新作アニメ『鉄のラインバレル』の第1話を見て思ったこと――暴力とコミュニケーション(その2)

 以前、このブログで、アニメ『ブラスレイター』を取り上げて、暴力とコミュニケーションとの関係について問題にしたことがあったが*1、力にまつわる諸々の問題とコミュニケーションとの関係は、極めて密接である。簡単に言ってしまえば、力を求めることはコミュニケーションの断絶を意味する(他人に話しかけるのではなく、他人に殴りかかる)。あるいは、コミュニケーションへの不信や絶望が、力を求めることを誘発する(テロリズムが典型的であるが)。ここでコミュニケーションと言っているのは、言語などの手段によって、ある種の合意を形成していくこと、さらには、そのような合意を形成していくために関係性を(閉ざすことなく)開いたままにしておくこと、根源的には相手を殺さずに共存していくという意志を表明することである。もちろん、力の行使(暴力)がコミュニケーションそれ自体となりうる場面もあることだろう。関係性のないものに無理矢理に関係性を築くこと。言ってみれば、無理矢理に相手を話し合いの場に立たせること。このことはまさしく暴力であると言えるが、同時にコミュニケーション、少なくともコミュニケーションの開始であると言えるだろう。


 コミュニケーションの問題は、今日のサブカルチャー作品においても、当然のことながら、問題になっている。むしろ、今日の作品の王道というか、これからの作品において決定的に重要になってくるのがコミュニケーションの問題だと言えるだろう。いわゆる日常系と呼ばれる作品群は、そのようなコミュニケーションの問題に触れているが、しかしながら、そこには同時に、コミュニケーションの断絶の傾向も見出せる。例えば、新作アニメの『ヒャッコ』であるが、この作品で描かれているのは、言ってみれば、現在という時間の充実であるだろう。学園生活に馴染めないでいた女の子・能乃村歩巳が、新しく出会った人たちとひとつのグループを形成することによって、現在という時間を充実したものとして過ごしていく。似たような作品はいくらでもあるが(『みなみけ』や『苺ましまろ』など)、こうした現在の充実を獲得するためには、閉鎖されたグループの確立がぜひとも必要だろう。あるひとつのグループの中に馴染むことができなかった人物が、別のグループの中では自分の居場所を見つけることができる(そこではその存在が承認される)。こうした移行において、まさしくコミュニケーションの問題が提起されているわけだが、そこには同時に、グループ形成につきもののコミュニケーションの断絶(他のグループと接触しない)も示唆されているのである。


 それゆえ、新作アニメでコミュニケーションの問題を真正面から扱っているのは、日常系作品とは言えない『とらドラ!』のような作品であるだろう。この作品には、家族などの既存の関係性に準拠することなく、基本的な人間関係を再構築しようという方向性が見出せる(『とらドラ!』についてはもう何回か作品を見てから本格的に問題にしたいと思っている)。


 さて、そこで本題の『ラインバレル』であるが、この作品は、コミュニケーションの断絶と力への希求との関係を明確に描いている点で注目に値する。主人公の早瀬浩一は、言ってみれば、自らの無力さに自覚的であるがゆえに、他人とコミュニケーションを築いていくことができないという悪循環に陥っている人物である(他人とコミュニケーションすれば自らの無力さを思い知ることとなり、ますます他人とコミュニケーションしたくなくなる)。ここでネックになっているのは、力を獲得すればあらゆる問題が解決するはずだ、という思いこみ(あるいは願望)である。早瀬浩一の言う「正義の味方」の「正義」という言葉には何の実質もないことだろう。重要なのは、正義の味方とは、力のある存在であり、選ばれた存在であり、承認を受けた存在(物語の主人公)だ、ということである。おそらく、早瀬浩一にとって、物語の中心にいるのは、彼の友人である矢島のほうだったろう。自分は物語の主人公ではなく、常に脇役だという思いがそこにはあることだろう。


 力の行使(暴力)は、確かに、問題解決にあたっての有効な手段であるだろうが、そこではコミュニケーションの可能性が見失われてしまう。コミュニケーションの問題は、他者との関係性を問題にするだけではなく、自分自身の位置づけをも問題にする。早瀬浩一が抱えている根源的なレベルでの問題が窺い知れるのは、自分には力がある(将来自分は力を獲得できる)という願望と共に、そんなことは実際にはありえない、自分は無力なままだという諦念をも同時に持ち合わせているところである。従って、早瀬浩一は決して素朴ではない(自分が正義の味方になれると素朴に思ってはいない)。むしろ、彼を構成しているのは、世界に対する徹底的な絶望なのだ。このことは、まさに、コミュニケーションの断絶の契機となりうるが、世界は、偶然にも、彼に力と承認とを与えた、というところがこの『ラインバレル』という物語の面白いところである。


 諦念や断念というのは、90年代からゼロ年代にかけての、ある種の時代の気分だったと言えるだろうし、こうした諦念や断念を巡る問題は、今後もますます、その重要性を増していくことだろう。そのことは、コミュニケーションの重要性が語られるのと同時並行的に問題になってくると思われる。セカイ系というのが、そのような断念とコミュニケーションとを結びつけたひとつの物語形式だったと言える。セカイ系においては、言ってみれば、世界の複雑さや奥深さといったものは括弧に入れられ、世界が極めて単純なものとして提示される。しかしながら、同時に、そのような世界の複雑さは、あるひとりの他人(女性)という形で出現することになる(綾波レイと惣流アスカ・ラングレーという二重化された女性像(『新世紀エヴァンゲリオン』)、あるいは、絶えずその姿を変化させる機械と生物との融合体ちせ(『最終兵器彼女』)などが典型的であるだろう)。つまるところ、そこでは、あるひとりの他人とコミュニケートすることが世界全体とコミュニケートすることとほとんど同義になっているのである。


 他人とコミュニケートすればするほど傷ついていく人物。それゆえに、力を求めることになる人物。それが早瀬浩一であるだろう。彼にとっては、自分の望んでいた力を手に入れることは、事態の解決をもたらすよりも、さらなる問題の深刻化を引き起こすことになるだろうが、そうした点は、今後の注目点である。


 いずれにしても、このような主人公が描かれることは興味深い。『コードギアス』(ルルーシュランペルージ)も『DEATH NOTE』(夜神月)も、すでにそれなりの才能を持っている人物がさらなる力を手に入れるという物語だった。また、早瀬浩一と似たような境遇にありながらも、自分に与えられた力を最善の結果を導くために使用した「正義の味方」衛宮士郎のような人物もいる(『Fate/stay night』)。こうした人物たちと比べると、早瀬浩一の俗物ぶりが際立つことになるが、こうしたところにこそ出発点を見出すべきだという考えには、同意せざるをえない。世界に対する徹底的な絶望、そして、無力な自分自身に対する徹底的な嫌悪感。こうした二つの極端を抱え込んだ人物として、秋葉原事件を引き起こした加藤智大のことが思い出されるが、まさに、こうしたどうしようもない地点からコミュニケーションの可能性を模索していくという、ほとんど絶望的な方向性が今日のサブカルチャーの主流とまで言わなくても、重要なひとつの流れを形成していることは間違いない。


 『コードギアス』の最終回について少し言えば、ルルーシュは、コミュニケーションの可能性を開くために自ら死んだと言える。ルルーシュの死後、問題になることは、再びルルーシュのような救世主=暴君が待望される事態に陥らないかどうか、というところである。まさに「さぁ、民主主義を始めようか」というわけだが、民主主義の限界がルルーシュを生んだという逆説もそこにはあることだろう。いったい『コードギアス』と『ラインバレル』の狭間で何を考えることができるのか。今期のアニメは注目作品が非常に多いので、他の作品もいろいろと参照しながら考えていきたい。