ノスタルジーとその下に潜む廃墟――『鉄人28号 白昼の残月』を見て

 先日、『鉄人28号 白昼の残月』の映画を見てきたので、その感想を少し書いてみたい。


 このアニメ映画は、2004年に作られたTVシリーズの『鉄人28号』に引き続く形で作られた作品であるが、そもそも、2004年の『鉄人』のアニメがどのようなものであったのか、ということを少し振り返ってみたい。2004年のときに(このブログを始める前に)『鉄人』について書いた自分の文章を、部分的に修正して、自己引用してみたい。

 2004年4月から9月までTV放映されたアニメ(全26回)。
 この作品の監督である今川泰宏の名前を知っているだろうか? 今川の名前は知らなくとも、『ミスター味っ子』のエキセントリックな演出は覚えていることだろう。今川の名前は知らなくとも、それまでのガンダムの世界観をぶち壊しにした『機動武闘伝Gガンダム』の存在は耳にしたことがあるだろう。これらの作品の監督をしたのが今川泰宏である。つまり、今川は、「原作クラッシャー」と呼ばれているように、既成の枠や型を壊すのが大好きなのであり、その挑戦的な姿勢は、現在のアニメ界(サブカルチャー界)にとって、貴重な存在ではないだろうか?
 その今川が今回取り組んだ仕事がこの『鉄人28号』である。今川と横山光輝との相性の良さは『ジャイアント・ロボ THE ANIMATION』によって証明されている。『ジャイアント・ロボ』は90年代のアニメを語るとき、必須の作品である。そして、今回、今川が扱った横山作品が、言わば、『鉄腕アトム』と共に、日本のTVアニメの父祖とも言うべき『鉄人28号』であるのだ。
 現在のところ、『鉄人28号』のアニメは、今回のを入れて、四つ作られている。他の三作品の名前を上げておくと、『鉄人28号』(1963)、『太陽の使者 鉄人28号』(1980)、『超電磁ロボ 鉄人28号FX』(1992)である。僕は、他の三作品を見ていないので、ちょっと比較検討はできないが、おそらく他の作品は、ヒーローものの一種として、鉄人を描いていることだろう。
 そもそも、鉄人は、アトムとは違って、自分の意志というものを持っていない。主題歌にあるように、「良いも悪いもリモコン次第」というわけである。これは非常に斬新な設定だと言えるだろう。しかし、おそらく、この設定が十分に生かされたことはなかったのではないか? つまり、鉄人は意志を持たない道具ではあっても、それを操縦する正太郎くんが正義の味方であるならば、事態は何も変わっていないからである。
 アトムに関して少し述べれば、アトムは、七つの能力のひとつとして、ある人間が良い人間か悪い人間かを見分ける能力が備わっていた。この観点(絶対的に良い人間と悪い人間がいるという観点)こそが、初期のヒーローものの特色であると言っていいだろう。このような善悪の判断基準を巡って、ヒーローものは、様々な揺れ動きを見せたのであり、それがそっくりそのまま、サブカルチャーの歴史になっていると言えるだろう。
 それでは、今回の『鉄人』はどうだろうか? 「原作クラッシャー」の名に相応しく、今川は、『鉄人』を、ヒーローものから社会派ミステリーへと移行させてしまった。舞台となるのは昭和30年。つまり、その翌年の経済白書が「もはや戦後ではない」と言い放った時代である。今回の『鉄人』では、この「もはや戦後ではない」という台詞が何度も強調される。つまり、逆に言えば、今回の『鉄人』で提出されている問いとは、「戦後は本当に終わったのか? 戦争はすべて清算されたのか?」というものであり、戦争兵器として製造された鉄人は、まさに、蘇った戦争の記憶として描かれているのである。
 しかし、正直言って、この点が僕には不満だった。確かに、戦後の様々な社会的な事件と鉄人を関わらせる試みは面白い。昭和30年代の風景(工業化が進む日本の風景)に鉄人はよく映えている。しかし、そこに見出されるものは、単なるノスタルジーではないのか?
 昭和30年代(1955年〜1965年)へのノスタルジー。これは日本のアニメを後ろから支える屋台骨だったと言っていい。日本のアニメは、消え行く日本の風景を数多く記録してきた。藤子不二雄赤塚不二夫のアニメが何度もリメイクされるのは、そのマンガに描かれているような失われた風景を呼び覚ますためではないのか? そこで呼び覚まされる風景は、必然的に、都市化が進むことによって失われた人間関係や共同体をも呼び覚ます。このようなノスタルジーの狙いは、その風景の中に「日本的なもの」を再発見することにある。そして、このようなノスタルジーが、今回の『鉄人』にも見出せるわけである。
 正直言って、今回の作品が、戦争問題に関して、何か新しいことを言ったとはとても思えない。「戦後はまだ終わっていないのではないか?」という問題提起の重要さは僕も認めるところである。戦争の記憶が忘れ去られている今日にあって、あの戦争の記憶を呼び覚まし、それを意味づけ直す作業は、いくらやってもやりすぎることはないだろう。しかし、今回の『鉄人』でそれがなされているとはとても思えない。現在の政治状況を仄めかしていながらも、それに対して核心に迫るような問題提起をしたとはとても思えない。そのような手緩い結果に終わってしまったのも、この作品の背後に流れるノスタルジーのせいではないのか?
 過去を美化すること。そこには常に一遍の嘘がある。それに決して騙されてはいけない。



 ノスタルジーというものに対する僕の警戒心は今も変わってはいないが、しかし、なぜ、そもそも、ノスタルジーというものが要請されるのか、ノスタルジーの要請の背後にはどのような問題が控えているのか、ということを問う必要がある、というふうに、現在のところは考えるようになってきた。ノスタルジーへの傾向を単純に批判するだけでは不十分であり、その必然性についてじっくりと考える必要があるだろう。


 しかし、今回の『鉄人』の映画を見て思ったことは、このアニメ作品の内部にも、そうしたノスタルジーへの傾向を相対化するような視点が組み込まれている、ということである。それが、まさしく、戦争の記憶というものであり、「もはや戦後ではない」という言葉によって戦争の記憶が抑圧されそうになるまさにそのときに、戦争の記憶を体現する鉄人が日本にやってくるわけである。


 今回の映画で、正太郎の兄として登場する、もうひとりのショウタロウは、まさに、復員兵という資格によって、戦争の記憶を携えてやってくるわけだが、こんなふうに戦争の記憶を想起させる出来事は、横井庄一小野田寛郎の帰還のように、昭和という時代ならば、頻繁に起こりうる出来事だったと言えるだろう。しかし、平成という時代において、戦後すでに60年以上が経過した時代においては、戦争の記憶が回帰してくるということすら、稀になってしまったと言えるだろう。そして、だからこそ、2004年という時期に(戦後約60年という時期に)、『鉄人28号』のアニメが改めて作られる意義があったと言えるだろう。


 金田正太郎ともうひとり別の金田ショウタロウ。このような分身のテーマは、2004年のアニメにおいても出てきたと思うが、そこで提起されているのは、アクチュアルなものとヴァーチャルなものとの諸々の関係であるだろう。つまり、問題になっているのは、実際には現実化されなかったひとつの可能性であり、そうした可能性が、亡霊のように、常に回帰してくる、ということである。もし金田正太郎が鉄人を操縦していなかったとしたら? このような仮定がもたらす効果は、一見必然的なもののように見えるもののうちに、偶然的な要因を導入することである。言い換えれば、これは、われわれが見ている世界に断層や亀裂といったものを見出そうとする試みである。


 さて、2004年に作られた『鉄人』の意義であるが、それは、簡単に言ってしまえば、もはや「もはや戦後ではない」ではない、ということである。つまり、1956年の経済白書においては、早すぎる戦後の抑圧、戦争の記憶に対する消去の身振りがあったわけだが、そのことが、同時に、亡霊のように戦争の記憶を携えた存在がやってくる場所を用意することにもなったわけである。しかし、戦後60年以上が経った現在においては、「もはや戦後ではない」と言う必要もないほどに、戦後あるいは戦争に対する忘却が散見されるのである。


 こうした忘却の土壌の上に、今日の昭和30年代ノスタルジーが築かれているということ。こうしたことに、今回の『鉄人』のアニメは、非常に敏感であったと言えるだろう。懐かしい風景の背後には廃墟がある、というのが、そこで抱かれた感慨であるだろう。一種の地質学的な視点によって明らかにされるのは、われわれの歴史意識のなさであり、ノスタルジーの背後には非常に巨大な爆弾が未だに埋もれている、ということである。


 しかし、果たして、そうなのだろうか、という疑問を、やはり、ここで、提出しておくべきだろう。2004年の『鉄人』で戦後の忘却を強調し、今回の2007年の『鉄人』でもまた、その忘却を強調する。この二回続けられた強調によって(たかだか三年という短い時間の経過ではあるが)僕にもたらされた疑問というのは、しかし、やはり、時代は変化しているのであり、今日的なリアリティというものにもっと肉薄していくべきではないのだろうか、というものである。


 この点に見出されるのが、『鉄人』のアニメそれ自体に備わっているノスタルジーの問題である。比喩的な表現で整理して見れば、『鉄人』のアニメは、そこで舞台になっているのが単に昭和の時代であるだけでなく、そうした昭和という時代をまなざす視点もまた昭和的なのである。つまり、このアニメにおいては、ある種の現代的な観点が欠けているために、ノスタルジーというものを完全には相対化することができてはいないのである。言い換えれば、失われたものに対する執着から完全に抜け出すことができてはいないのである。


 現在の日本で提出されているひとつの問いは、いったい、日本的なものとは何か、というものだろう。こうした傾向性にノスタルジーというものは一役買っているだろうが、しかし、基本的に、日本的なるものという同一性は、常に、事後的に、作られたものであるだろうし、まさに、過去を振り返るという振る舞いが、フィクショナルな同一性の余地を作り出してきた、と言えるだろう。


 例えば、「美しい国」という言葉を取り上げてみれば、この言葉の内実は、おそらく、ほとんど何もないだろうが、何もないからこそ、「美しい」という言葉によって喚起されるあらゆるイメージを含み込むことができる政治的な言葉になっていると言える。同様に、昭和30年代という言葉によって喚起されるノスタルジックな光景に対して、ほとんど無批判的に、そこに共通したイメージを見出している傾向があるが、このような同一性こそ、まずは疑う必要があることだろう。


 昭和30年代のノスタルジックな光景において象徴的な役割を果たしている東京タワー。それが現在も存在しているということから、過去からの連続性をすぐさま打ち立てるべきではないだろう。例えば、そこで、われわれは、『モスラ』において、東京タワーが一度、ひし曲げられた、ということを思い出すべきではないだろうか? 歴史において重要なのは、連続性よりもむしろ、このような断絶なのであり、汲み上げられなかった可能性に常に目を向けることこそが、歴史意識を持つことと同義であることだろう。


 しばしば言われるような、「過去に執着せずに未来に向かって進め」という主張では、あまりにも単純すぎる。歴史意識のない未来などというものに何か新しいものを期待することなどできないだろう。その点で、今回の『鉄人』の映画は、非常に歴史的な作品だったと言えるが、それは、もちろん、『∀ガンダム』的な意味において、つまり、地層からザクを発掘して、それに「ボルジャーノン」という新しい名前を与えるような試みという意味においてである。このような意味での過去との出会いが、何にしても、現在のわれわれには必要とされていることだろう。