アニメ『戦国BASARA』についてのメモ

 『戦国BASARA』の見所とは、超人的な能力を持つ武将たちが、果たしてどんなふうにその力を発揮するか、それをどんなふうに演出しているか、そうしたところにあるだろう。
 『戦国BASARA』においては、このアニメ作品の原作がゲームであるということを考慮に入れる必要があるが、それぞれのキャラクターたちの超人的な能力を表現するために、単に超人的な動きをキャラクターにさせるだけでなく、様々な特殊効果を用いている。武器や身体の周囲が光り輝いたりするのがそれである(伊達正宗は青く光り、真田幸村は赤く光る)。単に何かを光らせることによって、その光には通常時とは異なる意味を持たせることができる。このような特殊効果は極めてゲーム的だと言えるだろう。
 また、これは実写作品についても言えることだが、背景の色彩によって、天気が晴れであるか雨であるかによって、キャラクターたちの置かれている状況を説明するというのは分かりやすい演出である。『BASARA』の第2話の最後に織田信長が出てくるが、信長は他の武将よりもさらに人間離れした存在として描かれているが、このときの背景の暗さ(雷雲)が信長の暗黒面を端的に示していると言えるだろう(第3話では、前田慶次と伊達正宗とが闘うときに、天候が悪くなる)。
 アニメは、実写とは違って、重力を始めとした物理法則がないわけだから、物理法則に拘束されているはずのキャラクターたちの凄さというものを際立たせるためには、逆に念入りに、物理法則というものを描き出す必要が出てくる。『BASARA』においては、物質の破壊というところで、そうした現実感を演出している。それは、例えば、障子が飛び散ったり、床がえぐられたり、瓦が砕けたりという場面である。武田信玄の持っている巨大な斧の重さをも表現する必要があるだろう。そうした重さを表現しないと、そうした重い斧を軽々と持ち上げている信玄の凄さというものが際立たないわけである(伊達正宗が刀を六本も持っているということにも同様のことが言える)。
 Production I.Gは、『RD 潜脳調査室』でもそうだったが、物理的な重みが身体上に負荷をかけているという、そうした圧力を描写するのが非常に上手いアニメ制作会社だと言える。従って、『BASARA』においても、キャラが持っている武器がぶつかり合うシーンが非常に印象的である。こうしたところは――『BASARA』と表面的には似ているが――GONZOの『SAMURAI 7』とかなり異なると言えるだろう。『SAMURAI 7』においても、キャラクターたちの超人的な能力が描かれていると言えるが、そこでの能力というものは、エネルギッシュなパワーというものではなく、立ち回りや殺陣において問題になるような技術的な側面である。『SAMURAI 7』においては(『ルパン三世』の石川五ェ門のように)、物質にまったく負荷がかかっていないかのように、まるで豆腐を切っているかのように、物質がスパスパと切れていくわけだが、『BASARA』においてはむしろ物質は破壊される。力が一点に集中し、自らの身体にかかる負荷をはねのけることによって、物質を粉々に打ち砕くということ(第1話で真田幸村によっていきなり破壊される城門のように)。これが『BASARA』に見出すことができる力の描写だろう。
 超人的な能力を持つ『BASARA』の武将たち、そして、このことは『SAMURAI 7』の武士たちにも言えることだが、重力などほとんど気にしないかのように、画面上を自由に飛び回る、そのようなキャラクターの移動によって浮かび上がってくるのがアニメーションの空間の問題である。日本のテレビアニメは基本的に平面から構成されているのであって、三次元的な空間を表現するためには、極めて多くの工夫が必要になる。ただ単に空を飛んでいる描写だけだったら大したことはないが、そこに画面の奥行きを表現するのが難しいのである。
 近年のCG技術の発達は、このような奥行きの描写を極めて容易にさせていると言えるが、単に奥行きのある描写が出てくるというだけでは面白くはない。アニメーションの醍醐味とは、宮崎駿の飛行描写がそうであるように、新しい空間の創出という地点にまで辿りつくところにあるのではないだろうか。CG技術を用いた空間描写とは、簡単に言ってしまえば、平均化され平板化された均質な空間である。実際の物理空間もそんなふうに捉えることは可能だろうが、しかし、アニメの空間というものは、決して均質ではなく、ある部分が過度に歪んでいたり折れ曲がっていたりするという、そういう不均質な空間だと言える(これはすぐれて二次元上で三次元を表現するために生じる問題だろう)。こうした不均質さを、現在のところ、『BASARA』はそれほど上手く表現することができていないと言える。このことは、まさに、Production I.Gのアニメの方向性というものが不均質な空間を築くことには向っていないからだと言える。Production I.Gのアニメとは、言うなれば、地面を這うようなアニメーション、重力に過度に従っているアニメーション、ある種の重さを表現しているアニメーションと言える(武田信玄が城壁を馬で垂直に駆け上るシーンでさえ、馬と壁との間に物理的な関係が明確に生じている)。そうした重さを引き受けた上で、何とかしてそこから解放されようという、そのような自由への希求を『戦国BASARA』という作品は描いているのではないだろうか。そのことは、織田信長に向って、他の武将たちが結集して立ち向かっていくという、基本的なストーリー展開とも重なるところがあるように思える。重圧を強いるものとの対決がテーマなのだ。
 『戦国BASARA』で描かれる日本の風景、とりわけ農村の風景についても少し考えてみたい。『BASARA』で描かれる日本の風景に窺うことができるのは、国土の狭さであり、山々に囲まれた農村の閉鎖性である。ある意味、世界はそこで完結しているところがあるわけだが、まさに、だからこそ、キャラクターたちは、この国土を所狭しと、縦横無尽に駆け巡ろうとするのだろう。東北地方にいるはずの伊達正宗がいつの間にかに東海地方にまでやってきているというこの速度が意味しているのは、彼らの力があり余っているということであり、あたかも日本の戦国時代というパッケージでは彼らのあり余るエネルギーが収まり切らないかのようである。