ゲームと実存――なぜお前はゲームをするのか?

 前回は、われわれの共通の善にとって有害な存在である不快な他者についての話から始めて、実存の問題を提起するに至った。実存の問題とは、言い換えれば、われわれを合理的なシステムから逸らす何かがある、ということである。人生の目的とは何だろうか? もし、それが、快の総量を上げることだとすれば、そうした方向性からわれわれを逸らすものが何か存在する、ということである。「人はパンのみにて生きるにあらず」という聖書の言葉が意味していることは、こういうことではないだろうか? 満ち足りてあることだけが問題ではなく、むしろ、不満足であることもまた問題なのである。


 さて、前回の最後に、ゲームの話を少し持ち出したので、今回は、実存の問題をもっと先に進めるために、再びゲームについての話をすることにしたい。


 MMORPGを題材にしたアニメ作品としてまず思い浮かぶのが、「.hack(ドットハック)」シリーズである。このシリーズ作品が、例えば、『RAGNAROK THE ANIMATION』のような、同様にMMORPGの世界をアニメ化した作品と大きく異なる点はどこにあるだろうか? それは、「.hack」シリーズにおいては、作品世界のうちに、キャラクターを操作しているプレイヤーの存在というメタレベルが介入しているところである。『RAGNAROK THE ANIMATION』においては、メタレベルは存在せず、登場キャラクターはその作品世界の中に完全に内在しているのに対して、「.hack」では、個々のキャラクターの背後に、作品世界を超越した場所にいるプレイヤーの存在が透けて見えるのである。同じことを「実存」という言葉を使って言い換えれば、『RAGNAROK』のアニメにおいては、実存の問題は、その作品世界に内在しているのに対して、「.hack」においては、実存の問題は、常に、その作品世界を超越した場所に見出されるのである。


 作品世界を超越した場所に見出される実存の問題とは、つまるところ、「お前はなぜゲームをやっているのか?」ということである。なぜ、お前は、他にもっと有益な時間の使い方があるにも関わらず、ゲームをしているのか? なぜ、お前は、自身の生活のかなりの部分を犠牲にしてまで、ゲームにのめりこむのか? こうした問いの次元に見出されるのが、合理的システムでは回収できない過剰な部分だと言えるだろう。


 ここで少し、必然性と偶然性ということについて考えてみるべきかも知れない。実存と必然性との関係、それは、使命や運命という言葉で問題になる事柄である。そこで立ち現われてくるものは、世界の唯一性であり、唯一の世界に見出される意味である。そこにおいては、「私は誰か?」という問いと「世界はなぜ存在するのか?」という問いとがひとつになる。私の存在の意味と世界の存在の意味とが密接な関係を持ってくるわけである。「この日のために私が存在した」という瞬間がそこにはあるのだ。


 ゲーム作品の物語においては、このような奇跡の瞬間が散見される。例えば、『ドラゴンクエストⅢ』であるが、この作品は、それが『ドラゴンクエストⅠ』の起源に当たる作品であることが明らかになる瞬間に、奇跡のきらめきを放つと言える。つまり、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと進んでいく物語が再びⅠに戻ることによってその円環が閉じられるとき、Ⅲの中でⅠにやったことを再現するときに、世界の必然性が立ち現われるのである。つまり、それまで、「伝説」として彼方に想定されていたものこそが、自分がまさにこれから作り出そうとしているものであるということを知るときに、私の存在は、言ってみれば、永遠化されるのである(同様の奇跡の瞬間は、アニメ『風の谷のナウシカ』にも見出せることだろう)。


 それでは、逆の立場、偶然性としての世界についてはどのように考えられるだろうか? おそらく、今日のわれわれにとっては、こちらの立場のほうに、よりリアルなものを感じることができるだろう。偶然性としての世界は、世界の多数化と私の多数化とをもたらす。そこには、常に、「こうでなかったかも知れない世界」あるいは「こうではなかったかも知れない私」が、亡霊のように、付きまとうのである。そこにあるのは意味ではなく無意味であり、この無意味さが、われわれにとって、非常に耐え難いものだと言えるのである。つまり、そこで、極端な形で、示されることは、「世界は別に存在しなくてもいいし、私も別に存在しなくてもいい」ということである。


 「劇場版AIR」と「TVアニメ版AIR」とをひとつの作品と見なしたときに、決定的なものとして立ち現われてくる相違は、主人公の国崎往人観鈴の最期の瞬間に立ち会ったか否かというところに見出されることだろう。「劇場版AIR」ではその場所にいる存在が「TVアニメ版AIR」ではその場所にいない。同じような相違は、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』において、そのクライマックスのシーンに、キラだけがいるヴァージョンとキラとアスランの二人がいるヴァージョンの二種類があるということにも見出すことができるだろう。こんなふうに二つのヴァージョンを比べることによって立ち現われてくる衝撃とは、そこにその人物がいようがいまいが決定的な出来事は起こる、ということにある。つまり、ここに見出されるのは、存在の無意味さについての衝撃的な観念であり、その場所からその存在を差し引いても出来事の意味をほとんど何も変化させないということから示される純粋な偶然性の観念である。


 全体と部分という言葉を使って、上に書いた必然的なものと偶然的なものとを言い換えてみれば、必然的な世界とは全体としての世界のことであり、偶然としての世界とは部分的な世界だと言えるだろう。しかし、世界という言葉のうちには全体という意味が内包されている。存在しているものの全体が世界である。だとすれば、部分的な世界という言葉は語義矛盾ということになる。この矛盾をどのように解消すればいいだろうか?


 ここでまた別のターム、可能性と不可能性という言葉を使って問題になっていることを言い換えてみれば、偶然的な世界とは他の可能性が存在する世界のことであり、必然的な世界とはそれ以外の可能性が存在しない世界のことである。つまり、ここで言う部分的なものとは、可能性によってもたらされるものであり、全体としての世界が部分的なものに変化するのは、その世界の内部にあるわけではないが、だからと言って、その世界を超越した外部の場所に存在するわけでもない、そうした特殊な要素を想定する必要があることだろう。


 こうした要素を「形而上学的なもの」と呼んで切って捨てることは容易だろうが、宗教的なものについて考えるためには、常にこうした要素のことを考慮に入れておく必要があるだろう。「人はパンのみにて生きるにあらず」。この言葉を実感させてくれる現代的な事象とは、「摂食障害」と呼ばれている食べ物との興味深い関係であるだろう。拒食症において立ち現われてくるものとは、私に満足をもたらすすべてのもの以上のものが存在することの可能性である。このことは過食症についても言うことができるだろう。そこで求められているのは、今食べたもの以上のものが存在することの可能性である。


 ゲームにも同様の依存行為の次元を見出すことができないだろうか? 「依存」にしろ、「中毒」にしろ、「嗜癖」にしろ、事態を適切に表わしている言葉だとは思わないが、問題になっているのはそうした次元のことである。なぜ、ゲームは嗜癖の対象となるのか? この問いは提出するに値する問いだと僕は思う。


 ゲームに似ていて、しかもゲームよりもその構造が分かりやすい(ように見える)ギャンブルについて、まずは考えてみることにしたい。多くの人がギャンブルにはまる理由は一見すると明白であるように思える。というのは、そこで人々が求めているのはお金だ、というふうに考えることができるからである。しかし、お金を稼ぐ方法は別にあるだろうし、ギャンブルは、お金を稼ぐという点からすれば、極めて効率が悪い方法だと言えるだろう。つまり、問題になっているのは(摂食障害者にとっての食べ物と同様に)お金以上のものだ、と考えられるのである。


 ギャンブルにおいて常に問題になるのは「運」という言葉であるが、この言葉をもっと厳密に定義することはできないだろうか? 例えば、サイコロのことを考えてみよう。サイコロを振って1の目が出るのは偶然である。しかし、サイコロは六面しかないわけだから、そうした意味で、1から6までの数字が出ることは必然的であると言える。1から6までの数字が出ることは可能ではあるが、7以上の目が出ることは不可能である。さて、こんなふうに考えてみると、ギャンブルにおいては、可能性と偶然性とが問題になっているように思われる。しかし、同時に、必然性と不可能性も問題になっていると言える。なぜか? それはわれわれがサイコロのどれかの目に賭けなければならないからである。この地点で、ギャンブラーが見出したいものとは、必然的で、それ以外の可能性が存在しない世界に他ならないだろう。つまり、そこで、ギャンブラーは、自分の賭けた目が出ることを欲しているわけだが、しかし、サイコロの目が出ること自体は偶然にすぎない。可能性のひとつがそこに出てくるにすぎない。偶然的なもののうちに必然的なものを見出すこと、可能なもののうちに不可能なものを見出すこと。この地点で立ち現われてくるものが「運」と呼ばれるものであり、それは、つまるところ、実存についてのひとつの意味だと言える。「自分は幸運だ」あるいは「自分は不運だ」という実存にまつわる意味こそが、ギャンブルによって得られるものではないだろうか?


 こんなふうにして得られる実存についての意味は、社会的な水準で得られる実存についての意味を越え出ていると言えるだろう。「勝ち組/負け組」という言葉があるが、この言葉が意味しているのは、社会的な水準にギャンブルの次元を見出そうとする試みがそこにはある、ということではないだろうか? つまり、単純に、ある社会的なポジションを占めたということが問題であるわけではなく、その必然性――必然的な世界において一定の場所を占めたこの私とは誰かということの意味を読み取りたいわけである。


 さて、話をゲームに戻してみよう。ゲームの物語上の目的とそもそもゲームをすることそれ自体の目的との相違は、例えば、RPGにおいて、エンディングまで辿りついたあとでも、キャラクターのレベルを最大限にまで上げるという行為に見出すことができるだろう。作品世界のレベルで言えば、その目的は、例えば、世界の調和を乱している悪の存在を倒すことにあるわけだから、登場キャラクターの力は、その目的を果たすのに必要なだけあればいい、ということになるだろう。しかし、こうした点から言えば、キャラクターのレベルを可能な限り上げたいという欲望は、まさしく、作品世界の外に位置づけられるものだと言える。


 この種の欲望は、昔のゲーム、昔のアーケードのゲームにおいては典型的だったような、いかに高い点数を獲得するか、ということが課題になっていたゲームに顕著に見出すことができるだろう。例えば、『スペースインベーダー』であるが、この作品の物語上の目的は、地球を侵略に来た宇宙人たちを倒して、地球の平和を守ることだろうが、しかし、ゲーム上でこの目的を達成させることはできないだろう。というのは、この作品にはエンディングが存在しないからである。ゲーム上では、地球を守ることはできないが、同時に、地球が侵略され切ってしまうことも、厳密に言えば、存在しないと言える。というのは、新しく硬貨を投入すれば、何回でも地球を守るチャンスがやってくるからである。


 ゲームをすることの目的が、高い点数を獲得することから、エンディングという最終目的の達成へと移行していったのには、多分に、家庭用ゲーム機の出現(これはファミリーコンピュータの出現というのとほとんど同義であるが)に負うところが大きいことだろう。というのも、アーケードのゲームにおいては、硬貨の投入という制限が、ゲームの限界を定めていたのに対して、家庭用ゲーム機の場合、基本的には、何度もゲームをすることができるという制約の違いがあるからである。


 こうした変化を端的に示す例として、『ゲームセンターあらし』と『ファミコンロッキー』という二つのゲームマンガの違いというものを上げることができるだろう。『ゲームセンターあらし』においては、そこでゲームをすることの目的は、言ってみれば、限界まで進むことであり、壁を破って、新しい記録を打ち立てることである。従って、この作品には、スポ根もののパロディという側面が見出されるわけである。それに対して、『ファミコンロッキー』においては、もはや、高い点数を叩き出すことが問題ではなく、特別なイベントを見ることが問題となっている。通常のゲームプレイでは見られないものを見ること。これは、「ファミリーコンピュータマガジン」の企画である「ウソテク」とも対応する現象であるが、こんなふうに、どのようにゲームマンガが描かれているかということに、ゲームをすることの欲望の変化というものを見出すことができるだろう。


 高得点を獲得することにしろ、レベルを最大限まで上げることにしろ、レアアイテムを獲得することにしろ、こうした欲望は、作品世界の外に結びつけない限り、理解できない欲望である。それは、作品世界の中では不合理な欲望であるが、しかし、逆に言えば、そうした過剰な欲望こそが、ゲームをすることのそもそもの動機になっていると言えるだろう。つまり、問題になっているのは、常に、実存であり、「お前は誰だ?」という問いに対して回答をもたらす過剰な要素を見出したいわけである。そして、そうした過剰な要素は、常に、限界の彼方に想定されると言えるだろう。重要なのは、常に、今までに見たことがないものなのである。


 こうした限界は、まさに、アニメ作品においても問題になることだが、そのことについては、また別の機会に問題にしてみることにしたい。次にやるべきことは、上で整理したような実存の問題を場所の問題と結びつけることである。そのためには、まず、物語と日常生活という、以前から何度も問題にしている二つの言葉を、再び問題化しなければならない。僕が以前整理したような大状況と小状況の話では不十分であるだろう。必然性と偶然性、可能性と不可能性。そうした言葉のうちで問題になっている反復という水準にもっと注目しなければならないだろう。反復は、まさに、ゲームにおいても問題になることであるが、このことについては、次回、余裕があれば触れてみることにしたい。