2008-01-01から1年間の記事一覧

アニメ『かんなぎ』に対する不満――2008年秋アニメについての雑感

今年の10月から始まって現在放送されているアニメ『かんなぎ』は、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『らき☆すた』の制作に関わった山本寛が監督をしているという点で、現在最も注目を浴びている作品だろうし、僕自身もそのような文脈で期待していたのだが、放送が2ヶ…

アニメ『かんなぎ』に漂う昭和の香り

アニメの『かんなぎ』を見ていて、この作品は、何というか、すごく昭和の香りのする作品だなあ、と思った。しかし、それは単に古臭いとか懐かしいというのとは違っている。こんな作品をゼロ年代の終わりにやるなんて時代錯誤だ、とかそんなことではない。む…

新作アニメ『鉄のラインバレル』の第1話を見て思ったこと――暴力とコミュニケーション(その2)

以前、このブログで、アニメ『ブラスレイター』を取り上げて、暴力とコミュニケーションとの関係について問題にしたことがあったが*1、力にまつわる諸々の問題とコミュニケーションとの関係は、極めて密接である。簡単に言ってしまえば、力を求めることはコ…

今日におけるヒーローの課題、あるいは、善悪の彼岸としての神的暴力について

ヒーローの役目とはいったい何であろうか? ヒーローとは力を持つ者のことであり、その力をどのように使うのかが問題となる。ヒーローには普通の人にはできないことが期待される。そのため、ヒーローはしばしば悪の存在と闘う。しかし、悪の存在とはいったい…

近年のアニメ作品における同居と調和のテーマについて――家族的関係がはらむ暴力に関して

極めて今日的なテーマとして暴力というものがあるだろう。いったいなぜ暴力が問題になるかと言えば、暴力を問題にする観点はいくつもあるだろうが、まずひとつ言えることは、われわれが他者と関わるときに、その他者が極めて暴力的な存在として浮かび上がっ…

日常の脆弱な関係性から非日常の強固な関係性へ――アニメ『セキレイ』について

現在放送中のアニメ『セキレイ』では、関係性(所属関係)の移行が問題になっている。浪人生である佐橋皆人は、突然、セキレイ計画と呼ばれるバトルロワイアルに巻き込まれることになる。結(むすび)という名のセキレイとの出会いが、彼の日常生活、彼の人…

『人魚姫』の持つ今日のリアリティ――『崖の上のポニョ』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について

最近、偶然にも、アンデルセンの『人魚姫』を現代風にアレンジした二つの作品を見たり読んだりした。ひとつは、宮崎駿の最新作『崖の上のポニョ』であり、もうひとつは、桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』をマンガ化した作品である(漫画:杉…

コンプレックスと承認の問題――神尾葉子『まつりスペシャル』について

(コミックス第1巻を読んでの感想) 少女マンガの伝統的なテーマのひとつに承認の問題がある。コンプレックスを抱えた女の子が、いかにして他者(男性)から承認を受けるのか、そして、そのことによって、いかにして自分に自信を持てるようになれるのか、と…

2008年夏の新作アニメ雑感

新作アニメをざっと見たので、感想を少し書いてみたい(もちろんチェックした限りでだが)。1話か2話しか見ていないので、内容には深く入らず、ちょっとしたメモということにしておきたい。 今期の作品で非常に素晴らしかったのは『鉄腕バーディー DECODE』…

個人に鬱積する集団の暴力、補填不可能な絶対的損失――『モノノ怪』と『地獄少女』

『モノノ怪』の「化猫」というエピソードで問題になっているのは、個々人のささやかな利己心や無関心が、あるひとりの人間を絶望的な状況に追いやるということである。個々人の意識の上では、他人の利益を損ねたり、他人を悲惨な状況に追いやることなどとん…

暴力とコミュニケーション――アニメ『ブラスレイター』について

現在放送中のアニメ『ブラスレイター』は、暴力とコミュニケーションを巡って、様々な問題を提起している作品だと言える。暴力とコミュニケーションとの関係は、端的に、こう言えるだろう。話すことができないとき、話すことが無力であるとき、そこに暴力が…

『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その5)――日常系の自己反省的効果、過剰な要素としての反復する名前

いわゆる「日常系」というジャンルに『らき☆すた』も含めることができるだろうが、しかしながら、そこでひとつの作品ジャンルとされている「日常」とはいかなるものなのか、「日常」という言葉の内実とはどのようなものなのか、ということがひとつの問題とな…

セカイ系の社会的な次元、あるいは、セカイ系のリアリティについて

セカイ系作品はこれまで多くの批判にさらされてきたと言えるが、セカイ系を批判するときにしばしば持ち出される言葉がある。それは「閉鎖的」というものである。「セカイ系」という言葉の定義の一部をなしている、社会的な領域の欠如という特徴が含んでいる…

『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その4)――自明性の回復というオタク的な努力、見た目と語りとの間のギャップ

共通前提の崩壊の問題と不快な他者の侵入の問題との間には密接な関係があるように思える*1。つまり、他者が、たとえ善意からだとしても、何か介入的な行為をしたときに、そうした行為をひとつの越権行為、自分を害するために行なわれた攻撃的な行為と見なす…

『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その3)――過剰流動性にさらされたオタク的文脈

前回提起した問題、つまり、アニメ『らき☆すた』第1話の食べ物に関するエピソードについての問題とは、簡単にまとめると、こういうことである。すなわち、われわれは、ある時には、何かについての価値判断の多様性を認める。あるものに対する評価について、…

『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その2)――チョココロネの「正しい」食べ方

チョココロネを細いほうから食べるか太いほうから食べるか? いったい、なぜ、そんなことが問題になるのだろうか? この問いに見出される問題設定とは、自明性の欠落である。おそらく、それほどの深刻さはないだろうが、泉こなたの思考にふと到来したものと…

『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その1)――オタクと非オタクとの間

以前、このブログで、アニメ『まなびストレート』を取り上げて共通前提の崩壊について語ったことがあったが(共通前提の崩壊、学園ものの危機――『まなびストレート』を中心に)、もちろん、共通前提の崩壊という現象は、『まなび』という作品だけに見られる…

世界は素晴らしい、しかし、それにも関わらず――新海誠の『遠い世界』

「other worlds」。異世界。この世界とは別の世界。 副題が「other worlds」にも関わらず、この作品に描かれているのは、別の世界、異世界ではない。異世界は、常に、この世界とは別の場所にあるものとして、ほのめかされているだけである。そこにあるのは、…

志賀直哉『城の崎にて』――動物にとっての生と死、意識と行為との間のギャップ

われわれ生きている者たちにとっては、死とは余計なものなのだろうか? われわれ生きている者たちは、死とどのような関わりを持つのだろうか? 生きている者は必ず死ぬ。これは事実であるだろう。しかしながら、これは、あまりにも明白な事実なので、それを…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その10)――他者のモノローグ、近代人は二度死ぬ

『孤独のグルメ』について書くのは今回で最後にしたい。そこで、今回は、今まで提出した観点をまとめてみることにしたい。 まず最初に提出したのは、モノローグという観点である。ここでのモノローグは、ダイアローグの不在と言い換えることができるだろう。…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その9)――目を持つ群衆、量の問題を提起する群衆

群衆の持っている器官とは、端的に言って、目であるだろう。もちろん、群衆は聞いたりもするし、喋ったりもするだろう。ひとつのところに集まって交通を妨害することもありうるだろうし、映画のワンシーンによく見られるように、人と人とを離れ離れにさせた…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その8)――群衆の欲望から距離を取るということ、特殊と一般の狭間

井之頭五郎は都市の風景の中に溶け込む。都市においては、五郎が物語の中心人物ではない。五郎は、多くの登場人物(群衆)の中のひとりにすぎない。多くの登場人物の中のひとりであること。このことが孤独を養うのである。 都市の風景の中に埋没すること。そ…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その7)――これまでの文脈、われわれの欲望を構成する都市の風景

この『孤独のグルメ』論は、『ぼくらの』論を引き継ぐ形で始めたわけだが、そもそもどのような動機から『ぼくらの』という作品を問題にし始め、そこからどのように問題を『孤独のグルメ』へと移行させていったのかということについて、ここで改めて確認して…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その6)――風景の変貌、自身の孤独に留まり他者の孤独と連帯するということ

ひとりになること、ひとりでいることとは、対象化する視点を持つということである。孤独であるということは、何かから距離を取るということである。第9話において、五郎は、自分の過去から距離を取る。そこにおいて、五郎は、単に、昔のことを思い出している…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その5)――生の根本的な要求としての空腹、都市の軋みとしての群衆の声

今回は、まず、『SPA!』2008年1月15日号に載った『孤独のグルメ』の特別編から話を始めたい。 この特別編の舞台は病院である。つまり、病院食を食べる井之頭五郎の姿が(半ばパロディ的に)描かれるわけである。これまで、この『孤独のグルメ』論で問題にし…

『孤独のグルメ』と現代人の生活(その4)――都市の背景になるということ

『散歩もの』のコンセプトとは、言ってみれば、ひとりになると見えてくるものがある、ということである。別段、『散歩もの』の上野原譲二は孤独ではない。彼には妻がいるし、会社の同僚もいるし、昔馴染みの友人たちもいる。しかし、こうした人たちと話をし…