共通前提の崩壊、学園ものの危機――『まなびストレート』を中心に

 前回は、日常と非日常との分節について、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『涼宮ハルヒの憂鬱』という二つの作品を主として参照しながら、問題にしてみた。日常と非日常の分節において、常にアクセントが置かれているのは、日常のほうであり、言い換えてみれば、それは、日常生活の分節の問題だと言っていい。つまるところ、非日常とは、日常生活に挟み込まれた節目の時であり、そうした節目の時を基準にして、日常生活がどのようなものであるかが俯瞰できるのである。


 いったい、なぜ、このようなことを問題にしているのかということを、再度、確認しておこう。今日のサブカルチャー作品において決定的に問題になっていることは、リアリティだと言っていい。言い換えれば、それは、アニメやマンガを消費する人たちの共通前提とは何か、という問いである。この問いは、すぐさま、商業的な問いへと移行する類のものであるだろう。つまり、アニメやマンガを消費する人たちは何を求めているのか、という問いである。


 この点に関して、すぐに言えることは、明確な共通前提が欠けている、ということである。つまり、人々がアニメやマンガを求める理由は多様であって、そこに、大文字の要求を見出すことは困難だ、ということである。


 ここにおいて、『コードギアス』という作品の、ある種の成功の原因を見出すことができるだろう。それは、『コードギアス』という作品が、先行する作品の二番煎じであることを拒絶した点にある。しかし、これは、『コードギアス』が、様々な意味で、オリジナリティのある作品だということを意味しない。むしろ、この作品は、誰もが気づくように、先行する何かの作品によく似ている。しかし、何かに似ていることが、すなわち、先行する作品の二番煎じであることと同義ではないだろう。『コードギアス』という作品が、先行するいくつかの作品のパッチワークから出来上がっていることは間違いない。しかし、そこで、目指されていることは、先行する作品と同じではなく、何か別のものであり、その別の何かが、先行する作品のイメージを結びつける空無の中心になっていると言えるのである。


 さて、このような共通前提の欠如は、個々の作品の物語のレベルにおいては、日常生活への強い関心という形で問題が噴出しているように思える。異世界への旅のような物語が、現実世界(日常生活)からの遊離であるとすれば、日常生活への関心は、むしろ、そもそも、そこから遊離する現実世界についての認識が非常に曖昧になっていることの証左であるだろう。つまり、ここでの問題は、われわれの現実世界がどのようになっているのか、ということについての疑問である。


 この問題は、価値観の多様化という言葉によって輪郭づけることもできるだろうが、言い換えれば、われわれの生活の根をどこに見出すのか、という問題であるとも言える。この点でこそ、これから問題にしたい『まなびストレート』のような作品が出てくる余地があるわけである。


 『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』の問題意識は明確である。それは、現在という時代は、学園ものという作品形式にとっては危機の時代である、ということである。ここで問題になっていることは、非常に単純なことで、これまでの「学校」という制度が別のものに変わってしまうのであれば、いわゆる学園ものが拠って立つ場所がなくなってしまう、ということである。学校というものがなくならないにしても、学校生活の内実が変わってしまうのであれば、学園ものの意義も薄れてしまうことになるだろう。『まなび』は、現在から約30年後の世界を舞台にしているが、しかし、危機はすでに、この現在にあると言える。問題は、少子化ということにあるのではなく、むしろ、学校というものに対する共通前提の崩壊にあると言っていいだろう。


 そもそも、今日の非常に多くのサブカルチャー作品は、あまりにも、学校という制度に依存しすぎていると言える。このことの理由の多くは、アニメやマンガを消費する人たちの多くが学生であるということから説明できるかも知れないが、しかし、リアリティという点においては、この点に関して、疑問符をつけざるをえない。つまり、生活の根ということで言えば、果たして、学校というものがどれほどの重みを持っているかということは疑問である。


 こうした点から、多くの作品が、日常生活の節目の点を学校生活以外のところに見出しているが、それと同時に、学校生活にそのような節目の点を見出している作品も非常に多く存在している。もちろん、この点は、それほどすっきりと分けることができる点ではない。いずれにせよ、学校生活というものが、多くの作品にとって、ひとつの出発点になっていることは間違いないだろう。


 『まなびストレート』の問題意識をさらにラディカルに考えるのであれば、こういうことが言えるだろう。すなわち、今日のサブカルチャー作品は、それが表面的には学園ものではないにしても、学園もの作品から非常に多くのものを継承している、と。そして、学園ものという制度が成り立ち得ないのであれば、そのような継承が断絶する恐れがある、と。つまるところ、この問題は、少子化における学校文化の危機という社会的な問題なのではなく、サブカルチャー内部での問題、サブカルチャーにおける歴史的な転換点の問題なのである。


 ネットのいくつかの記事を見てみると、『まなび』を『涼宮ハルヒの憂鬱』と比較し、そして、結果、後者のほうに軍配を上げている人が多かったように思えるが、そのことに、ある種の正当性があるとすれば、それは、『ハルヒ』という作品が、『まなび』よりも前に、上記したような『まなび』の問いを取り上げ、さらには、その問いに対して、一定の回答を提出しているからに他ならないだろう。


 『ハルヒ』と『まなび』との違いは、そこに、超越への志向が見出せるか否かという点にあることだろう。『ハルヒ』には、宇宙人や未来人が出てくるが、『まなび』には、そのような日常生活にとって外部の存在は出てこない。むしろ、『まなび』は、そのような外部を拒絶しているようなところがある。これこそが、この作品において、「ストレート」とか「まっすぐ」という言葉の持つ意味であるだろう。つまり、それは、世界に対して内在するということであり、言い換えれば、外部から何かを調達してくるのではなく、手元にあるもので、問題を解決しようという方向性だと言える。


 しかしながら、逆説的なことながら、こうしたことは、すでに、『ハルヒ』という作品においても考慮に入れられていることだと言える。この点こそが、『ハルヒ』をセカイ系作品から分ける点だと思われるが、『ハルヒ』においても、常に問題になっていることは、世界に内在することなのである。しかし、『まなび』と大きく異なる点は、『まなび』が世界に内在することを絶対的な条件にしているのに対して、『ハルヒ』のほうは、超越への志向の余地を常に残しているところにある。「わくわく」や「きらきら」は、『まなび』においては、日常生活の中から是が非でも捻出させねばならないものであるが、『ハルヒ』においては、超越への志向の失敗から、副次的に生み出されるものなのである(この点で、『まなび』においては常に感じられる必死さは、『ハルヒ』においては感じられない)。


 『まなびストレート』という作品をよりよく位置づけるためには、ユーフォーテーブルの同じスタッフによる作品『フタコイ オルタナティブ』を参照すべきだろう。


日常生活は存在しない
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20050704#1120435585


 以前書いたこの文章の中で、僕は、『フタコイ』を次のように位置づけた。すなわち、この作品は、大状況と小状況との分離、大状況による小状況の回収の失敗を描いた作品であり、まさに、そのような失敗を経ることによって、日常生活を位置づけたという点で、注目に値する作品である、と。超越と内在という言葉で言い換えてみれば、まさに、『フタコイ』は、超越への志向を常に抱きつつ、しかし、同時に、それを決定的に断念して、世界に内在している作品だと言えるのである。ここから、単純に、世界への内在を主張している『まなび』という作品が出てくることを理解するのは容易であるが、しかし、『ハルヒ』という作品を横に置いて考えるのであれば、問題提起としては、一歩後退していると言わねばなるまい。


 しかし、『まなび』においても、『フタコイ』と同様に、ある種の無力さを描いている点は、注目に値するだろう。つまり、作品の中で言及されていたように、学美たちが作り上げた学園祭は、とりわけ優れたものではなく、いつもの学園祭とほとんど同じものだったわけである。何か特別な出来事がそこに起こるわけではない。学美たちが引き起こそうとしていたことは、大々的な改革ではなく、ちょっとしたいたずら、オープニングで学美たちがしていたようなちょっとしたいたずらである。


 この点に、『まなび』という作品の非常に保守的な価値観を見出すことができるだろう。『まなび』において望まれていることは、(一見そう見えるような)変革ではなく、失われつつあるものに対する執着、その維持である。この作品では、学生運動に対するオマージュのようなものを見出すことができるが、登場人物たちが試みていることは、学校を解体することよりもむしろ、学校を維持することにある。むしろ、変革の波は、学校の側からやってきているのであり、新しい制服や新しい校歌をもたらすのは、学校のほうである。文化祭を開催することが生徒たちに望まれていないのであれば、文化祭などやらなくてもいいのではないかという考えは、非常にリベラルではないだろうか? こうした傾向に対して、あえて保守的な価値を持ち出しているのが、この『まなび』という作品なのである。


 こうした保守性が、前述したサブカルチャーに対する危機意識と密接に関わっていることは間違いないだろう。それは、場合によっては、オタク文化に対する危機意識というふうに言えるかも知れない。それは、とりわけ、80年代に花開いたようなオタク文化、『ビューティフル・ドリーマー』において、問題化されたようなオタク文化である。


 しかしながら、やはり、時代は変化していると言えるだろう。『究極超人あ〜る』と『げんしけん』との間には、やはり、差があることだろう。特に、ここに見出される差異は、観点が、より個人のほうに向いているというところにあるだろう。このような個人の生というレベルにおいてこそ、日常生活というのもまた、問題にされているわけである。


 こうした点から、次回は、以前に何度か問題にしたことであるが、個人の人生における時間というものを問題にしてみることにしたい。