『乃木坂春香の秘密』におけるキャラの問題――お嬢様でもありドジっ娘でもある

 僕は、このブログで、これまで主として物語という観点からアニメ作品を問題にしてきた。しかし、当然のことながら、物語という観点からだけで、アニメ作品について語るのは不十分であるし、物語という観点だけからアニメを見ていると、ある種の空疎さにぶつかることがある。それは、つまり、非常に多くの作品が、ある種の類型に基づいて物語を展開していて、そこには、物語上の複雑さ(あるいは物語展開上の強度)というものを見出すことが難しいからだ。


 そもそも、現在のサブカルチャーにおいて、物語の衰退と同時並行的に、それを代補する形で、(萌え)キャラによる作品強度の獲得という方向性が浮上してきたのではなかったか。こういう文脈においては、現在のアニメ作品を問題にするにあたっても、物語を問題にするよりは、キャラを問題にしたほうがラディカルかつアクチュアルなのではないか、と思うところがある。また、物語を問題にするにあたっても、いったいどのようなキャラがどのような役割を作品内で果たしているのかというところに注目しないと、不十分なところがあるのではないかと思う。


 こういう問題意識に基づいて、『乃木坂春香の秘密』のアニメについてちょっと問題にしてみたいと思っているのだが、なぜ『乃木坂』なのかと言えば、まさにこの作品は、物語構成の水準で、キャラの問題を扱っているように思われるからである。少なくとも、そのようなキャラの問題からこの作品を見ていくと、いろいろな発見があるのではないかと思ったのである(逆に言えば、物語の水準だけからこの作品を問題にしていくと、ある種の空しさにぶち当たるわけである)。


 そもそも、この作品は、いったいどのような作品だと言えるのだろうか。その点について考えることが最も難しいことである。Wikipediaの「あらすじ」の項目には次のように書いてある。

私立白城学園(はくじょうがくえん)高校に通う綾瀬裕人のクラスメイトである乃木坂春香は容姿端麗・才色兼備な深窓の令嬢であり、「白銀の星屑(ニュイ・エトワーレ)」・「鍵盤上の姫君(ルミエール・ドゥ・クラヴィエ)」など、数多くの美称を持つ学園のアイドルである。だがある日、裕人が親友の朝倉信長の代わりに図書室に本を返却しに行った際に彼女の秘密(アキバ系であること)を知ってしまい、それがきっかけで裕人と春香の「秘密」の関係が始まる。
乃木坂春香の秘密 - Wikipedia

 この作品において最も重要なモチーフとなっているのが、オタク趣味、作品では「アキバ系」というふうに穏やかな表現で名指されている趣味である。「容姿端麗・才色兼備な深窓の令嬢」である乃木坂春香の秘密というのが、彼女がアキバ系の趣味を持っているということであり、その秘密を主人公の綾瀬裕人が知ってしまうということから物語は始まる。


 素朴な次元から問いを発してみよう。いったいなぜオタク趣味を持っていることが「秘密」になるのか。作品の中で与えられている説明とは、オタク趣味を持っている人は世の中の多くの人(つまりは一般人)から白眼視されるから、というものである。さらに言えば、春香は中学生のときに自分の趣味がクラスメイトにばれてしまって、みんなから冷たい目で見られたという辛い過去を持っている。こうした理由があるために、春香は自分の趣味を秘密にせざるをえない。


 しかし、物語構造の側面から言えば、こうした説明はほとんど方便にすぎないことだろう。つまり、まず、『乃木坂』の作品においては、自分のオタク趣味を前面に出すことにためらわない人たちもいる(朝倉信長を始めとした裕人の友人たちがそうである)。さらには、春香の趣味というのは、それほど周囲の人たちから気持ち悪く思われるようなものなのかという疑問もある。彼女は、いわゆる腐女子のような女性オタクではない。女性向け同人誌を見て卒倒するような人物である(つまり性的にピュアである)。もっと言えば、春香のオタク的な愛着は、男性キャラクターに向かうことはない。彼女が好きなキャラクターとは、『ドジっ娘アキちゃん』の主人公のアキちゃんであり、そのアキちゃんのかわいいところに惹かれているところがある。このようなレベルの趣味が、果たして、多くの人から白眼視されるような理由になるのだろうか(「子供っぽい」とか「幼い」というふうには思われるかも知れないが)。


 そもそも、この『ドジっ娘アキちゃん』というのはどのような作品なのだろうか。この作中作についての情報は極めて少ないが、おそらく、魔法少女作品のようなもともとは女子向けに作られた作品を男性オタク向けの萌え作品にアレンジした作品なのだろう(良い例が思いつかないが、例えば『魔法少女リリカルなのは』のような作品。『アキちゃん』がもし単純に女子向けなら、深夜にアニメをやっている理由が分からない)。もともとは、女子向けに作られた作品を男性が享受するという、そうした倒錯した消費行動は、それなりに昔からあっただろうが、『ドジっ娘アキちゃん』は、間違いなく、最初から男性オタクを対象にした萌え作品のように思われる。


 だとするのなら、そうした男性向けの作品を春香が好んだというのは非常に重要ではないだろうか。つまり、春香のオタク趣味は、一部の女子がジャンプ系の作品のうちにホモセクシャルな関係性を読み取るような、そうした作品享受を行なっていない。むしろ、春香は、素朴なレベルで、『ドジっ娘アキちゃん』を享受している。言うなれば、この作品の原型がそうであったような女性向け作品として、つまり、ある種の同一化モデルとして、この作品を享受しているところがある。つまり、春香の欲望とは、アニメやマンガのキャラになりたいという、そのようなレベルで立ち上がっているところがあるように思えるのだ。


 そして、もしこのような読解が正しいとすれば、この作品の物語構成も大きく変わってこざるをえない。つまり、この作品は、ただ単に、裕人が春香と秘密を共有することによって、その秘密の関係が次第に恋愛関係へと発展していくという、そうした物語なのではなく、春香のうちに見出されたキャラ的な要素に裕人が強く惹かれて、だんだんと萌えに目覚めていくという、男性オタクの心理過程を描いた作品というふうに言うことができるのではないか。


 ここで綾瀬裕人のキャラ設定が非常に重要になってくる。まず、裕人自身はオタクではない。彼の友人たちがほとんどみんなオタクであるにも関わらず、彼だけはオタクではない。ここにひとつ何か不自然なところがある。つまり、裕人のうちにも何かオタク的な本性が密かに目覚めているところがあるのではないか、と推測してみたくなる要因があるのだ。


 それはともかく、作品の設定上は、オタクではない裕人が春香のオタク趣味を理解してくれるという、そうした関係性がここにはある。つまり、裕人が春香にとって特別な存在でいられるのは、春香の欠点(とされているもの)を受け入れてくれる優しさ(ハーレムアニメの男性主人公にとって不可欠な特徴)が彼にはあるからだ。


 だが、裕人には、こうした優しさという特徴だけではなく、もっと不穏な(つまり物語展開においては見逃すことのできない)性格特徴もある。それは、彼が女性嫌いだ、という特徴である。アニメの第1話で彼は、女性については「諦めている」という意味深長な発言をする。これは、自分が今後、女性を好きになることはないだろう、女性に魅力を感じることはないだろう、という意味の発言である。このような諦念を裕人に抱かせたのは、彼の姉の存在が非常に大きいだろう。裕人たちの両親は健在のようだが、作品の中でその存在が描かれることはない。むしろ、両親はほとんど存在しないも同然であり、裕人にとって親代わりの存在になっているのが姉のルコである。


 裕人を女性嫌いにさせたのは、姉のルコだけではなく、ルコの友人である上代由香里(裕人の学校の先生でもある)の存在も大きいことだろう。この二人の女性は、作品の中では、極めてセクシャルな存在(肉感的な存在)として描かれている。しかし、一方では肉体的に極めて女性的な存在であるにも関わらず、他方においては彼女たちのうちに何か男性的な特徴が見出される(深夜まで酒を飲んで騒いでいることがそうであるし、ルコのほうは造形のレベルで男性的に描かれているところがある)。両親の不在と裕人の女性嫌いとを結びつけて考えるのなら、父でもあり母でもあるこの二人の女性によって喚起されるのは性的なものの攪乱であり(ルコと由香里との関係性のうちに同性愛的なものを認めることも可能だろう)、おそらく、女性的な肉体に接近することが裕人にとって最も嫌悪感を抱かせることではないかと想像されるのだ。


 そんなふうに女性を嫌悪しているとすれば、なぜ裕人は春香を好きになることができたのか。ここが大きな問題である。裕人の女性嫌悪は、女性的な見かけの先にある女性の実相に向かっている。だとすれば、知り合って間もない女性の裏面がどんなものであるのか分かったものではないというふうに、なぜ裕人は思うことができなかったのだろうか。


 ここで重要になってくるのが春香のキャラクター性とでも言うべきものである。春香の見かけ、その表面に立ち現われているもの、みんなに見せている春香の姿は「才色兼備な深窓の令嬢」といったものである。これが見かけにすぎないということは裕人もよく分かっていることである。では、その見かけの裏面には何があったのか。お嬢様の見かけの裏に隠されていたもの、それは、裕人が嫌悪するような肉感的な女性性(あるいは男性的な何か)ではなく、春香のキャラクター性といったものではなかっただろうか。つまり、お嬢様の背後にあったのは、「ドジっ娘」というキャラクター性ではなかったのか。春香がドジっ娘だったということ、これがまさしく、「乃木坂春香の秘密」に他ならないと思うわけである。


 『乃木坂春香』という作品それ自体がキャラクター作品なので紛らわしいが、春香がみんなに隠していたのは、自分がドジっ娘であるという、そのキャラクター性だったと思われる。そして、裕人が惹かれたのはこうしたキャラクター性だったのではないだろうか。キャラクターには表も裏もない。裏があるキャラは、例えば「腹黒キャラ」という、これまたひとつのキャラ類型にすぎない。言い換えれば、キャラクターには見かけしか存在しない。キャラクターに内面や内実といったものは存在しない。まさに、こうした表面だけしかない存在に、ある種の平面性(二次元という言葉が意味するもの)に、裕人は強く惹かれたのではないだろうか。そして、もしそうだとするのなら、裕人をオタクと呼ぶことに何の障害もないことだろう。


 さらに言えば、春香が同一化したキャラクターは、アキちゃんという幼女キャラである。つまり、アキちゃんは、姉のルコや由香里先生が体現していたような肉感的な女性とは対極に位置するような、性的ではない女性キャラクターなのである。こうした幼女キャラに春香が同一化していたからこそ、裕人は春香に近づくことができたのではないだろうか。春香の性格特徴に関連する言葉として、「ピュア」とか「イノセント」という言葉が出てくるが、こうした言葉が向かっている先は、単純に少女性というだけである。つまるところ、裕人が春香のうちに見出したのは、幼女キャラが体現するような可愛さ、萌えだったのではないだろうか。


 アニメの第1話のクライマックスとは、春香がドジっ娘アキちゃんの極めポーズ(スカートを持ち上げるポーズ)で挨拶するシーンである。これは、作品の冒頭に出てくる実際のアキちゃんのポーズとリンクしている。春香は実際にもお嬢様であるが、しかし、スカートを少し持ち上げるこのポーズは、アキちゃんというキャラが行なうポーズである。


 ここから翻って考えてみるのなら、春香はまさしくお嬢様キャラに他ならないし、彼女の豪邸やメイド隊などというものは、マンガ・アニメ的なキャラ設定に他ならない。つまり、乃木坂春香はひとりのキャラであるというあまりにも自明な事実を、作品内において相対化しているのが、この『乃木坂春香の秘密』という作品の興味深いところである。一見お嬢様キャラだと思われた乃木坂春香が実はドジっ娘キャラであった。こうしたキャラ操作を物語の展開に上手く組み込んでいるところが、この作品の非常に面白いところではないだろうか。『乃木坂春香』は一見すると、非常にベタなラブコメ作品のように思えるが、実のところ、そこには萌えキャラに対するメタな視点が織り込まれている、ということである。