噂の「笹の葉ラプソディ」を見た。『ハルヒ』二期の評価についてはもう少し見てから判断を下したいところだが、このエピソードだけを見た感想を言えば、『ハルヒ』はやはり面白いなあ、という極めて素朴なものである。
しかし、アニメの『ハルヒ』の面白さというのは二面あるように思っていて、ひとつは今回のエピソードのような、SF的な物語構成の上手さといったところであるが、もうひとつは、日常生活をいかに緩く楽しむかという、そういうコンセプトによって成り立っているエピソードの系列であって、この二つの側面がひとつの作品となっているところが『ハルヒ』の興味深いところだと思う。
さらに、アニメの『ハルヒ』には、何というか、理論面と実践面の二つがあるように思っていて、理論面というのは、例えば、「日常生活を面白くしていったほうがいい」というものだったとすれば、実践面というのは、この『ハルヒ』という作品それ自体が日常生活を面白くするのに役立っているという、そういう二面性があるように思えるのである。
そして、第二期に関して若干僕が心配に思っているのは、第一期のメインスタッフだった山本寛が二期では参加していないことであって、ヤマカンは、理論面と実践面で言えば、実践面のほうに大きな役目を果たしてところがあると思っているので(ダンスとか映画制作とか)、そうした要素が二期の『ハルヒ』ではどうなるのかがちょっと心配なのである。
再放送部分に当たる最初の6話、つまり「憂鬱」のエピソードを改めて見返してみて、『ハルヒ』という作品は、ハルヒの物語というわけでもなく、キョンの物語でもあったんだなあ、という当然と言えば当然のことを発見した。
今まで僕は『ハルヒ』というのはハルヒの物語だと思っていて、ハルヒがセカイ系的な欲望を抑制することによって、いかにこの日常生活に留まることができるのかということが課題になっているものとばかり思っていた。しかし、この作品をキョンの物語という側面からも見てみれば、それとは少し違った課題も見出すことできる。それは、つまり、この世界にはもはや面白いことなど何も起こりはしない、終わりなき日常生活がいつまでも続くだけだというキョンの諦念をどうしたら克服することができるのか、という課題である。
キョンがハルヒに与えた影響というのは日常生活の価値の重要性であり、これは、普通であることの重要性と言い換えてもいいかも知れないが、こうした方向性において、ハルヒは、日常生活においてそこそこの満足を獲得することができたと言える。これに対して、ハルヒがキョンに与えた影響というのは、この世界には面白いことが起こる可能性がまだまだたくさんあるということであり、こうした方向性において、キョンは、非日常的な経験をいくつも経ることによって、自らのシニカルな態度を緩和させることができたと言える。
一見すると、この二つの方向性は正反対のもののように思えて、まったく矛盾したことをこの作品は提示しているようにも思えるが、しかし、これら二つの方向性のうち、どっちか一方が重要というわけではないというところが、この作品のバランス感覚なのだと言える。そうした点では、ひとつひとつのエピソードで問題になっているのは、両極端にあったものをいったいどのあたりで折り合いをつけるのかということであり、その解決の仕方がすごく絶妙だと言えるのである。
今回見返してみて、「憂鬱」の最後のエピソードである第6話などは、その着地点の絶妙さに、かなり感動したが、その次の第7話の野球話も非常に上手くできているなあ、と思った。
第7話に関して、気に入ったところを一点だけ指摘すれば、試合当日に雨を降らすことができないかと、キョンが長門に頼むシーンである。そのとき、長門は、数百年から一万年後に地球の生態系に影響を与えることになるから、環境情報を変えることは推奨できないと言う。この答えに対して、キョンは、素直に、「じゃあ、やめたほうがいいな」と言うわけだが、ここで前提となっていながら言われてはいない利己的な返答というのは、数百年後には自分は死んでいるのだから、現在の自分を満足させる選択肢が最適の選択である、というものだろう。しかしながら、そういった類の問答を一切省いて、数百年から一万年という長大なタイムスケールを前にしてあっさり、「やめたほうがいいな」というふうに言えるという、まさにこのような着地点が非常に絶妙だと思うのであり、こういうところがこの作品の基本的な方向性なんだなあ、と改めて実感したわけである。
こんな感じで、やはり『ハルヒ』というのはすごい作品なんだなということを再認識したので、二期のエピソードにも当然期待したい。