生きがいとしてではなく緩く生きるために『けいおん!』を見る――ロスジェネ世代であるよりもむしろエヴァ世代として

 先週、『バトルスピリッツ 少年突破バシン』のアニメについて少し書いたが、そこで書いたことを自分なりにもう少し発展させてみようと思う。


 先週あの記事を書いているときにはあまり意識していなかったが、僕は、あの記事で、対立関係をことさらに構築することよりも、対立関係を回避することのほうを肯定している。それから、僕は、四月に『けいおん!』を取り上げて問題にした記事でも、自己実現の物語よりも、自己実現の物語を回避する傾向のほうを肯定している。こうした僕の趣味傾向がどういう意味を持っているのかということについて、ちょっと反省を加えてみようと思ったのである。


 僕は、21世紀という時代は、対立関係が徐々に解体していく、そんな時代になるのではないかという気がしている。あるいは、20世紀後半から21世紀までの流れを見ると、冷戦のような大きな対立関係がなくなり、小さな対立関係が乱立する、そういう時代になってきている、と言ったほうが正確かも知れない。しかし、少なくとも、日本においては、大きな政治的対立(左翼と右翼のような)が問題になるとは、とても思えないところがあるのだ。


 僕自身のことを思い返してみれば、まず、横の連帯というものが決定的に欠落しているという印象がある。誰が敵であって、誰が味方であるのか。そうした区別が非常に不明確であるように思える。70年代の若者たちのことを、60年代の学生運動の世代(全共闘世代)との対比で、「しらけ世代」と呼んだりすることがあるが、それでは、僕なんかは、政治に対する無関心さという点で言ったら、どんな状態にあるのだろうか。


 僕は、いわゆるロストジェネレーション世代に入るのだろうが、ロスジェネ世代であることが必ずしも政治的であることの条件になるとは思えない。つまり、同世代の人でも、貧困などの問題を通して、政治的な運動に身を投じる人もいるだろうが、僕は、自分自身もまた貧困などのロスジェネ的な問題の渦中にいるにも関わらず、政治的であろうという気がまったく起こらない。政治にはそれなりに関心を持ってはいるが、政治的な運動に関わりたいとは思わない。なぜかと言えば、そこには、結局のところ社会は変わらないという強い諦念があるからだ。


 そうした意味では、僕は、自分自身のことを、ロスジェネ世代というふうに規定するのではなく、むしろ、エヴァンゲリオン世代というふうに規定してみたくなる。それは、つまり、ある種の諦念の名の下に、現実世界から撤退する、ひきこもり的な感性を抱えているということである。


 僕は、ロスジェネ的な政治運動の背後にも、現実に対する諦念というものがあるのではないかと思っている。赤木智弘の「希望は戦争」という言葉が代表的なものかも知れないが、そうした諦念が第一段階としてまずあり、次の段階になって初めて、そうした諦念をもしかしたら払拭することができるかも知れないという希望が一部の人たちに生じて、そうした人たちを政治的な運動へと突き動かすのではないかと、そんな気がするのだ。


 だが、僕自身は、この諦念を消し去ることはそんなに容易ではないと思っている。何か希望を見出しても、すぐさまそれを否定するためにまた別の諦念がやってくるというような、それぐらい根の深いものがここには存在しているように思える。


 『エヴァ』において、シンジ君がエヴァに乗らなかったのも、まさにそこに諦念があるからだろう。旧来のヒーローものなら、現実的な問題を解決するためにこそ、主人公は巨大ロボットに乗って敵と闘うはずだ。しかし、シンジ君は、そうした物語を拒否して、最後までひきこもりの立場を貫いた。そこに何か根本的な時代の病のようなものを感じてしまうのだ(こうした展開が新作の『エヴァ』ではどうなってしまうのか、そこがやはり気になる)。


 だからといって、僕は、ひきこもっているのがいいと思っているわけではなく、何か別の道はないものかと考えているわけである。常に自分を対立関係に置くことでテンションとモチベーションとを高めておくという方向性でもなく、あらゆることを諦めてひきこもり状態を続けていくのでもなく、それとは別の道がないかどうか、そういうことを考えてきたわけである(こういう問題構成の仕方は宇野常寛と似ているかも知れない)。


 そんなふうに考えてきて、最近、可能性があるのではないかと思っている方向性というのが、いかに緩く生きるか、というものである。そういうことを考えていたからこそ、最近、『バシン』や『けいおん』を評価することになったわけである。


 しかし、口で言うのは簡単だが、緩く生きるとはどういうことなのかというところは、まだ自分の中でも、それほど詰められてはいない。緩く生きられる人はそうできるかも知れないが、緩く生きようと思っていても生活環境がそれを許さない人たちがたくさんいるのではないか、というような政治的な批判に対して、まだ上手く答えられそうもない。


 こうした政治的な観点からするならば、緩く生きることを肯定する発想などというものは、現在の政治的な状況を無前提に肯定するものであり、格差や貧困の拡大といった問題をそっくりそのまま肯定することに繋がるのではないかという、そういう批判を受けるのではないかという気がするのだ。


 こうした批判に対して、僕は、確かにそうかも知れないと思っている一方で、「けいおんは生きがい」などということを言う人がいるという現状もまた無視できないというふうに思っている。まあ、これは、ネタ的な発言かも知れないので、そんなに深刻に受け止める必要はないかも知れないが、『けいおん』という作品それ自体が生きがいになってしまう現状というものは、そこに嗜癖や依存の構造が見出されるので、あまりよくないだろう。むしろ、『けいおん』という作品がその人にとっての生きがいを発見する一種の教科書として機能しないかと、そういうことを僕は思ってしまう。さらに言うのなら、『けいおん』が示しているのは、生きがいという考えそれ自体の拒絶なのではないかとすら思ってしまうのだ*1


 今期は、偶然にも、『東のエデン』というアニメ作品が、同様に、現代人の「生きがい」を問題にしているようなところがあって実に興味深いが、『けいおん』を『東のエデン』と絡めて語るなどの試みについては、次の機会に回すことにしたい。