ダークサイドと弱さ

 先日、『DEATH NOTE』の映画を見たので、それに関連して、このマンガについて少し書いてみたい。


 以前にも少し書いたことがあったと思うが、このマンガのテーマは、端的に言って、日常生活の退屈さであるように思える(これは『涼宮ハルヒの憂鬱』のテーマでもあるだろう)。主人公の夜神月(やがみ・らいと)にとって問題であることとは、彼が何の欠点もない完璧な人間であることそのものにあるだろう。つまり、何も問題がないことが、ここでは、最大の問題なのである(何も問題がないことから生じる退屈さは、作中に出てくる死神たちも経験していることである)。この点において、月の正義感というものは、言うまでもないことかも知れないが、偽りのものだろう。つまり、法では裁かれなかった犯罪者たちを殺害するということは、月にとっては、自身の野望を実現するための口実にすぎないように思えるのだ。
 しかしながら、いったい、月の野望がどのようなものであるのか、ということは甚だ不明確である。その点で、彼は、理想主義者ではないだろう。月は、口では、理想的な社会の実現を目指すというようなことを言っているが、おそらく、そのような目的は、彼の欲望の副産物にすぎないだろう。月には、ゲームをすることそれ自体を楽しんでいるところがある。そうした点から言えば、月の野望とは、自分の影響力を最大限に発揮すること、自分以外のものを完全に支配すること、そうしたことであるように思えるのだ。
 ここに見出されるのは、ヒーローものの作品に頻繁に見出すことができる悪の組織の目的、世界征服という目的である。世界征服という野望は、悪の側から描かれることは、ほとんどない。それは、常に、正義の視点から捉えられたものである。つまり、世界征服は、人類共通の脅威という点で、絶対的な正義が打ち立てられるための条件となっているのである。こうした点で、なぜ、悪の組織の連中は、世界征服などという誇大妄想的な目的を掲げているのか、ということに対して、作品の中で明確な説明が与えられることはほとんどないわけである。


 近年のサブカルチャー作品を見ていて興味深いのは、悪の描かれ方が昔とは少々異なってきているという点である。世界征服の野望を掲げる悪の組織は徐々に姿を消し、代わりに出てくるようになったのは、個人的な悪とでも言うべきもの、物語の途中で悪の側に与することになってしまった登場人物たちである。
 最も典型的なのは『スター・ウォーズ』である。『スター・ウォーズ』の「ダークサイド」という観念は、悪の存在を、実体的なものから、精神的なポジションの問題へと移行させた。つまり、悪人だから悪をなすわけではなく、そこに精神的な弱さがあるため、その人は悪をなすようになる、というふうに見方が変わったのである。
 ここで重要なのは、力という要素である。ダークサイドに移行する人物とは、簡単に言って、自分の無力さを認めることができない人物である。それまでは非常に優秀で実力のあった人が、大きな挫折を経験したとき、そこに開かれるのが、ダークサイドへの道なのである。そこでの経験とは、「もっと自分に力があれば」というものである。さらに言えば、そこには、「自分はもっと力のある人間のはずだ」という強い思い込みもあることだろう。自分は弱い人間だと認めたくない。そうした状態のときに聞こえてくる悪魔の囁きが「お前に力を与えよう」というものなのである(この声を明確に描いていた作品が『プロジェクト・アームズ』である)。


 こうした観点から、再び、夜神月のことを考えるのであれば、彼は、挫折を経験する前に、さらなる力を求めてしまった人物、自身の完璧さをどこまでも維持しようとした人物だと言えるだろう。月の闘いとは、つまるところ、自分が何の欠点もない人物であることを証明することの闘いだったと言える。このことは、逆に言えば、彼が何らかの負い目を抱いているということである。彼には、何か人には隠したいものがあった。それこそが、おそらく、弱さと呼ばれるものなのだろうと思う。
 このような観点から、正義と悪との位置づけを考えていくのであれば、問題は、自身の弱さにどのように対するのか、ということになるだろう。『ベルセルク』のグリフィス、『NARUTO』のサスケ、『ふたご姫』のブライト、『パンダリアン』のクール。彼らに共通する問題とは、自分は決してヒーローにはなれない、ということをどのように自覚するのかということである。ヒーローになれないなら、ダークヒーローになる。これこそが、彼らが共通して行なった選択だと言える。