新海誠における再会と喪失の問題――『秒速5センチメートル』を見て

 先日、新海誠の新作『秒速5センチメートル』を見てきたので、その感想を少し書いてみたい。


 この作品の主題をひと言で言えば、それは、再会だと言えるだろう。しかしながら、ここで問題になっているのは、永遠の魂の存在証明とは別のもの、むしろ、その永遠の魂に加えられた傷であると言えるだろう。このことを、これから、詳しく述べてみたい。


 そもそも、再会の主題とはどのようなものか? それは、セカイ系的な文脈で言えば、永遠の魂の実在の証明であると言っていい。例えば、それは、次のような物語の形で示される。ある愛し合っている男女が悲劇的な出来事によって離れ離れになって死ぬ。その魂は別の肉体に宿ることになるが、その新しい生においても、この男女は、再びお互いを愛し合うようになり、再びこの二人は出会うようになる、というものである(新海誠の作品には村上春樹の強い影響を見ることができるが、ここで、『秒速5センチメートル』との関連で、村上春樹のエッセンスが詰まった短編作品として、『カンガルー日和』に収録されている「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」の名前を上げておくことにしたい)。


 『ファンタジックチルドレン』や『ラーゼフォン』といった作品が描いているのはこのような物語であるが、こうした物語の周辺に、新海誠の諸作品も位置づけられることだろう。だが、興味深いことに、新海の作品においては、このような再会の可能性よりもむしろ、再会の不可能性を描いているように思えるところもある。そして、今回の『秒速5センチメートル』は、まさに、この再会の不可能性を真正面から描いているように思えるのである。


 ここにおいて立ち現われてくるのが喪失の問題であり、新海誠の作品の中心には、この喪失があると言っていいだろう。『ほしのこえ』は、確かに、再会の可能性を描いた作品のようにも見える。しかし、『秒速5センチメートル』を見てから、この作品を見返してみると、この作品の強調点を(再会の可能性とは)別のところに見出せることができるように思える。つまり、再会できるかどうかということがもはや問題なのではなく、永遠の時、あるいは、永遠の場所とでも言うべきものが存在する、ということがそこでは主張されているように思えるのである。そのことを示しているのが、「僕は/私はここにいるよ」という最後の台詞であり、この台詞が意味しているのは、「何かがあった」という過去形で主張されるものではなく、「永遠に何かがある」ということであるだろう。


 メールの問題をここで取り上げてみれば、なぜ、最後に、昇は美加子のメールを受け取ることができたのだろうか? 最低限の条件として、そこで指摘することのできるものとは、昇が彼のメールアドレスを変更していなかった、ということである。このことは、決して、どうでもいい瑣末なことではなく、昇がひとつの場所を常に用意していた、ということを意味している。つまり、昇は、メッセージを受け取るための受取人の場所を常に空けておいたわけである。この場所こそが、「ここにいるよ」という言葉によって示唆された永遠の場所ではないだろうか?


 こうした観点から見るのであれば、『秒速5センチメートル』は、受取人の場所を常に取っておいているのに、いつまで経ってもメッセージがやってこない、そのような人物を描いた作品だと言えるかも知れない。それでも、第一話の「桜花抄」だけは、用意していた場所にメッセージがやってきた物語だと言うことはできるだろう。ここでの主題は、ある種、「約束の場所」の主題だと言えるが、つまるところ、待っていたものがやってきた話だと言える。ここでの約束は、特定の時間や場所に拘束されないものであり、電車の遅れなどによってもたらされる障害が、約束の場所の価値を極限にまで高めていると言える。


 それとは対照的に、第二話と第三話に見出されるのは、受取人の場所に何もやってこない物語だと言えるが、さらに厳密に言えば、ここにおいて、メッセージは、決してやってこなかったわけではなく、それ以前に、すでに送られてきていた、と考えられるだろう。それは、第一話において、貴樹と明里が再会したとき、この再会が同時に、永遠の魂に対して傷をつけているからである(貴樹が永遠の魂を見出したあとに感じた悲しみこそがその傷であり、これこそが決定的なメッセージだと言える)。その点で、この『秒速5センチメートル』という作品は、第一話にそのすべてのエッセンスが詰め込まれた作品だと言えるのであって、第二話と第三話はほとんどおまけのようなものだと言えるだろう。


 第二話で描きたいこととは、主人公の貴樹が常に彼方を見ているということ、ただそれだけである。貴樹が彼方を見ているということを描くために、あえて、そこに、第三者の視点を取り入れる必要があったわけである。そして、第三話の物語は、第一話の物語のうちで言外に仄めかされていたことを現実化しただけであり、再会の不可能性を際立たせるという意味だけを持っていると言える。


 すでに何かが終わってしまったということ。これこそが喪失の問題であり、このことは、まさに、『雲のむこう、約束の場所』で描かれていたことでもある。物語の最後で、浩紀と佐由理は再び出会うことになるが、これは、しかし、厳密な意味での再会ではない。というのは、そこで、佐由理は、何かが失われたことを盛んに強調するからである。言い換えれば、彼らは、決して、約束の場所で再会できたわけではない。むしろ、彼らがそこで出会えたのは、何かを喪失したからこそ、約束をそこで違えたからだと言えるのである。


 このギャップ、ある種の不可逆性こそが、新海誠にとっての問題だと言える。この問題を言い換えてみれば、それは、われわれの時間概念のどこに永遠という時の介入する余地があるのか、ということだろう。この点において、新海誠の視点は、常に、様々な物に向かっていると言える。われわれの日常生活を構成している様々な物、そのほとんどは商品だと言っていいかも知れないが、それは、有限の時間に位置する物である(それらの物が持っている重みを、果たして、百年後の人が、同じように見出すことができるだろうか?)。その物質性に、永遠の印を見出すことはできない。永遠の印を見出すことができるものとは、むしろ、それらの物に投げかけられている光のほうである。つまり、そこには、常にまなざしがあるのであり、そのまなざしとは、端的に、喪失したものに向けられるまなざし、その光景に何か足りないものがある、ということを見るまなざしである。


 それゆえ、逆説的なことながら、永遠化されているのは、むしろ、喪失そのもののほうだ、と言えるかも知れない。『秒速5センチメートル』の第二話で描かれる想像上の場所(貴樹と明里が丘の上から何か崇高なものを眺めている場面)こそが、言ってみれば、永遠の場所であるわけだが、この場所は、実在しないという点で、徹底的に失われていると言えるのである。


 離れ離れになるカップルというモチーフについて、もう少しよく考えてみることにしよう。ここにあるのは、何か外的なものの力、運命の力のようなものである。この点において、『ほしのこえ』で美加子が巨大ロボットに乗って宇宙人と闘わなくてはならない理由も、何らかの外的な力の介入の結果と考えるべきだろう。『ほしのこえ』においては、それほど上手く描いてはいなかった、カップルが離れ離れになる必然性を、『秒速5センチメートル』においては、かなり上手く位置づけているように思う。もちろん、そこで問題なのは、親の転勤という一事ではなく、ある種の世界の不合理さのようなものである。


 「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」という紀貫之の歌が思い起こされるが、ここに見出されるのは、世界に対する愛憎入り混じった感情だろう。世界は不合理であるが、世界は美しい、というのが、『秒速5センチメートル』の最後に描かれている感慨ではないのか? 離れ離れになったカップルを結びつけているのはひとつの記憶だけであり、その記憶は、すぐにも切れてしまうような脆い糸だと言えるだろう。その記憶の糸を辿って、主人公が最初の場所に戻ってきたとしても、そこに見出されるのは、何かが決定的に失われてしまったという喪失感だけである。


 紀貫之にとって同じものの反復(同一性の根拠)を印づけていたものは、梅の花の香りだったわけだが、『秒速5センチメートル』において、同じものの反復は、桜の花びらによって示されている。しかし、当然のことながら、いま見ている桜の花びらは、昔見た花びらとまったく同じものではないだろう。そこには時間の経過がある。太陽系の外に向かって旅立った宇宙探査機のニュースが示唆しているように、そこには、緩慢ながらも、距離の移動がある。ここにおいて、『ほしのこえ』から提起されていた「われわれはいったいどこまで行けるのだろうか?」という問いは、貴樹と明里の出されなかった手紙がどこに届くのかという問題と共に、宙吊りにされていると言えるだろう。つまり、ハッピーエンドかバッドエンドかという分かりやすい結末が問題なのではない。ここにおいて印づけられているのは、永遠というものから決定的に切り離されているわれわれの有限な視点だけである。