ローカルな街で現実と闘うということ――アニメ『天体戦士サンレッド』について

 アニメ『天体戦士サンレッド』を最後まで見た。この作品の舞台である武蔵溝ノ口には何度も足を運んだことがあったので、非常にリアルに描かれる駅前の風景などを見ているだけでも楽しめるところがあった(もちろんギャグも面白かったが)。


 この作品を見ていて、地方性というものについて、いろいろと考えさせられた。単に武蔵溝ノ口という特定の地域が舞台になっていることだけに興味を持ったわけではなく、なぜそのような特定の地域をリアルに描かねばならないのか、ということをいろいろと考えさせられたのだ。グローバル社会とかグローバル資本主義などという言葉が囁かれている昨今、それと歩調を合わせるかのように、ローカルなものにも焦点が当たられるという傾向が出始めているように思う。


 『サンレッド』においてローカルなものの描き方が秀逸だと思うのは、正義の味方と悪の組織との闘いという大きな枠組の内部でローカルなものが提示されるのではなく、ローカルな街の内側で正義と悪との闘いという大きな物語が提示されているところである。つまるところ、ここで描かれる正義と悪との闘いなどというものは、地方の街よりも小さな出来事なのである。このギャップこそが、むしろ逆に、地方の街の存在を非常に大きなものにしているのだ。地方の街の存在が示しているのは、誰もがみんなそこで生活を送らなければならないということ、生きるためには社会に適応しなければならないということである。


 正義と悪との闘いという大きな物語が極めてローカルな街で展開されるということ。ここにはシニカルな相対化の視点が見出されることだろう。旧来のヒーローもので語られていたような正義や悪が相対化されて、みんなの平和を守ることや世界征服をすることの価値が、単なる趣味や職業のレベルにまで引き下げられているのである。つまるところ、そこで語られるような正義とか悪とかは、ある限定された状況で、ある限定された地域と時代においてしか通用しないものになっていて、ヒーローや怪人たちは、そのような活動をなす以前に、社会の中で生活しなければならないという現実にさらされているのである。


 『サンレッド』において、ヒーローや怪人たちが闘っているのは、まず第一に、このようなシニカルな視点であるだろう。正義と悪との闘いそれ自体が、何か別のものとの闘いを示唆しているのだ。『サンレッド』という作品それ自体をツッコミ待ちの作品だと言うこともできるだろう。この作品は最初から最後までボケ続けているのだと(『人造昆虫カブトボーグ』がそのような作品だったように)。しかしながら、こんなふうにボケ続けていることそれ自体が、シニカルな視点に対する防波堤になりうる。正義と悪との闘いなど馬鹿馬鹿しい、何が良いことであって何が悪いことなのかは人によって異なる、というような相対的な視点に対して、あたかも何も知らないかのようなふりをすることで、この作品は、何かベタなものを提示しようとしている。そのベタなものとは、端的に、生きることの苦しさといったようなもの、楽しいことと辛いこと両方あるだろうが、それらすべてをひっくるめてこの社会の中で生きていかなければならないということである。


 このようなベタなところに着地したときにこそ、レッドや怪人たちの格好良さといったものが立ち上がってくるように思える。みんなの平和を守ることや世界征服をすることは、相対化されて、格好悪いもの(それ自体が単なるギャグ)になっているわけだが、そのような格好悪さを彼らがあくまでも引き受け続けているところから、逆説的に、彼らの格好良さというものが浮かび上がってくるのである。この瞬間こそが、まさに、シニカルな視点が克服されたときであり、オープニングのアニメはそのような瞬間が描かれているのではないかと思う。


 それゆえに、『サンレッド』は、同じく正義の味方と悪の組織との闘いを描いたアニメ『鉄のラインバレル』よりも、シニカルな視点の克服という点では、成功した作品だと言えるだろう。アニメの『ラインバレル』においても、「正義」の観念というベタなものを復活させるためには、非常に多くのギャグが必要だったわけだが、残念なことに、『ラインバレル』は、ギャグアニメになりきることができなかった。それに対して、『サンレッド』は、最初から最後までギャグアニメであり続けることによって、シニカルな視点を克服することができたのではないかと思う。


 別に、『サンレッド』においては、正義の観念の再構築などというものが目指されているわけではない。むしろ、正義というものが成立するための土台の構築が目指されているのだ。この土台の構築がなされるためには、社会的な現実との闘争が不可欠である。『サンレッド』で描かれるのは、そのような社会的な現実がどれほど堅固なものであるのかということ、突き破ろうにも突き破ることのできない現実の壁というものが分厚く聳え立っているということ、このような現実と上手く付き合いながら日々の生活を送っていかなければならないということである。


 このような現実との闘争こそが、『サンレッド』において真に描かれている闘いである。レッドとフロシャイムとの空疎な闘いそれ自体が、現実を上手いこと騙すための方法なのだ。一見して分かる通り、彼らは敵同士ではない。彼らの共通の敵が別にどこかに存在する。日々の生活を生きづらいものにさせる悪の存在がいるのだ。しかし、その敵が具体的な形を取って現われてくることはない。誰が真の敵なのかはまったく明確ではない。そのような見えない敵との闘いがレッドやヴァンプ将軍たちの日常生活そのものなのである。


 このアニメ作品は、作画も動画も、わざと粗雑に作られている。しかし、それにも関わらず、登場人物たちが日々の生活を送る街の描写は、極めてリアルである。こうした点からも、この作品が何かリアルなものを提示しようとしていることが分かるが、ここでのリアリズムとは、日常生活を写実的に描くというような通常の意味でのリアリズムではなく、まったく非現実的な世界を一度通過することで、逆に現実的なものに近づこうとする、そのような形でのリアリズムだと言える(「マジックリアリズム」という言葉がここでは適当だろうか)。このようなアプローチをするにあたって、(『マジカノ』や『ギャラクシーエンジェる〜ん』のようなチープな作品をこれまで作っていた)岸誠二監督を起用したというのは、最適の選択だったのではないかと思う。