『涼宮ハルヒの憂鬱』における二つの文化祭――日常生活を分節化するものとしての学校行事

 前回は、未来や過去といった個人史の時間軸に沿う形で、節目の時を問題にした。過去が現在に介入してくる仕方は、非常にたくさんある。ノスタルジーという形で、過去が現在に介入してくる仕方は、主体のポジションの変化をもたらす。これは、パースペクティヴの変化と言ってもいいが、つまるところ、物事を見る見方が変化するわけである。このことが、記憶の想起をもたらすと考えられる。つまり、ある観点に立つということは、同時に、何かを視野の外に置くということであり、その視野の外に置かれたものが忘却の対象となった記憶であると言える。それゆえ、ある観点から別の観点へと、主体のポジションが変化すれば、同時に、忘却の対象になったものも変化する、ということである。これがノスタルジーのメカニズムであるだろう。


 過去と現在が、ある種の対応関係を結ぶという、そのような形で、過去が現在に介入する仕方もあることだろう。現在の出来事の意味が過去の出来事へと送り返されることで明らかになる、というような対応関係である。このような構造を典型的に示しているアニメ作品が『ラムネ』である。この作品では、毎回、冒頭に、子供時代のエピソードが紹介され、その出来事と対応するような現在の出来事が物語られる。登場人物たちに、そのような過去の出来事がはっきりと意識されているかどうかは問題ではない。むしろ、彼らのほとんどが、そのことを意識していないように思える。現在の出来事が過去の出来事と密接な対応関係を持っているということ。そのことをわれわれが意識できるのは、まさに、作品構造がそのようなものになっているからであるが、この構造は、端的に、反復の構造だと言っていい。過去の出来事が現在において繰り返されるわけだが、繰り返されることによって、過去に生じた問題が別の形で現在に引き継がれる、というわけである。


 このような作品構造においては、過去の出来事が、その後のすべての出来事を決定する原文になっていると言えるだろう。すべてはすでに書かれており、現在というのはそのような過去の原文のひとつの翻訳にすぎない、というふうに。ここで生じる困難というのは、過去を変えることはできないということである。このような点で、例えば、アニメ『AIR』のような作品の持つ重要性が明らかになることだろう。『AIR』という作品もまた、反復を描いた作品だと言えるが、いわゆる「SUMMER編」で描かれる千年前の出来事と現在の出来事との間の対応関係はそれほど明確ではない。もっと言えば、『ラムネ』においてしばしば描かれるような、過去に生じた問題が現在において解決されるという展開がそこで示されることはない。むしろ、現在はひとつの通過点のようなものとして描かれている(最後のシーンに出てくる少年と少女は、問題が次の世代に引き継がれたことを示していないだろうか?)。


 同様のことは、アニメ『忘却の旋律』についても言えることである。そこで提示されている闘いには基本的に終わりがない。それは、理想の社会の構築を目指して闘い続ける革命家たちの闘いに似ているかも知れない。重要な点は、そこにおいて、敵の存在が非常に不明確なところである。敵と味方とがきっぱりと分かれるわけではない(このことは、敵のボスが、元々は、メロスの戦士=革命の戦士だったことに端的に示されている)。いったい何と闘っているのかが、だんだんと分からなくなってくるわけである。しかし、あるいは、それゆえに、闘いは続く。この作品においても、闘いは、新しい世代へと引き継がれることになるわけである。


 ここで立ち現われてくるのが未来という視点である。現在を未決定のまま、開いたままにしておく未来という観点である。前回指摘したように、アニメ『時をかける少女』に見出されるのは、そのような作品構造である。平行世界(可能世界)において問題になる時点は、未来という時点であり、物語の終わりによって、それまでの出来事の意味が決定し、かつ、未来がいつまでも続くならば、現在の意味は、常に開かれたままで、未決定であると言えるだろう。


 しかしながら、もちろん、そこには、節目の時があることだろう。未来においても過去においても、意味を限定するような、重要な切断の時点があることだろう。問題は、そうした時点をどこに見出すのかということである。現在を意味づけるにあたって、いったい、どこに、参照点を見出すのか? 過去に送り返すか、未来に差し向けるか、そうした送り先が問題になっているわけである。


 こうした問題を、日常/非日常の分節の問題に当てはめてみれば、問題になっていることは、日常の時間を意味づけるために、どのような節目の時を見出すのか、ということである。この点において、学園もの作品における学校行事の重要性を何度も強調しているわけであるが、今日もまた、こうした観点から、学園祭にこだわってみたいと思う。


 さて、今日もまた、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』を取り上げてみたいのだが、この作品で注目したいのは、そこには、二つの学園祭がある、ということである。ひとつは第1話の「朝比奈ミクルの冒険」であり、もうひとつは第12話の「ライブアライブ」である。


 第1話の「朝比奈ミクルの冒険」は、この作品全体の物語構造を端的に示しているという点で、この作品にとって、メタレベル的な位置にあるエピソードだと言えるだろう。つまり、このエピソードは、ハルヒたちが作った自主制作映画という体裁を取っているが、そこでは、登場人物たちが超能力者や宇宙人といった適切な配役を割り振られていることによって、物語の隠された真理を(物語が始まる前に)暴露している。加えて、注目すべきは、ハルヒキョンの役割だが、ハルヒは、この自主制作映画において、監督という超越的な立場(あるいは、脚本という創造的な立場)に立っている。このことは、ハルヒの欲望が世界全体を作った、という物語上の設定と対応している。また、キョンは、『ハルヒ』の中で、視点的人物として、つまり、語り手として登場するが、同様に、自主制作映画においては、ナレーターとして、物語を語る場所に位置づけられている。


 この点で、この第1話は、「Episode00」とナンバリングされているように、作品全体にとって、特殊なエピソードであると言える。しかしながら、このエピソードを、第12話に近づける形で、つまり、文化祭という観点から取り上げることも当然できるだろう。その点で注目に値するのは、「朝比奈ミクルの冒険」が文化祭当日までに撮られた、ある種、文化祭に至るまでの日常生活から成り立っているエピソードであるとすれば、「ライブアライブ」のほうは、文化祭当日を描いたハレの日の出来事であるという、そのような明確な区別である。


 こうした区別は、例えば、『まなびストレート』のような作品においても見出すことができる区別である。『まなび』という作品全体において、その中心になっているのは、文化祭という出来事である。しかしながら、文化祭当日に置かれたアクセントは非常に弱いものとなっている。つまり、学美たち生徒会のメンバーは、(文化祭実行委員としての仕事があるため)文化祭を直接には楽しむことができず、文化祭の中心からやや離れた場所で、文化祭のことを夢想することしかできないからである。このことが示しているのもまた、重要なのは、文化祭というハレの日の出来事ではなく、それまでに至る様々な出来事、非日常を参照することによって意味を付与される日常の出来事であると言えるだろう(重要なシーンとしては、例えば、他の学校の生徒会長と学美とが話しているシーンで、学美の頭の中にはすでに文化祭のヴィジョンがはっきりと出来上がっていることが強調されている描写があるが、これなどは、文化祭が事前の日常生活にもたらす効果を端的に描いたシーンだと言えるだろう)。


 現在放送中のアニメ『らき☆すた』については、こうした観点から、何が言えるだろうか? 『らき☆すた』は、非常に豊かな作品なので、そのエッセンスをすべて抜き出すことは非常に困難なことであるが、少なくとも言えることは、この作品において、日常生活を分節化しているのは、非常に小さな要素、ある種の話題である、という点である。登場人物たちが、実際に、自分の経験したことを話題に出して会話するシーンも非常にたくさんあるが、ひとつひとつの場面は、話題になりうるようなものから構成されていると言える。


 この点において、『らき☆すた』は、『ぱにぽにだっしゅ!』と比較することで、その作品構造がより明らかになるようなアニメだと言えるだろう。『らき☆すた』は、その物語構造のレベルで言えば、『ぱにぽに』よりも、『あずまんが大王』に近い作品であるが(これは、原作が共に四コママンガであるということも影響しているだろうが)、しかし、オタクネタのばらまきという点では、『ぱにぽに』に近い作品だと言えるだろう。しかしながら、もちろん、そこには、決定的な差異がある。


 『ぱにぽに』の作品世界において起こる出来事は、非常に突飛なもの、まったくの非日常的な出来事である。それは、『ぱにぽに』の世界の中においては、非常に些細な出来事かも知れないが、しかし、そこに多量の情報のデコレーションが加わることによって、物語の層が非常に厚くなっていると言える。言い換えるなら、視聴者は、『ぱにぽに』を見るときに、物語というものも、この作品においては、多量な情報のひとつにすぎないと意識して見ざるをえない、ということである。言うなれば、『ぱにぽに』は、物語の流れを追うことの無意味さを示しているとも言える。この点において、最初から最後まで、様々な場所にばらまかれたオタクネタは、その元ネタを知っていようがいまいが、物語を常に脇道に逸らせて、拡散化させる効果を持っていると言えるだろう(画面に出ている情報をすべて一挙に把握することは不可能であり、不可能であることを前提に作られていることは間違いない)。


 これに対して、『らき☆すた』のオタクネタは非常に限定されたものである。それは、ひとつの場面にほとんど完全に内在していて、物語を分散化させるという方向に視聴者を向かわせることはない。むしろ、そこにおいては、オタクネタがひとつの強度を持っていて、話題を提供する原動力になっていると言える。大雑把な見取り図を提示すれば、『ぱにぽに』においては、大きな流れがひとつあり、その中に雑多な情報が配置されていて、視聴者は、その中から、いくつかの情報を抜き出して、ひとつのエピソードを形成するということになるのに対して、『らき☆すた』においては、ひとつのエピソードが小さな話題の集積から成り立っていて、視聴者は、それを順に追っていくことになるが、最後に振り返ってみたときに、印象に強く残った話題の組み合わせがそのエピソードを構成するという結果になると言える。


 『らき☆すた』において注目すべきは、このような物語の断片化である。『あずまんが大王』においては、ひとつのエピソードのうちに、それなりのまとまりがあったが、『らき☆すた』においては、そのまとまりは、もっと弱くなっていると言える。つまり、ここには、参照軸の拡散があると言える。もはや、学校行事は、それほどの求心力を持っていないということである(ここにおいて、学校文化の危機という、『まなび』のテーマの好例を見出すことができるだろう)。


 『ハルヒ』に話を戻すと、「朝比奈ミクルの冒険」と「ライブアライブ」という二つのエピソードを比較したときに、注目に値する点は、ハレの日である文化祭当日を描いた「ライブアライブ」のエピソードのほうが、ある種のまとまりに欠けている点である。つまり、言い換えれば、こちらのほうが日常的なわけである。そこでの演出意図は非常に明確である。文化祭の一日をキョンの視点からダラダラと描く。そこに介入してくるのがハルヒたちによる突然のライブ演奏であるわけだが、非常に木目細かい演出によって強調されているのは、この出来事がいくつかの偶然が重なった結果起こっただけの代物だ、という点である。ハルヒたちが舞台に上がることになったのも偶然なら、突然の雨によって、来客が体育館にそれなりに集まってきたのも偶然である。そのような偶然の積み重ねによってもたらされたのが、あのような奇跡的な瞬間であり、これは、事前に準備されていたものではない。『まなび』において待望されていたような「きらきら」で「わくわく」するようなものというのも、このような瞬間のことであり、もっと言えば、重要なのは、このような瞬間が出現することそのものではなく、むしろ、それを期待して待ち続ける点にあると言えるだろう。それこそが、『まなび』で問題にされていたような、日常生活を活気づける試みの目指すところだったのではないかと思われる。


 このブログの基本方針は、現在放送中のアニメを取り上げて、それについて何かを語るというものだったことを思い出して、次回からは、現在放送中のアニメ、あるいは、近年放送されたアニメをいくつか取り上げて、その物語構造を分析してみることにしたい(今回もそうだったわけだが、もっと意識的に、これまであまり取り上げてこなかったような作品を取り上げてみたい)。もちろん、これまで持っていたような問題意識は継続したままで、それを行なってみることにしたい。