日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って

 前回は、アニメを見ることに関わる実存的な問題を少しだけ提起した。そこで問題になっていることは、生活のリズムを刻むこと、平板な世界にいかに起伏をもたらすか、ということである。これは、つまるところ、世界をいかに意味づけるか、ということである。あるいは、日常生活というものをいかにして再構成するか、ということである。


 この日常生活の分節化の問題が、今日の非常に多くのサブカルチャー作品に見出されるということが、現在の僕の関心事である。何度も繰り返すことになるが、日常生活そのものを描くことはできないので、こうした作品において問題になっていることは、言ってみれば、日常生活における節目を発見することであるだろう。つまり、何かの終わりであると同時に何かの始まりでもあるような、そうした節目を様々なところに発見することが問題になっているのである。


 現在は卒業式のシーズンであるが、卒業式というのもまた、ひとつの節目であることは間違いないだろう。そこで歌われる歌に、例えば、「旅立ちの日に」とか「巣立ちの歌」というタイトルがつけられていることにも、やはり、現代的なモチーフを見出すことができるだろう。つまり、ここで強調されているのは、この時は、終わりの時であるよりもむしろ始まりの時だ、ということである。


 しかしながら、節目の時の機能は、単に、始まりか終わりを画することに還元することはできないだろう。多くの学園もの作品に見出されるのは、むしろ、リズムを刻むことであるように思える。簡単に言ってしまえば、そのリズムとは、日常と非日常のリズム、ハレとケのリズムである。


 非常に多くの学園ものの作品が、様々な学校行事や様々なイベントを中心にして描かれている点にもっと注目すべきだろう。こうした学校行事の時間は、非日常の時間だと言える。その非日常の時間を取り巻くように、その他の日常的な時間が構成されていると言っていい。つまり、学園ものにおいては、本当ならば、学校の中心にあるはずの勉強の時間がすっぽりと抜け落ちているのである(もちろん、勉強の時間が描かれることはあるが、それは、例えば、授業中に別のことを考えていて授業に集中していないとか、そういうふうな形で、何か別のことを描くために用いられている)。


 行事と行事の間に挟まれた日常的な時間。そうした時間を上手く描いていると思われるアニメ作品が『彼氏彼女の事情』である。このアニメ作品の後半は、文化祭にまつわる出来事で占められることになるが、しかし、偶然の出来事の結果(アニメが原作に追い付いてしまった結果)、文化祭それ自体がこの作品の中で描かれることはない。後半のサブタイトル「14DAYS」の意味とは、文化祭までの14日間ということであるが、文化祭それ自体が描かれず、文化祭までの行程が描かれるというところに、日常生活がどれほど非日常的なものによって規定されているのか、ということがよく示されているように思える。


 描かれることのない文化祭と文化祭までの行程ということで、すぐさま思い出される作品と言えば、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』である。


永遠の文化祭に向けて
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20051101#1130877503


 以前書いたこの文章の中で、僕は、『ビューティフル・ドリーマー』の作品構造を少しばかり分析してみたが、そこで、僕が最終的に見出したものとは、この作品の内部には、日常生活の場所は存在しない、ということである。文化祭の前日が永遠に繰り返されるということは、文化祭がいつまで経ってもやってこないということであり、つまるところ、節目の時を出来る限り先延ばししようということであると言える。しかしながら、文化祭の当日を迎えたとしても、その後にやってくるものとは、おそらく、いつもの『うる星やつら』のドタバタ騒ぎだろうし、つまるところ、そこには決定的な切断がまったくないと言えるのである。こんなふうにして、節目の不在を際立たせた点で、この『ビューティフル・ドリーマー』という作品は、やはり、非常に驚くべき作品だと言える。


終わる予感と終わらない物語
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20060912#1158021901


 『うる星やつら』の関連で、以前に、その「完結編」を問題にした文章も、ついでに、参照しておくことにしたい。ここで僕が扱ったことも、節目の不在と同種の問題、つまり、可逆性と不可逆性にまつわる問題である。節目の時とは、つまるところ、不可逆性を印づける瞬間だと言っていいだろう。このことは、過去に戻ることとの関連で、また今度、『時をかける少女』などに言及するときに、改めて問題にすることにしたいが、こうした節目の時が、時間における分節化を行ない、生のリズムを刻むことになると考えられるのである。


 さて、次に、『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメを取り上げてみることにしたい。この作品は、『ビューティフル・ドリーマー』と同様、日常と非日常との区別に極めて敏感な作品だと思われるが、果たして、そこでは、どのようにこの区別が扱われているのだろうか?


 この作品の基調にあるもの、それは、一見したところ、日常生活の退屈さであるように思える。「涼宮ハルヒの退屈」と題されたストーリーもあるが、なぜ、この作品が「退屈」ではなく「憂鬱」と名づけられているかは、問うに値する問題であるように思える。というのも、涼宮ハルヒの欲求不満であるのなら、非常に様々なところに見出すことができるが、いわゆる鬱状態ハルヒに見出すことは困難であるように思われるからである。


 おそらく、可能な解釈は、次のようなものだろう。すなわち、ハルヒの欲求不満は、ハルヒの憂鬱さを覆い隠すために機能しているのである、と。つまり、ハルヒの不満が消え去ったときに、そこに立ち現われてくるものが、ハルヒの憂鬱さなのではないか? ハルヒの欲求不満のうちに過剰なものを見出すことは容易だろう。言い換えれば、ハルヒの要求には何か理不尽なところがあって、そもそも、彼女は、始めから、満たされたいとは思っていないのではないだろうか? つまり、ハルヒが不満である限りにおいて、ハルヒは、憂鬱さというもっと深刻な事態を避けることができる。この点で立ち現われてくる憂鬱さとは、ある種の虚無意識、「すべてはむなしい」というような絶望状態である。


 ハルヒが「つまらない」と言ったときには、そこにはまだ、「何か面白いものが他にあるはずだ」という信仰が残っているはずである。この点で、この作品が、ある種のセカイ系作品のように、超越のレベル(メタレベル)の導入を容易に取り入れなかった理由が見出せるだろう。超越のレベルの導入とは、つまり、世界の裏側を見せることによって、世界の意味づけを一新することである。「今までお前が見てきた世界は世界の見かけにすぎず、その背後には真の世界があるのだ」というふうに、認識を刷新するのである。


 しかしながら、こんなふうに、認識のレベルが一段上がっても、それが最終的な解決にはならない、というのが、おそらく、『ハルヒ』という作品の前提にある考えである。メタレベルを導入したとしても、その背後に、またしても、それよりも一段高いメタレベルを想定することができるのであれば、結局のところ、そこには、決定的な節目は存在しない、ということになってしまうからである。われわれの生命が、広大な宇宙の時間と比べれば、ほとんど染みのようなものでしかない、という考えほど、われわれの行為を無意味化させるものはないのではないか?


 ハルヒの要求とは、簡単に言ってしまえば、「世界の裏側(世界の真の姿)を見たい」というものであるが、この要求は、宇宙人や未来人が存在している点で、ある意味、満たされていると言えるが、ハルヒはそのことを知らない。この無知こそが、世界が平板化するのをギリギリのところで食い止めている壁だと言っていいだろう。ハルヒが未知の場所を常に残しておくことで、超越への意志を持ちつつも、常に世界に内在していることになる限りで、涼宮ハルヒの憂鬱は決して訪れないのである。


 つまるところ、この作品において問題になっていることは、単に、退屈な日常生活をいかに面白いものにするか、いかにして日常生活に非日常的なものをもたらすのか、ということではなく、日常と非日常との区別をいかにして明確化するか、ということだと言える。ハルヒにとっては、あらゆることが、退屈な日常である。しかし、だからこそ、その彼岸には、まだ見ぬ非日常が常に想定されているのであり、その非日常に到達することなく、その周囲を巡ることによって、ある種の副産物として、そこそこ面白いものが生み出されることになるのである。


 『涼宮ハルヒの憂鬱』の主題歌である「冒険でしょでしょ?」と「ハレ晴レユカイ」は、共に、非日常への志向というふうにまとめることができるだろう。しかし、問題なのは、そこに非日常をもたらすことであるよりも、日常生活をいかに組織化するか、いかに再編成するか、ということであるように思える。そして、この点が、繰り返しになるが、今日の多くのサブカルチャー作品で課題になっていることであるように思えるのである。


 「冒険でしょでしょ?」の歌詞の一節に「明日過去になった今日のいまが奇跡」というところがあるが、なぜ、現在という時が奇跡の瞬間なのだろうか? それは、ここに、奇妙な時間の分節化が存在するからである。「明日過去になった今日のいま」という時には、現在・過去・未来という時間の分節化が一挙に与えられている。現在から未来へ、未来から過去へという往復運動によってもたらされるものとは、今という時間の絶対性、その固有性である。


 さて、このような時間の分節化を扱うのに最適な作品が『時をかける少女』であるわけだが、次回は、この作品とその周辺を探ってみたいと思っている。また、今回言及できなかった他の学園ものの作品についても(例えば、現在放送中の『まなびストレート』など)、余力があれば、問題にしてみたいと思う。