相対化の果てにあるもの

 アニメ『スピードグラファー』を最後まで見た。その最終回を見ながら思ったのであるが、今日の社会において、「敵」の存在を特定することは、非常に難しいことであるように思う。自分が何らかの不満を抱いており、被害を受けているという実感はあるものの、いったい誰のせいでこうなったのかがまったく判明ではないのである。
 今、荷宮和子の『アダルトチルドレンと少女漫画』という本を読んでいるのだが、この本で示されていることも、基本的に、不平不満である。そこで、著者は、その不満の原因を「男」と名づけているのだが、この「男」という言葉がいったい何を指しているのかが、まったく判明ではないのである。別段、そこで批判の対象とされているのは、生物学的な意味での「男」ではなく、いわゆる「男性社会」のようなものなのだろうが、しかし、荷宮は、そこのところが非常に曖昧なのである。荷宮の敵が「男」であることは間違いなさそうであるが、しかし、それでは、その「男」とどのように闘っていくのか、という具体的な話は、この本においては、ほとんど書かれていない。そうした点で、この本に出てくる敵としての「男」は、具体性をまったく欠いた存在のように思えてくるのである。


 まさに、問題となることは、そのような具体的なレベルで何をするのか、ということである。『スピードグラファー』において、水天宮寵児という登場人物は、自身の敵を「日本社会」と見定めて、最終的には、経済のレベルから、日本の国家を破綻させる。しかし、彼の本当の敵が日本の国家だったのかどうかという点は、非常に疑問の残る点である。彼が相手にしていたのは、まさに、ひとつのシステムであり、それは、資本主義のシステムそのものだと言っていいだろう。しかし、資本主義もまた、彼の本当の敵だったのかどうかは定かではない。
 『スピードグラファー』という作品は、このような割り切れなさを実感させてくれる点で、なかなか興味深いアニメだったと言える。そこでは、政府の高官たちが極めて醜悪に描かれているが、そのような描写は、単に敵を見誤らせることにしかならないだろうし、水天宮自身も、そうした者たちを殺したところで何にもならない、ということを述べていた。


 これほどまでに、システムというものが顔を覗かせている状況というのは、われわれにシニカルな感情を与えるという点で、やはり、悪い状況だと言わねばなるまい。つまり、何をやっても変わらない、何をやっても無意味だという無力感を与える可能性があるのだ。
 こうした状況に対面しているサブカルチャー作品は、非常にたくさんある。僕が何度も言及している『ローゼンメイデン』や『機動戦士ガンダムSEED』もそうした作品である。これらの作品は、われわれが置かれている状況そのものを浮かび上がらせている作品だと言える。しかしながら、『ガンダムSEED』のような結論、つまり、われわれひとりひとりが何か行動すれば事態は大きく変化する、というような結論には、さしてリアリティはないだろう。むしろ、そうしたことにリアリティがない、ということが大前提であり、そこから出発する必要がある。


 この点で、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の出した結論は、なかなか興味深いものだと言えるだろう。その最終回で示されたものとは、大状況における変化の拒絶である。つまり、『ガンダムSEED』が出したような結論を拒絶したのである。『涼宮ハルヒ』では、常に、大状況と小状況との間の揺れ動きが強調されていた。つまり、個々人の日常生活が、時間的空間的に、絶えず相対化されていたのである(この世界が三年前に創造されたかも知れない、等々)。しかし、そのように徹底的に相対化された状況にあって、逆説的に見出されるものとは、個々人の日常生活の絶対性、「今ここ」の絶対性である。
 こうした点で、意味に対抗できるものがあるとすれば、それは、好みとか癖といったものであるだろう(キョンにとっての「ポニーテール」もそのようなものだろう)。それは、われわれの実存の根になりうるようなもの、あらゆる相対化から免れるものである。なぜ、相対化から免れるのか? それは、それがそのようなものであるための必然性を欠いたものだからである。他のものでありえてもいいし、それがそれである意味などまったくない。始めから完全に相対的なものであるだけに、そのようなものは、いつまでも、しつこく残るものになりうるのである。
 いずれにせよ、今後注目されるべきなのは、大きなものではなく小さなものである。小状況にしろ、小さな物語にしろ、部分的なものにしろ、そうしたものが重要になってくると思われるのだ。しかしながら、そこには、常に揺り戻しもあることだろう。小さな世界とは、無意味で無価値な世界であり、有意味で価値のある世界を求めようとすれば、必然的に、大きなものや全体的なものが召還されることになるはずである。セカイ系とは、まさに、そのような揺り戻しのひとつの名であるように思われる。セカイ系は、小さな物語を大状況化することで、無意味で退屈な日常生活に意味を付与しようとしたわけである。こうした展開を軽やかに避けたという点で、『涼宮ハルヒの憂鬱』はセカイ系のその先を描いた作品という気がするのだ。