不信のまなざし

 『うえきの法則』について少し。
 アニメを見ていて思ったことは、この作品は、間違いなく、相対主義の時代の作品だ、というものである。つまり、何が正しくて何が間違っているのかがはっきりしなくなった時代に、絶対に正しいものがあるとすればそれは何か、ということを問うている作品だ、というものである。
 同種の問題を提示しているアニメ作品はいくつもある。『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』、『ローゼンメイデン・トロイメント』、『Fate/stay night』といった作品である。
 以前にも書いたことであるが、ここでベースをなしている価値観は、バトルロワイアルにおける価値観、自己が勝利することは他者の敗北であり、他者の敗北はすなわち自己の勝利である、というものだ。ここにおいて、人間関係を困難なものにさせてしまう帰結とは、他者との協力関係が結べないこと、常に他者を不信の目で見てしまうことである。
 この点で、『Fate』における士郎と凛との協力関係はひとつの謎だと言っていいだろう。おそらく、そこで描こうとしているのは、部分的な協力(共通の利害を持っていることから、一時的に協力しようとすること)以上の何かなのだろうが、いったい、そこで、新しい価値観として、何を持ってこようとしているのかは、判明ではない。
 『うえきの法則』における最大の問題とは、いかに悪の存在を提示することなく、正義を確立することができるか、というものではないだろうか? 悪の存在を提示しておいてから、その悪を打倒するところに正義を見出すという所作は、非常に容易な仕草だろう。このような正義は、絶対的な正義というよりも、部分的な正義と呼ばれるべきだろう。それは、悪に支えを見出した正義である(それゆえ、悪がなければ、正義もなくなる)。
 おそらく、『うえきの法則』で問題になっていることをよりよく整理すれば、それは、信頼と不信との対立というものではないだろうか? それは、主人公の植木のライバルが、ロベルト・ハイドンというニヒリストであることからも理解される。
 こうしたニヒリズムの問題は、『NARUTO』のような作品にも見出すことができるものである。つまり、そこで対立させられている立場とは、他人を信頼せず、自己の力だけを信じて孤立する立場か(サスケ)、他人を信頼して、他人と共同戦線を貼る立場か(ナルト)、というものである。
 『うえきの法則』にしろ、『NARUTO』にしろ、それぞれの作品の根底にあるのは、他者に対する不信感である。他者に対する根強い不信感があるからこそ、逆に、他者を絶対的に信頼したいという強い欲望が出てくるのだろう。それゆえ、両作品とも、ロベルトから見た植木、サスケから見たナルトという、そのようなまなざしから作品が成立していると言えるだろう。これは、『走れメロス』において、王様がメロスに向けるまなざしとほとんど同じである。