「人生の短さ」について

現在準備している論考で、セネカの『人生の短さについて』を取り上げようかと考えている。僕が持っているのは岩波文庫の青帯のやつだ。この本には少しばかりの思い出がある。

 

この本を買ったのは、高校3年生の時だった。買った店も覚えている。品川区の、とある商店街の本屋で購入した。なぜ覚えているかというと、普段自分が行かない本屋だったからだ。高校の友達のところに遊びに行ったとき、友達と一緒にそこに寄った。そのとき友達が何か揶揄を言ったことも覚えている。「そういう本をよく読む気になるなあ」とかそんな感じだった。

 

僕がこうした哲学的な本を読むようになったのも、高校2、3年頃だった。海外の小説をいろいろと読んでいた僕は、岩波文庫赤帯を知り、その流れから青帯にも興味を持つようになった。ショーペンハウアーの『読書について』のような薄いものを読んだ。その流れで『人生の短さについて』も手に取ったのだと思う。

 

このセネカの本を当時の僕が読み切ったのかどうかは覚えていない。それほどちゃんとは読んでいないだろう。それにしても当時の僕はいったい何が知りたかったのか。「人生」についてだろうか。「人生」についてなら、確かに今も知りたい。

 

僕の家は大田区にあった。品川区の友達の家までは、自転車で30分か40分くらいかかったと思う。それなりの距離だ。しかし当時僕は高校にも同じくらいの時間をかけて自転車通学していたので、それほど苦ではなかった。むしろ自転車でちょっと遠くに行けるのが嬉しかった。

 

僕は外に積極的に遊びに行くタイプの高校生ではなかった。電車に乗って、どこかの繁華街に行くこともほとんどなかった。多くのことを近所の生活圏の中だけで済ませた。だけど、自転車に乗って近所をぶらぶらするのは好きだった。特に書店めぐりをするのが当時の楽しみだった。

 

品川区の友達のところにしばしば遊びに行っていたのは、自分の生活圏の外を見てみたいという、ちょっとした好奇心があったからだろう。それは、自分がこれまで見たこともない何かを見たいというのではなく、もし自分がその町に生まれていたら見ていたかもしれない風景を見たかったからだ。

 

そうした理由から僕はこの友達に、彼の昔からの友達を紹介してくれるように頼んだこともある。ゲームセンターでたまたま会っただけで、結局、会話にもならないような挨拶をしただけだったが、これだけの経験でも、自分の人生の外をちょっと垣間見た気になった。

 

もし自分がこの町に生まれていたら、この本屋やゲームセンターによく行っていたかもしれない。あの学校に通っていたかもしれない。この人を友達にしていたかもしれない。そうした「反実仮想」を楽しんだ。

 

実は昨年、そうしたことをちょっと思い出したので、30年ぶりくらいにその町を訪れてみた。アーケード商店街の趣きは当時そのままで、とても懐かしかった。書店はどこにあったか忘れてしまった。見つけられなかったというよりも、もう書店はなくなっていた。

 

30年前のことをつい先日のことのように思い出せる点で、確かに「人生は短い」かもしれない。セネカは書いている。「誓って言うが、諸君の人生は、たとえ千年以上続いたとしても、きわめて短いものに縮められるであろう」(1)。

 

ただ、そうだったとしても、ある種の一般論として「人生は短い」と言うのと自分の人生を実際に生きるのとは、性質の違う事柄だ。もし自分があと30年生きられて、その時点から「人生は短い」という思いにふけったとして、そこで感じられる「短さ」は、現在の僕が感じているそれとは質の違ったものになっているだろう。

 

「人生」は、それを総体として掴もうとしても、すぐに手から滑り落ちてしまう何かであるように思う。当時の僕が欲していたのは、全体としての「真理」だ。これを読めばすべてが分かるかもしれない、と。しかしそうした便利な書物はおそらく存在しない。今の僕はそのことを何となく理解している。知識と経験は異なる。ただそれだけだと言えばそれだけの話なのだが。

 

(1)セネカ『人生の短さについて』、茂手木元蔵訳、岩波文庫、1980年、20-21頁。