.hack//SIGN(2002年)

監督:真下耕一、制作:ビィートレイン、全28話(本編25話+総集編1話+番外編2話)

 

タイトルは「ドットハック・サイン」と読む。「Project .hack(プロジェクト・ドットハック)」という、ゲームを中心にしたメディアミックス的な作品群のうちのひとつ。アニメだけでも、その後に、『黄昏の腕輪伝説』(2003)、『Roots』(2006)など、いくつもの作品が続く。

 

こうした経緯ゆえに、この『SIGN』だけを見ても物語の全貌を把握することはできない。と言っても、それは、主に「ドットハック」世界の設定に関する部分であって、『SIGN』をひとつの閉じた物語として見ることも可能である。

 

SIGN』に特徴的なことは、ゲーム内世界と現実世界との間に、描写の上で、明確な差異を設定している点である。そこで描かれる出来事のほとんどがゲーム内世界のものであって、現実世界の事柄については、基本的に、キャラクター間の会話の中で示唆されるだけに留まっている。例えば、オフでキャラクター同士が会ったというような会話がされるとしても、実際にそうした描写が示されることはない。現実世界の描写がなされるときは、色を抜いた白黒の画面にホワイトノイズの効果が付されるという具合に、粗い画像として示される(このため、ゲーム世界内のほうが本当で、現実世界のほうが偽りという逆転した印象を与える)。

 

かと言って、ゲーム世界内の描写もかなり限定的なものに留まっている。そこにおけるファンタジー世界内の冒険、例えばモンスターとの戦闘やダンジョン攻略といったものは部分的にしか描かれない。中心に据えられるのはキャラクター間の会話であって、人気のない静かな場所で二人の人物が何か話をしているというシーンがこの作品には頻繁に出てくる。

 

この点で『SIGN』は、演劇的なアニメという印象を与える作品になっている。ここで厳密に「演劇的」という言葉の意味内容を定義しようとは思わないが、少なくとも言えるのは、必然的に会話の妙が際立つようになる演出ということである。多くの一般的なアニメにおいては、会話の流れのテンポを決定づけるために、キャラクターのちょっとした仕草やカット割りによってメリハリをつけているように思える。この点は基本的に『SIGN』も同じだが、キャラクターの動きもかなり抑え気味(顔のアップのショットが多い)の上に比較的長めのショットが目立つゆえに、どこか演劇的な印象を与えるのだ(こうした演出は、ある程度、真下耕一作品の特徴と言えるかもしれない)。

 

こうした演劇的な演出は、ゲーム内のキャラクターの背後に現実のプレイヤーの存在を浮かび上がらせるところで、その効果が最もよく発揮されているように思える。ここが、『SIGN』というアニメの独特な点であるだろう。この作品が最初から標的としているのは、ゲームをプレイしている人間たちのほうであって、ゲームプレイそのものに対してはあまり関心があるようには思えない。実際のところ、オンラインゲームでなされているのはゲームプレイを介したコミュニケーションである、というところで言えば、これは、それほど偏った見方とも言えない。だが、『SIGN』では、もっと極端に、現実の関係性を括弧に入れられる場所として、オンラインゲームの空間が理解されているように思える。

 

もちろん、だからと言って、現実の関係性が本当であって、オンラインゲーム上のそれは偽物であるといった考えが示されているわけではない。いわゆる「アバター」が仮面であるとすれば、現実の関係性において常に問われているのもまた仮面である。例えば、(主要キャラクターのひとりである)ベアはおそらく、自身の「父」という仮面から距離を取るためにオンラインの世界に入ったのだろうが、結局のところ、彼が最終的にその身に付与することになるのも同じ「父」のアイデンティティである。現実世界で満たされないものを虚構で穴埋めする、いわゆる「代償行為」という考え方が一面では真実であるとしても、そこで得られるとされる(部分的な)満足が仮面の効果である可能性については常に考慮に入れておくべきだろう。つまり、ベアの場合であれば、上手く「父」を演じられないという不器用さが彼にとっての(自身の欲望から距離を取るための)仮面なのだ。

 

SIGN』に見出されるオンラインとオフラインとの距離感は、90年代後半から2000年代にかけて特有のもの、つまりネットが普及し出した時代に固有のものなのかもしれない。現在、この距離はもっと狭まっているように思える。単にオンとオフを明確に分けられないというだけでなく、ネット上のコミュニケーションを無下に切り捨てることはできないという現実が存在するように思える。逆に言えば、『SIGN』には、いつでも気が向けばオンラインから切断できるといった気楽さ(当時の雰囲気)が表明されているように思うのだ。

 

その点では、主人公の司が抱え持つ、ゲームからログアウトできないという基本的な問題設定、言い換えれば、自身のよりリアルな実存が(現実よりも)ネット上に存在しているという肌感覚は、現在のわれわれのほうがより深刻な水準で実感している可能性がありうる。司は、父親からの家庭内暴力によってコミュニケーションに障害を負った(他人を容易には信用できなくなった)少女として設定されており、彼女が現実への帰還を果たすのは、ゲーム内で他の人物たちとの親密な交流を経ることによってだった(ベアに至っては、司の後見人を名乗り出るまでになる)。

 

ここにおいて見失われているのは、現実の社会的な関係性の強固さであり、それゆえにこそ、そうした関係性の外部を夢想させるような領域としてオンライン上の自己像が理想化されるという位階構造である。このとき、「理想化」と言っても、そこには、自身の社会的な属性を自嘲的に披露する(ネタ消費のうちにそれを還元する)という振る舞いも含める。あたかも自己の存在を一般化できるかのように振る舞えるのがネットの特性であるとしても、言い換えれば、ありふれた何かとして自分を示すことができるとしても、そうした一般性をどうしようもないものとして引き受けて生きざるをえないのは、やはり現実という場でしかないように思える。