言葉のない世界が生み出す言葉――ゲーム『ゆめにっき』について

 知っている人は知っているだろうが、『ゆめにっき』というフリーゲームがあって、遅ればせながら僕も去年ぐらいにはまって、この作品についていろいろと考えたりしたのだが、そのときはこの作品について何か書いたりはしなかった。それが昨日ふと、この作品のことを思い出して、ちょっとプレイし直してみたりして、昔考えたことを思い出したので、今さらながらこの作品の感想を書いてみることにしたい。


 この作品は、ネットを散策してみると、一部に熱狂的なファンがいるような気がするのだが、それは非常によく理解できるように思う。さらに、僕が興味を覚えたのは、この作品をファンの人たちがどのように受容しているかで、何というか、作品内では明示されていないことをどんどんと埋めるようにして二次創作がいろいろと生み出されているのが面白いと思った。


 この『ゆめにっき』という作品は、基本的に説明というものが決定的に不足していて(端的に「言葉が不足している」と言ってもいいが)、まさにこの欠落こそが、この作品の大きな魅力になっているところがあるように思える。


 現実世界と夢の世界とがあって、主人公の女の子が夢の世界を散策する、というような基本的な枠組は理解できる。しかしながら、なぜ、この女の子が自分の部屋から出て行こうとしないのか、それは謎である(素朴に想像を巡らせばこの女の子はひきこもりなのだろうが、なぜひきこもっているのかは分からない)。女の子が現実世界で行動できる範囲は自分の部屋とベランダしかないのだが、それに比べて、夢の世界は広大である。このコントラストがいろいろなことを考えさせるのだ。


 ゲームというものを、単純に、物語とか設定とか世界観という内容のレベルとゲームシステムのレベルとに分けて考えたときに、RPGのゲームシステムが(通常の作品では)要求することをこの作品が満たしていないというそのギャップが、逆にこの作品の大きな魅力になっているのではないかと思う。この作品がRPG作品として満たしていないその欠落をとりあえず三つ上げてみたい。


 まずこの作品には目的というものがない。もちろん、プレイヤーが何か目的を設定して、それをこのゲームの目的だと言うこともできるだろうが(「エフェクト」を全部集めるとか)、この作品には明示的な物語というものがないので、プレイヤーは、ただただ、夢の世界を散策するだけになる。


 次にこの作品には会話というものがない。会話がないだけでなく、様々な物理的な接触もこの作品ではかなり制限されている。人間的なキャラクターが夢の世界ではいろいろと出てくるのだが、そうしたキャラクターたちとコミュニケーションを取ろうと思っても会話することができず、唯一行なえる物理的接触というのが包丁を使ってそのキャラクターを殺したり傷つけたりすることなのである。殺してしまえば、相手からの反応はなくなるので、殺すという行為は逆説的なコミュニケーション(コミュニケーションの可能性を断ち切るコミュニケーション)だと言えるが、この作品では、殺したキャラクターはすぐに復活するので、殺すという接触の手段もあまり意味がないと言える。いずれにしても、他のキャラクターとコミュニケートできないのがこの作品の歯がゆいところであって、何というか、世界との根源的な接触というものを禁じられているようなところがあるのだ。


 そして、最後に、この作品には名前というものがない。登場するキャラクターたちに名前もないし、夢の世界のそれぞれのエリアにも地名のようなものはない。主人公の女の子は、名前の欄に「窓付き」とあるので、ネット上ではそう呼ばれているが、これもまったく名前らしくない名前である。そういうふうに名前というものが決定的に欠落しているので、ネット上では、他のいろいろなキャラクターにあだ名のような名前がつけられているのだが、そうした二次的な受容のされ方がとても興味深いと思うのである。


 なぜ名前のないキャラクターに名前をつける必要があるかと言えば、それは、おそらく、コミュニケーションの必要からであるだろう。ひとりでゲームをやっている分にはキャラに名前をつける必要はないだろうが、このゲームについて誰かと話をするときには、どうしても個々のキャラクターに名前をつける必要が出てくるだろう。最初は、そのキャラクターの特徴を一般名詞によって指示するだけだったかも知れないが(例えば、ポニーテールの女の子)、それがいつの間にか固有名詞のように扱われることになったのではないかと想像されるのである(「ポニ子」などと)。


 こんなふうにネット上に見受けられるコミュニケーションや二次創作に注目すると、この『ゆめにっき』というゲーム作品の特徴が非常に明確になるように思える。つまり、このゲームは、ディスコミュニケーションを表現にした作品と言えるのであり、そうした点から言うと、ほとんど反ゲームとも言えるようなゲームではないかと思う(何かと関わることを拒絶するゲーム)。主人公の女の子にとっての夢の世界は、まさに文字通り夢の世界であるというか、変化や進展といったものがほとんどない世界になっていると言える。つまり、女の子と世界との関係そのものがディスコミュニケートなのである。


 夢の世界は極めて広大であるが、しかし、夢を何度見ても、どこかに行き着くことはできない。夢の世界は広大ではあるが、完全に閉塞している。この閉塞感は、まさに、女の子の現実の部屋の小ささに見合うものだと言える。そうした点で、何か変化や進展というものがありうるとすれば、それは、夢の世界ではなく、現実の世界でだけ起こるのであり、そうした意味でも、現実の部屋のドアが開かないとすれば、エンディングに描かれるような、ああした出口しか存在しないことになるのだろう。


 こうしたことから、この作品の主張を、「夢をいくら見ていても仕方がない。現実で何か行動に移すべきだ」とか、「自室にひきこもってばかりいないで、ドアを開けて外に出て行こう」とか、そんなふうにまとめることもできるだろう。しかし、そういう説教臭いことを言うのは僕は好まないし、そういうことがこの作品のテーマだとも思わない(もしそれがテーマなら、最後にドアを開けて出ていってもよさそうだ)。そうではなくて、僕が興味深いと思うのは、この『ゆめにっき』という作品の様々な欠落部分が、まさにネット上で、多くの人のコミュニケーションによって埋め合わされているところである。おそらく、多くの人が、この作品の暗い雰囲気、ひきこもり的な感性に惹かれたのだろうが、そうした言葉のない部分が逆に多くの言葉を生み出すことになっているのが、非常に面白いと思ったわけである。


 別に、この作品の魅力は作者の病的な想像力にあるというふうにも言えるので、上記したようなことをいちいち言う必要はないかも知れないが、しかしながら、このゲームをプレイした後に、ネットの様々な言説や二次創作に触れると、思わず「なるほど」と呟いてしまう、そうしたネットワークが築かれているところに非常に感心したわけである。