11月の前半に見たアニメの感想

 ちょうど一ヶ月くらい前からtwitterを始めたわけだが、twitterにはライフログ的な機能もあるので、その記録を見ながら、ここ一ヶ月くらいに見たアニメの感想を、取り留めもなくダラダラと書いてみたい。


 押井守の劇場版『パトレイバー』の1と2を見てみた。1は以前に見たことがあったが、2は今回が初めて。同時に『攻殻機動隊』も見返してみたのだが、見直してみて、神山健治押井守の問題意識を、ある意味、極めて正統的に引き受けているのではないかと思った。例えば、『パトレイバー2』で提示されていた、東京を戦後の焼け野原に戻すという発想は、『東のエデン』のミサイル攻撃という形で引き継がれているのではないだろうか。
 こういう文脈で言えば、『東のエデン』においては、押井が『スカイクロラ』で提出した問いにいかにして答えるのかということが課題になっているのではないか。押井の問題は、大きな物語の崩壊、巨大な敵の喪失、終わりなき日常をいかに生きるか、といったことにあると思うが、同種の問題をいったいどのように『東のエデン』は解決するのだろうか。
 『スカイクロラ』の解決とは、言ってみれば、巨大な敵などいないと分かっていても、あたかもその敵がいるかのように行動するというその不毛さを自覚することによって辛うじて退屈な日常生活を回避するという、アイロニカルな諦念に満ちた戦略だったと言える。こうした戦略に対して、おそらく、神山はもっとベタなものを提示しようとしているように思う。それは、言ってみれば、主人公の滝沢朗に体現されているような楽観と行動力であり、そうした幼児のような天然の行為が可能となるのは、まさに彼が以前の記憶を忘却したからであるだろう。これは、つまり、『もののけ姫』で問題になっていたような「馬鹿になること(奇跡を起こすために欠かせない条件)」が今日可能となるためには、忘却という名の暴力的な切断が必要だ、ということなのかも知れない。
 果たして、以上のような方向性がどのような帰結をもたらすのか。そうしたところが今度の劇場版の注目点だと僕は思っている(ちなみに、今のところ、僕はまだ劇場版を見ていない)。


 今クールのアニメは全然消化できていない。その代わり、前クールのアニメをいろいろと消化している。
 GONZOの最新作である、『シャングリ・ラ』、『アラド戦記』、『咲』は全部見てみた。GONZOゼロ年代において重要な役割を果たしたアニメ制作会社だったというのは間違いないだろうが、そのアニメ制作会社が現在衰退しているということは、いろいろなことを考えさせられる。つまり、GONZOの作品にはゼロ年代アニメの問題が集約されているところがあるのではないか。


 『バスカッシュ』のアニメも見終わる。『バスカッシュ』も『シャングリ・ラ』もそれなりに大きな話を展開しようとした作品だと言えるが、今日においては、大きな話を展開しようと思えば思うほど、物語が上手く機能しないという、そのような困難があるように思える。
 『バスカッシュ』も『シャングリ・ラ』も、小さな人間関係を出発点にしながら、それを社会政治的なレベルの問題(とりわけ「上流/下流」といった階層の問題)、そして、そこからさらに話を大きくして、神話的なレベルの問題にまで話を発展させている。つまるところ、ここで問題になっているのは、神話の再現であり、新たな英雄の誕生である。こうした次元での物語の展開(旧来のアニメ作品においては定番だった物語展開)が、今日、大きな壁にぶちあたっているのではないだろうか。
 『アラド戦記』も、ある意味、大きな物語を展開している作品だと言えるが、しかし、この作品は、ファンタジー世界を舞台にしているという点で、ある種の括弧づけがなされていると言える。つまり、ゲーム作品という土台においてのみ可能となるような物語の定型を踏襲しているところがある。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』といったRPG作品において展開されていた物語は、旧来からあった物語のパッチワークによって出来上がっていたところがあったが、それでもなおかつ大きな物語が可能となっていたのは、まさにゲームをプレイするという水準が入り込んでいたからではないのか。
 さらに言えば、『アラド戦記』において重視されていることも、大きな物語であるよりは、小さな無数の物語であることだろう。数年前に『マスター・オブ・エピック』というアニメがあったが、この作品は、そもそも物語を展開することすら諦めて、『らき☆すた』的な日常の断片を断片のまま展開していた。僕はMMORPGをプレイしたことはないが、MMORPGにおいて重要なのは物語ではなく、別世界の日常なのではないのか。冒険と日常が対立するわけではなく、冒険という名のもうひとつの日常が存在するのではないのか。こうした文脈において、現代のファンタジー作品の主流も、もはや日常系なのではないかと思ってしまうところがある。


 結局のところ、GONZOの可能性は、『ストライクウィッチーズ』から『咲』に到る流れにあったように思うのだが、この方向性がどのような意味を持つのか、僕にはまだ十分によく分からないところがある(萌えの方向性というふうに言うのは簡単だが)。
 『咲』はマンガのほうも読んでみたが、やはり、その風景に対するこだわりには注目せざるをえない。『咲』の風景はパノラマ写真の風景ではないかと思ったのだが、それがどういう意味を持っているのかということはよく分からない。何か平面的なものに対するこだわりがそこにはあるように思う。


 ひとまずこんなところで、続きはまた今度。