2009年のベストアニメ作品――ゼロ年代の終わりにアニメの未来について考えてみる

アニメ(ブロガー・twitterアニメクラスタたち)の饗宴、あるいは2009年アニメベスト/ワーストのススメ(反=アニメ批評)
http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20091220/1261317064
アニメブログ年末合同企画(EPISODE ZERO)
http://d.hatena.ne.jp/episode_zero/20091220/p2


 上記の企画に参加。


 2009年のベストアニメというか、もし仮に2009年のアニメの中からひとつだけ見るべきものを選べと言われれば、僕は迷いなく、『エンドレスエイト』の名前を上げることだろう。『エンドレスエイト』は、『涼宮ハルヒの憂鬱』のアニメのひとつのエピソードとして考えるべきではなく、独立したひとつの作品として捉えられるべきである。


 つまり、2009年のベストアニメは『エンドレスエイト』である。以上。


 これで記事を終えてもいいのだが、せっかくの機会なので、『エンドレスエイト』の重要性について、状況論的な観点から、少し書いてみることにしたい。『エンドレスエイト』の作品内容の分析については以前に書いたので、興味のある人をそれを参照してみてほしい。


エンドレスエイト」から立ち上がってくる倫理――平行世界の確率論的な倫理について
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20090903#1251960460


 『エンドレスエイト』は、単に2009年という一年間のアニメ状況においてではなく、ゼロ年代の終わりというアニメ状況、あるいは、サブカル状況の中で光り輝く作品である。そこで意味されていることとは、端的に、セカイ系的な想像力の終わりが印づけられている、ということである。


 2009年に話題になった劇場アニメとして、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』と『サマーウォーズ』があったわけだが、これら二つの作品は、セカイ系からの転向が印づけられていた作品だったと言える。セカイ系の始祖というふうに見なされている『エヴァンゲリオン』が、いったいどんなふうに新しい物語を展開させることになるのか。そういうところに少なからぬ注目が浴びせられていたわけだが、結果出てきたのは、ひきこもることよりも積極的に他人とコミュニケートしていくことを重視する碇シンジ君の姿であった。『サマーウォーズ』は、『時をかける少女』の次に細田守が作った作品ということに注目するならば、セカイ系的なループ展開が大家族主義へと失墜していってしまった姿をそこに認めることができる(あるいは、マイナーなアニメではなく、最初からメジャーなアニメを作らざるをえなくなったがために、物語的な変更を余儀なくされたところがある)。


 『ヱヴァ』の物語は今後も続くし、『サマーウォーズ』に関しても、大家族主義をベタに称揚しているとは思えないところもあるので、ただ単にセカイ系からコミュニケーション重視へ(「きみとぼく」という二者関係からある種の共同体の構築へ)、これらの作品が展開していったと言えないところもあるわけだが、しかし、これらの作品がもはやセカイ系ではないことは間違いない。そういう意味で、セカイ系からの転向という現象は間違いなく存在しているように思える。


 先日、新海誠の新作の情報が出てきたが、セカイ系作品の大作家と言える新海の次作はいったいどうなることだろう。『猫の集会』という1分間のアニメがあるが、これを見ると、新海もまた、『ヱヴァ』や『サマーウォーズ』と同様に、家族を重視した作品、あるいは、コミュニケーションを重視した作品を作るのではないかという予感がある。あるいは、冒険する少女が主人公という点では、ジブリっぽい作品が作られることになるかも知れない。つまり、新海誠もまた、セカイ系からの転向を表明するような作品を今後作ることになるかも知れないのだ。


 こうした状況にあって、Keyの一連のセカイ系作品をアニメ化してきた京都アニメーションは、今後どんなアニメを作っていくことになるだろうか。未来を予測する手掛かりという点では、『けいおん!』と『涼宮ハルヒの憂鬱』という、今年作られた二つのアニメ作品に注目すべきだろう。ある意味、『エンドレスエイト』の対極に位置づけられるべき作品が『けいおん!』だと言えるわけだが、2009年というゼロ年代の終わりに、『けいおん』と『エンドレスエイト』という二つの作品が出てきたことが僕は重要だと思っている。


 そもそも『涼宮ハルヒ』はセカイ系なのか。僕は『ハルヒ』については、セカイ系に対するメタな視点が入っている作品、つまり、メタ・セカイ系な作品だと思っている。メタな視点が入っているということは、対象として扱われているもの(ここではセカイ系)に対して距離が取れているということ、何らかの批評性があるということである。『涼宮ハルヒ』が備えている批評性が重要だと僕は思っているのだが、セカイ系に対して距離が取れているということとセカイ系からの転向というのは同義ではない。転向というのは単に立場を変えたということであって、そこに批評性は存在しない。つまり、セカイ系の乗り越えなどという自体はそこには存在しない。セカイ系の乗り越えというものがありうるとすれば、それはまさに、セカイ系の形式を内側から破るということによってしか可能でないのであり、そうした内部からの乗り越えを試みている作品が『涼宮ハルヒ』に他ならないと思うのである。


 そして、同種の路線で、『エンドレスエイト』は、セカイ系の形式を内部から突破したと思えるところがある。『エンドレスエイト』の最後でキョンハルヒを呼び止めるシーンは、「憂鬱」のエピソードの最後でキョンハルヒに「ポニーテール萌え」を告白するシーンと同じ意味を持っていると考えるべきである。そこで問題になっているのは、大きな物語の喪失(生の意味の希薄化)という事態をいかにして無意味な日常生活の再価値化へと軟着陸させるか、ということである。


 しかし、もちろん、「憂鬱」から『エンドレスエイト』への展開はある。『エンドレスエイト』というのは、むしろ、大きな物語への断念、あるいは、(大きな物語の喪失を代補する形で出てきた)セカイ系的な物語への断念が、日常生活への過剰な執着へと、強迫神経症的な繰り返しへと陥ってしまった事態をいかにして克服するかという新しい課題に直面している作品だとも言える。「憂鬱」で克服の対象だったものがセカイ系という名のパラノイア的な誇大妄想だったとすれば、『エンドレスエイト』で克服の対象になっているのは、日常生活への依存・嗜癖・中毒といったものである。


 セカイ系に対する解毒剤が日常生活の価値の再発見だったとすれば、そうした日常性への執着という新しい困難はどんなふうに解決されるのか。それは、やはり、日常生活の無意味さというものを再度強調することによってである。そうした無意味なものの価値は、『エンドレスエイト』においては、確率論という形で提示されていたと言える。ハルヒが日常生活への執着によって、ある種の無限の観念を提示していたとすれば、そうした無限のはらむ必然性に対抗するのは確率論的な偶然性である。つまり、日常生活がもたらすささやかな奇跡の瞬間というものは、日常生活を繰り返す中で必然的に生み出されるものではなく、偶然に生み出されるものなのだ(だからこそ日常生活の小さな断片に価値が宿る)という、そうした価値転換が目指されていたと言えるのである。


 こうした作品内容の話とは別に、『エンドレスエイト』はそれ自体が極めて批評的な作品であったと言える。それは、われわれの視聴環境を、われわれの消費スピードを動揺・攪乱させた。ほとんど同じ話を8回にわたって放送するというこの試みが狙ったのは、アニメを見るという行為そのものを批評の対象に据えるということである。京都アニメーションは、偶然にも、『涼宮ハルヒ』という作品によって、そうした視聴環境をも問題にするという批評性を獲得してしまった(YouTubeで配信されていた『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』の試みもその一環であるだろう)。これは、つまり、われわれがネット上でいつもやっている行為、アニメを見てその感想なり考察なりをブログやtwitterに書き、そうすることによってアニメを消費していくという行為そのものを疑問に付すことに繋がる。


 その昔、『エヴァンゲリオン』という作品は、アニメを見ている人たちに向かって、「アニメを見ていることが気持ちいいの?」というようなメタメッセージを発していたことがあったが、新『ヱヴァ』においては、アニメはひとつの快楽だ、というところに居直ってしまって、旧作品が持っていたような批評性を完全に喪失してしまったところがある。『エヴァ』が失った批評性を『ハルヒ』が回復させることになるのではないかという期待もあるのだが、そこまで断言するのはまだ早すぎる。来年に公開される『涼宮ハルヒの消失』が単に出来の良い作品に終わってしまう可能性もなくはないだろう。


 しかし、少なくとも、『エンドレスエイト』はそれ単独で極めて批評的な作品であった。『けいおん』の後に『エンドレスエイト』が作られたというのも重要な点である。つまり、京都アニメーションの内部にもひとつの緊張関係があるのだ。『けいおん』がセカイ系という名の悪い想像力に対する解毒剤として機能していたとすれば、『エンドレエイト』は日常系アニメに対する批評性を保持していたと言える(まさに、文字通り、終わりなき日常が描かれていたわけだから)。こうした緊張関係が今後も維持されるとすれば、京都アニメーションの未来は明るいかも知れないが、一方の軸であったセカイ系ゼロ年代の終わりに、まさに『エンドレスエイト』それ自身によって止めを刺されたとすれば、『けいおん』に対抗できるような何か新しい軸が必要になってくるのかも知れない。それが出てくることをひとまず『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズに期待しよう。そこで、セカイ系の先がどのように描かれるのかというのが大きな問題である。


 2010年代はいったいどのようなアニメ作品が作られることになるだろうか。悪いアニメが大量に作られるという予感は間違いなくある。悪いアニメというのは出来の悪いアニメというのではなく、良質であるがゆえに批評性を持たない、つまらないアニメということである。宮崎駿高畑勲がいなくなったジブリが悪いアニメを生産する場所になるという予感は間違いなくある。そして、そうした傾向性に、庵野秀明細田守新海誠といったアニメ作家たちが巻き込まれていってしまうという予感もある。


 2010年代に個人的に期待しているのは、Production I.Gの活躍である。I.Gは、今年間違いなく、ひとつの転機を迎えたのではないかと僕は思っている。『戦国BASARA』、『東のエデン』、『君に届け』という一連の作品の路線は、何か新しいアニメの可能性を予感させる(『攻殻機動隊』が代表していたようなジャパニメーション路線とは違った方向性が見出される)。これは、今年、GONZOがひとつの終焉を迎えたということと波長を共にしているところがあるように思える。そういう意味では、2010年代のアニメとして、まずは、京都アニメーションの『涼宮ハルヒの消失』と共に、I.Gの『文学少女』に期待したいところである。


 しかし、いずれにしても、アニメというのはもともとジャンクなものだったということを忘れるべきではないだろう。そういう意味では、アニメ作品のベストを語ることそれ自体が一種のアイロニーになってしまっているところがある。さらに言えば、アニメというジャンルそれ自体がマイナーなジャンルであるということも忘れるべきではないだろう。多くの人にとって、アニメというのは、依然として、『ヤマト』であり『ガンダム』であり『ナウシカ』なのではないのか。


 そういう意味で、今後期待されるべきなのは、良質な作品であるよりもむしろ、よりひどい作品、ジャンク性を帯びた作品である。こういう次元で、僕はやはり、深夜アニメに期待してしまうことがあるが、もはや深夜アニメのアングラ性などというものは存在しないかも知れない。深夜アニメがアニメの主流になってしまっているところがあるのかも知れない。


 アニメがどこでどんなふうに放送されるのかという点は重要である。もしかしたら2010年代はネット上で展開されるアニメというものが主流になるかも知れない。ネットの技術革新のスピードは非常に速いので、今後何が起こるのかまったく見通しがつかないのだが、そういう状況に対応するような、アニメ視聴の方法というものも出てくるのかも知れない。少なくとも、ブログにアニメの感想や考察を書くこともまた、ゼロ年代という時代性を帯びたものになるのではないかという予感がある。そういう時代性を帯びた試みとして、今回のように、みんなでアニメのベスト/ワーストを書くというのは悪くないかも知れないと思って、こんなふうに書いてみた次第である。