今日におけるヒーローの課題、あるいは、善悪の彼岸としての神的暴力について

 ヒーローの役目とはいったい何であろうか? ヒーローとは力を持つ者のことであり、その力をどのように使うのかが問題となる。ヒーローには普通の人にはできないことが期待される。そのため、ヒーローはしばしば悪の存在と闘う。しかし、悪の存在とはいったい何なのか? いったいそこで問題となっている悪とはどのような種類の悪なのか? その存在が悪だからそいつは悪だと言っただけでは同語反復である。ヒーローものの作品で悪と見なされているものたちのことをもう少しよく考えてみる必要がある。


 例えば、『ウルトラマン』に出てくる怪獣たちは、悪の存在なのだろうか? 『ウルトラマン』に登場する怪獣たちは、知性を持った宇宙人を別にすると、どこか動物的なところがある。怪獣たちがビルや家などを破壊したとしても、それは、怪獣たちが人間に悪意を持っているからでは必ずしもないだろう(元々は人間であり、政治的な戦略のせいで遠い惑星に置き去りにされたジャミラは、明確に人間に対して恨みの感情を抱いている怪獣だと言えるが、これはやはり例外だろう)。怪獣たちが悪い存在であるのは、それが極めて巨大であるからであり、それが存在するだけで、人間たちに大きな被害を与えるからである。従って、怪獣が犬や猫なみに小さくて、人間に何の害も与えないとすれば、そうした怪獣は何ら悪の存在ではないだろう(ピグモンが良い怪獣とされているのはその体長が人間の子供くらいであるという特徴が大きく物を言っていることだろう)。突然地中や海中から出現した怪獣たちが科学特捜隊によって攻撃されるという事態は、人間が生態系に大きく関与したために異常繁殖した動物たちを、農作物に被害が出るなどの理由で、大量に殺害しなければならないといった事態に似ているかも知れない。


 ここでは、悪ということ以前に、異質なものや他なるものとの共存が問題になっている。悪は、しばしば、異質なものや他なるものと関わる中で問題となる(『伝説巨神イデオン』で言うところの「接触」が悪を生じさせる)。この世界に同じものだけしか存在しなかったとすれば、そこには悪は存在しないかも知れない。しかし、世界は人間のためだけにあるわけではないし、人間同士の間にも様々な対立が存在する。つまり、異質なものは常に存在する。『トップをねらえ!』に出てくる宇宙怪獣のことを考えてみよう。宇宙怪獣たちは人類を攻撃するわけだが、その理由は、人類の存在が宇宙全体にとって悪いものだからである。宇宙全体を人体に喩えてみるならば、そこでの人類の存在とは、悪性の細菌のようなものである。そのために、宇宙怪獣は、白血球のように、人類を死滅させる必要がある、というわけだ。


 人類こそが最も悪い存在なのではないかという発想がいつ頃から出てきたのかよくわからないが、おそらくかなり昔から存在する考えなのだろう。少なくとも現代においては、環境問題という形で、人類の悪が露呈している。


 手塚治虫のマンガ『W3(ワンダースリー)』では、人間の攻撃性、あるいは、闘争本能とでも言うべきものが問題になっている。ここでいう闘争本能とは、言ってみれば、絶えず何らかの差異を作り出し、その差異に基づいて何かを排除しようとする人類の傾向性のことである。様々な惑星の住人たちによって構成される「銀河連盟」において問題の焦点となっているのは、そのような人類の「野蛮」さであり、そこから、人類が善の存在なのか悪の存在なのか、人類を滅亡させるべきか否かということを決定しようとする。人類の外にあって、人類を道徳的に評価し、人類の存亡を決定する存在。こうした存在のことを神と呼ぶこともできるだろうが、いずれにしても、多くのSF作品では、人類が従っている論理とは別の論理が提出されることによって、人類が相対化され、人類の悪が強調されることになるのである。


 『無敵超人ザンボット3』でも人類の悪が問題になる。最終回で驚くべき事実が明らかになるのだが、主人公たちの闘ってきた敵とは、実は、自律したコンピューターだったのであり、このコンピューターの目的とは、悪の存在を打ち滅ぼすことにあった。つまり、人類こそが悪だったのである。ここには『トップをねらえ!』と同様のパースペクティヴの逆転がある。加えて、この作品の徹底したところは、このような人類の悪、人間の醜悪さについて、主人公は、これまでの自分の経験から十分によく知っているということである。人々は、主人公たちが地球を守るために闘っているにも関わらず、主人公たちのことを非難する。人々は一連の災厄の原因をすべて主人公たち一家に押しつけようとするのである。つまるところ、敵のコンピューターによって知らされる真実とは、主人公が潜在的にはすでに知っていた真実だったのであり、こうした自分の中の真実に直面することで、主人公のアイデンティティは壊滅的な打撃を食らう。いったい自分は何のために闘ってきたのか、という疑問を抱かざるをえなくなるのである。


 人類こそが悪だとなったときに、それではヒーローは、いったい何をすればいいのだろうか? 『トップをねらえ!』で提出された結論とは、それでもなお、人類は生き延びなければならないというものである(この結論は、近年の作品で言えば、『天元突破グレンラガン』において反復されている)。この結論が意味しているのは、人類は、自分たちが生き残るための条件である世界そのものを破壊してもなお、生き続けなければならない、というものである。ここで端的に示されているのは共存の不可能性である。人類とは異なる論理で生きている存在、人類と対立することになる論理で生きている存在との共存は、ここでは不可能である。こうした敵対勢力を排除すること(何が何でも人類が生き延びなければならないこと)が悪だとすれば、人類は悪をなすことなしに生き続けることはできない。


 ここにあって、人類の側に立つヒーローがなさねばならないこととは、人類の悪をその身に引き受けることである。言い換えれば、ヒーローは、人類の代わりに、積極的に汚れ仕事を引き受ける必要があるのだ。


 こうした文脈においてこそ、ウルトラマンがバルタン星人に対して行なった大量虐殺の決断の意味を理解しなければならない。バルタン星人とは、故郷の星を失った難民宇宙人のことである。彼らの母星は同胞の科学者によって破壊された。彼らは新しく住む星を求めて、地球にやってくる。彼らは地球を自分たちのものにしたいと言う。ハヤタ隊員(ウルトラマン)は地球人とバルタン星人との共存を提案するが、バルタン星人はそれを拒否し、結果、ウルトラマンと闘って負けてしまう。単に負けるだけでなく、20億人ものバルタン星人が乗った宇宙船をウルトラマンスペシウム光線によってこなごなに破壊されてしまうという事態にまで至るのである。


 まず考えなければならないのは、果たして、人類とバルタン星人との共存など可能だったのかということである。このことはまったく未知の問題だと言わねばなるまい。しかしながら、バルタン星人の側に共存の意志がない以上、ヒーローであるウルトラマンのしなければならないことは、地球を自分たちのものにしようとする彼らを退けることだけである。加えて、侵略の可能性を徹底的に根絶するためには、すべてのバルタン星人を殺害する必要があることだろう(あるいは何らかの手段によってバルタン星人の活動を完全に停止させる必要がある)。おそらく、こうしたことがウルトラマンの決断の意味であり、それは、『トップをねらえ!』で行なわれていることとまったく同じである。宇宙怪獣を退けることだけでは十分ではなく、宇宙怪獣の巣を破壊して、宇宙怪獣が地球に襲来する可能性を根絶させる必要があるのだ。


 こうした汚れ仕事を引き受けるのがヒーローの役目である。ウルトラマンは、二重の意味で(道徳的な意味でも能力的な意味でも)人類がしたくてもできないことを行なったのだ。


 だが、ヒーローには、もうひとつの選択肢が残されている。それは、悪を決して許さないという絶対的な正義の論理に従って、人類それ自体を滅ぼすこと(場合によっては自分で自分を殺すこと)である。旧来のヒーローものの作品で悪とされている者の中には、このような選択をしたヒーロー、つまり、ある種の使命感から、徹底的な破壊活動を行なうことを決断した(ダーク)ヒーローもいることだろう(代表的な例は『逆襲のシャア』におけるシャアである)。逆に言えば、人類を守るために闘っている、いわゆる典型的なヒーローとは、ある種の悪(人類が世界に対して行なっている悪)を暗黙のうちに容認している者でもあるのだ。


 どちらの立場に立ったとしても、ヒーローは、何らかの破壊活動に手を染める必要がある。つまり、悪をなさないヒーローはいない、という逆説がここにはある。


 そうした点で、『コードギアス 反逆のルルーシュ』は、ヒーローの行なう悪を徹底的に描き出している作品であると言える。この作品が提起している問いとは次のようなものではないだろうか? すなわち、誰にとっても良くあろうとすること、それは果たして善なのだろうか、と。言い換えれば、『コードギアス』では、全体性が徹底的に疑問に付されているのである。誰かが何か全体的な価値を持ち出すと、それは結局のところは部分的なものだと言われて相対化される。普遍的な善悪の基準を持ち出すキリスト教に対して、それは結局のところ一部のヨーロッパ人の特殊な価値観に過ぎず、人類全体に当てはまるわけではないといったような批判と同種のものがそこにはある。


 しかしながら、「人間が行なうことはすべて悪だ。だから、自分が良いと思ったことを各個人がそれぞれに行なえばいいだけだ」と言い切ってしまうのは、やはり一種の居直りだろう。『コードギアス』においては、そのような相対的な利己主義は否定され、やはり、ある種の善が問題になっている。つまり、そこでの善とは、自分ひとりだけが良いと思っているということには留まらず、他の人にとっても良いものであり、そのような他者との関係性に基づく善である。加えて、それは、多数者にとっての善が問題になっているわけでもない。単純に、「最大多数の最大幸福」が善と見なされているわけではない。


 『コードギアス』で描かれているのは様々な改革や変革、あるいは「反逆」である。人々は社会をそのまま維持していくことよりも、社会を変革していくために積極的に行動する。いや、むしろ、そこで変革の対象になっているのは、単なる一社会ではなく、世界全体だと言えるだろう。そして、このことは、『機動戦士ガンダムSEED』や『機動戦士ガンダム00』といった、いわゆる「土6」アニメ(今では「日5」だが)で共通して描かれていることでもある。つまるところ、ここで問題になっているのは世界へのコミットメントであり、世界を変えることがヒーローの課題なのである。


 ここで打ち出されているヒーロー観はやはり新しいものだろう。というのは、そこでのヒーローは、まさに人間でありながらも、つまり、人間としてあまりにも多くの限界を抱えながらも、世界全体を変革するという大きな課題を背負わされているからである。黒の騎士団が背負っている課題、一民族の独立という課題もまた非常に大きなものであると言えるが、そうした課題を越えて、世界全体をどうするかということが『コードギアス』では問題になっている。そのような課題がひとりの人間の上に重くのしかかっている。同様の課題を背負った歴史的人物として、アレキサンダー大王やナポレオンといった歴史的英雄以上に、イエス・キリストのことを思い出すべきだろう。というのは、イエス・キリストは、キリスト教においては、全人類の罪をその身に背負うことによって、人類と神との関係性を一新したとされているからである。つまり、問題となっているのは神との新しい契約(新約)であり、人類と世界との新しい関係性の構築である。


 イエス・キリストは神の子だとされているが、それに対して、土6アニメの主人公たちは、普通の人間である。超人的な能力がそれぞれに与えられているとしても、そこには人間としての限界がある。つまり、彼らには、奇跡を起こす能力が端的に欠けている。しかし、欠けていてもなお、彼らは、奇跡を起こさなければならないのである。人間としての限界を超えなければ、彼らは、世界の変革という課題を達成することができないだろう。


 それゆえに、こうした新しいヒーローたちが行使しなければならない暴力とは、まさに、奇跡を起こすために必要な暴力だと言える。それは、単純に、悪とは言い難い暴力である。その種の暴力は、善悪という道徳的価値観を超えた場所に位置づけられるべきである。ベンヤミンが「神的暴力」と呼んだのも、そうした種類の暴力だったことだろう。ベンヤミンは、神的暴力を神話的暴力(法を措定する暴力)と対比させて、次のように述べている。

いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。
(『暴力批判論』、野村修訳、岩波文庫、1994年、59頁)

 しかし、こうした暴力を引き起こすのがひとりの人間であるのなら、そこには常に限界がついて回ると言わねばならない。そこでの暴力は、単なる一個人のもたらした悪へと還元される可能性が常につきまとう。ヒーローは単なるひとりの犯罪者へと失墜するのである。


 チャップリンの映画『殺人狂時代』に「ひとり殺せば犯罪者であるが、百万人殺せば英雄だ」という有名な言葉があるが、『コードギアス』は、まさしく、犯罪者か英雄かというこの微妙な一線を問題にしている作品である。スザクもルルーシュも多くの人を殺しているが、彼らが犯罪者になるか英雄になるかは、彼らがこれから何を成し遂げるかということにかかっていることだろう。


 『コードギアス』はあと数回で終了するわけだが、『コードギアス』で何か結論が提出されたとしても、その後には『ガンダム00』の新しいシリーズが始まる。つまり、『ギアス』で提出された問いはそのまま別の作品に引き継がれることになるわけである。今日においてヒーローは何をなすべきかという問いは、現代という時代においては、ほとんど重要視されない問いかも知れない。現代においては、「私」にとってのヒーローとか、われわれにとってのヒーローといった、限定化されたヒーローしか問題にならないのかも知れない。その点で、土6(日5)アニメは反時代的であり、そこに様々な歪みを見出すこともできるわけだが、そこで提出されている問いを決して無視すべきではないだろう。そこに示されているのはこの時代に生きることの困難さである。『ギアス』から『ガンダム00』への移行にこれから注目してみたい。