、セカイ系の問題構成の内に留まるものだった。つまり、セカイ系という言葉で何が問題になっているのか、ということを語ってきたということである。そこで問題の中心に据えられたのは、「私」のポジションである。「私」の内実が空虚なものになっている、ということが、そこで中心的に問題になっていることだったのである。


 その点で、セカイ系の物語とは、「私」の立つ場所を探し求める物語、一種の帰郷の物語だと言えるだろう。この点で、場所とアイデンティティとの関係を扱うことが必要になってきた。また、こうした観点から眺めるのであれば、セカイ系作品だけでなく、いわゆる萌え系作品、まったり系の作品をも問題にする必要性が出てきたことになる。というのも、萌え系の作品で特に問題になっているのは、場所と人間関係、特に三人以上の人間関係だからである。


 ここで、セカイ系作品を「きみとぼく」の二者関係として、萌え系作品を三人以上の関係として、対比的に考察する視点が開けてくることになる。そして、三人以上の関係が問題になるとすれば、そこでは必然的に、家族や共同体の問題も扱う必要が出てくるだろう。そこで、今後は、家族や共同体といった観点から、現在の様々なサブカルチャー作品(といってもアニメがメインになるだろうが)を問題にしようと思っているわけである。


 この問題に取りかかる前に、いくつかやりたいことがあるが、その詳細については、また後日、述べることにしたい。