2007-01-01から1年間の記事一覧
井之頭五郎は、ある点で、非常に自由な人間である。しかし、そのことが、彼を孤独にする。彼は、言ってみれば、土地というものから自由になった人間である。しかし、その代償として失ったものがある。その失ったものを、端的に、生活と呼ぶことができるだろ…
井之頭五郎とは、いったい、何者なのか? 彼は、この作品においては、まず、非常に特別な人間として登場する。どこにでもいる人間ではなく、非常に特殊な人間。それは、「若き大女優」とのパリでのロマンスの思い出があるような人物である。そうした特殊な人…
この前まで続けていた『ぼくらの』論の中で、僕は、現代人の孤独というテーマを少しだけ提出してみたが、この点をもっと掘り下げてみたいと思ったので、今回からは、久住昌之原作、谷口ジロー作画の『孤独のグルメ』をテキストとして取り上げて、現代人の孤…
キリエの物語は二つの対話から成り立っている。ひとつはキリエと畑飼との対話であり、もうひとつはキリエと田中との対話である。 畑飼という人物は、チズの物語を論じたときにも問題にしたように、競争的関係、バトルロワイアル状況において、そこでのゲーム…
マキの物語から、あえて人を殺すということが問題になる。それは、コダマの物語で描かれていたような殺人とも、チズの物語で描かれていたような殺人とも異なる。コダマの物語で描かれていたのは、犠牲者としての人の死だった。それは、意識的に行なわれる殺…
モジの物語で描かれている三角関係は、他者との競争的関係(バトルロワイアル状況)を、非常に分かりやすい形で示している。つまり、そこにおいては、自分の死は相手にとっての利益になるのであり、逆に、相手の死は自分にとっての利益となる。しかしながら…
アニメ版のチズとマンガ版のチズとはかなり異なっている。アニメの『ぼくらの』は、マンガの『ぼくらの』に見出されるチズの憎しみを緩和している。もっと言えば、チズの覚悟とでも言うべきものを緩めているのである。 チズには死ぬ覚悟ができている。だから…
『天元突破グレンラガン』とは、いったい、どのようなアニメ作品だったと言えるだろうか? 『グレンラガン』には、旧来のアニメ作品の反復という側面がある。もっと限定して言えば、それは、70年代から00年代にかけての(ロボット)アニメの反復である。しか…
前回も少し問題にしたことであるが、カコの物語には、現代人の孤独な生を見出すことができる。家族や友達がいないわけではないが、いや、むしろ、ちゃんといるからこそ、そこで、一種の疎外感を意識している。そこでの問題とは、簡単に言ってしまえば、いっ…
ナカマの言う「全員は全体の奉仕者」という言葉の意味とはどのようなものだろうか? ここで提出されている観念は、ダイチの場合とは違って、もっと広い範囲でのグループ、自分が見知っている範囲以上のグループが問題になっている。言ってみれば、そこで問題…
闘いに負ければこの世界は滅びるが、闘いに勝っても自分の命はなくなる。このような状況において、それでも、なおかつ、闘いに勝つことに意義を見出すことができるとすれば、それは、自分の死後に生き残る人たちのために闘う、ということである。これは、ま…
『GANTZ』20巻を読んだ。ちょっと前に、21巻を読んだので、順番が逆になってしまったが。 20巻と21巻の間には、連載の休止期間があるわけだが、この休止期間から振り返って考えてみると、この20巻は、奥浩哉の焦りというか倦怠というか、とにかく話を先に進…
コダマの戦闘とワクの戦闘とを比較したとき、コダマの戦闘において考慮に入れられているものとは何だろうか? それは、その戦闘によって多くの犠牲者が生じるということ、闘っているもの同士の死者以外に、その戦闘に巻き込まれて死ぬ人間が多数出てくるとい…
『ぼくらの』という作品の最も衝撃的なところ、『ぼくらの』という作品が先行する様々な作品から影響を受けて作られているとしても、それまでの作品とは一線を画すようなところとは、いったい、どこだろうか? それは、言うまでもないことかも知れないが、巨…
『ぼくらの』という作品がなぜ倫理的なのかということを説明するためには、まず、鬼頭莫宏によるマンガ版の『ぼくらの』と現在放送中のアニメ版の『ぼくらの』との差異を明確にすべきだろう。 アニメの『ぼくらの』は、ネットで一時期話題になったように、監…
最近のアニメ作品やその他のサブカルチャー作品を見ていて疑問に思うことがある。それは、ある種の共同体主義的な価値観が過度に肯定されている点である。ある種の共同体主義的な価値観とは、古き良き日本の価値観とされているもの、ある地域の住民同士によ…
前回は、未来や過去といった個人史の時間軸に沿う形で、節目の時を問題にした。過去が現在に介入してくる仕方は、非常にたくさんある。ノスタルジーという形で、過去が現在に介入してくる仕方は、主体のポジションの変化をもたらす。これは、パースペクティ…
手塚治虫のマンガ『ボンバ!』を読み返してみて、いろいろと思うところがあったので、そのことについて少し書いてみたい。 この作品は、おそらく、手塚治虫の作品の中でも、失敗作として数え上げられている作品ではないかと思われる。しかしながら、僕は、個…
前回は、『まなびストレート』を中心にして、日常と非日常との分節の問題を取り扱った。『まなびストレート』は、一見したところ、非日常を取り扱った作品だと言える(非日常的な経験としての「わくわく」や「きらきら」をもたらすものとしての文化祭)。し…
この春に新しく始まったアニメを概観してみると、巨大ロボットものの作品がいくつかあるのが目につく。巨大ロボットもののアニメが大量に作られたのは、70年代後半から80年代にかけてであるが、現在においても、そうした流れの末に、巨大ロボットアニメが作…
前回は、日常と非日常との分節について、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『涼宮ハルヒの憂鬱』という二つの作品を主として参照しながら、問題にしてみた。日常と非日常の分節において、常にアクセントが置かれているのは、日常のほうであり…
先日、『鉄人28号 白昼の残月』の映画を見てきたので、その感想を少し書いてみたい。 このアニメ映画は、2004年に作られたTVシリーズの『鉄人28号』に引き続く形で作られた作品であるが、そもそも、2004年の『鉄人』のアニメがどのようなものであったのか、…
先日、新海誠の新作『秒速5センチメートル』を見てきたので、その感想を少し書いてみたい。 この作品の主題をひと言で言えば、それは、再会だと言えるだろう。しかしながら、ここで問題になっているのは、永遠の魂の存在証明とは別のもの、むしろ、その永遠…
前回は、アニメを見ることに関わる実存的な問題を少しだけ提起した。そこで問題になっていることは、生活のリズムを刻むこと、平板な世界にいかに起伏をもたらすか、ということである。これは、つまるところ、世界をいかに意味づけるか、ということである。…
前回は、小さな場所で起きる小さな出来事、様々な小さな物語の輪郭を描いた。小さな物語とは、言ってみれば、日常生活という架空の中心の周囲に生み出される物語だと言える。様々なアニメ作品において、日常生活は、単に仄めかされるだけであって、それが直…
前回は、「ゲームと実存」というテーマで、今日においてゲームをすることの意味を、実存という側面から問題にしていった。僕がゲームを問題にしたのは、そこでの実存の問題を場所の問題と結びつけたかったからである。僕は、以前から、小さなものに興味を持…
寄る辺なき透明な存在の叫び――『機動戦士ガンダムSEED』の開いた地平 http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20061017#1161083125 以前書いたこの文章の中で、僕は、『コードギアス 反逆のルルーシュ』を『機動戦士ガンダムSEED』と同じ地平から見ることを提案した。…
前回は、われわれの共通の善にとって有害な存在である不快な他者についての話から始めて、実存の問題を提起するに至った。実存の問題とは、言い換えれば、われわれを合理的なシステムから逸らす何かがある、ということである。人生の目的とは何だろうか? も…
アニメ『のだめカンタービレ』のオープニングを見ていて気になるところが少しあったので、ちょっと書いてみたい。 気になるところは二点あって、まず一点目は、白い空間のうちにピアノが出てきて、そのピアノの足元から、カラフルな星をちりばめた黒い影が伸…
前回は、競争的関係と家族的関係とを対立させることによって、いくつかのサブカルチャー作品において問題になっていることを整理してみた。今日のサブカルチャー作品で問題になっていることを端的に述べれば、それは、未だに失われたことのない故郷を再発見…