アニメ『かんなぎ』に漂う昭和の香り

 アニメの『かんなぎ』を見ていて、この作品は、何というか、すごく昭和の香りのする作品だなあ、と思った。しかし、それは単に古臭いとか懐かしいというのとは違っている。こんな作品をゼロ年代の終わりにやるなんて時代錯誤だ、とかそんなことではない。むしろ、この作品を見ていて、そうした昭和の香りに何か新しいものを感じたのだ。


 いったいその理由は何だろうと考えながら、ネットの記事をいくつか見ていたのだが、まずキーワードとして出てくるのが「ギミック」という言葉である。


かんなぎ」で山本寛監督がしたい事〜オトナアニメより〜(海ノ藻屑)
http://d.hatena.ne.jp/tokigawa/20081010/p1


 この記事で検討されている山本寛の発言は、ネットで読める山本寛のインタビュー記事でも語られていることである。

やっぱり「ハルヒ」「らき☆すた」がヒットして、それを追うわけではないんでしょうけど、ネタを散りばめとけばなんとかなるだろう、みたいな作品が増えたように見えるんです。ギミックを用意しないと、ヒットが見込めないという状況になっている。作った自分が言うのもなんですが、そういう状況に異を唱えないといけないと思ったんですね。センセーショナルなやり方で、ワーっと引っ張るような作り方では、次第にお客様のニーズに応えることができなくなるのではないかという気がすごくしたんです。
(インタビュー:「普通にできたらええねん」 「らき☆すた」「かんなぎ」のアニメ監督・山本寛さん)
http://mainichi.jp/enta/mantan/anime/archive/news/2008/07/20080712mog00m200010000c.html

 海ノ藻屑さんの記事では、具体例(ギミックの使用の成功例)として、新房昭之の名前が出されているが、僕は以前から、シャフト=新房昭之京都アニメーションの違いはどこにあるのかを考えてきた。シャフトの作品でも京アニの作品でも、過去の様々な作品の参照が行なわれているが、シャフトの場合(『ぱにぽに』や『絶望先生』)は、その参照があまりにも膨大で、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるみたいな感じで、量でカバーしているところがあるが、京アニ作品の場合は、弾の数が少なくて、ひとつひとつ確実に狙って撃っていこうという、まずはそうした違いが目につく。


 しかしこのことは単に量の問題だけではなく、質の問題でもありうる。シャフトでも京アニでも、そうした参照を行うことがひとつの「ネタ」になりうるとしても、京アニ作品の場合は、そのような参照が、作品の基本的な雰囲気の構築に役立っている点で、作品をしっかりと地面に根付かせる役目を果たしているところがあるように思えるのだ(逆に言えば、シャフト作品では、作品内のドラマとは別の枠組のところで様々な参照が行なわれているところがある)。


 そうした点で、表面的な画面の印象で言えば、シャフト作品のほうが極めて斬新かつ実験的であるのに対して、京アニ作品は非常に地味であるように思われるのだが、作品の奥深さというか奥行きという点では、京アニ作品のほうが非常にしっかりしているように思えるのだ(『ハルヒ』にしても『らき☆すた』にしても、そこでは生活空間とでも言うべきものがちゃんと示されている)。


 それゆえ、今回の『かんなぎ』も(『かんなぎ』は京アニ作品ではないが)、ドラマ性を重視しているということが監督によって語られているにしても、そうしたドラマが根付くための場所というか雰囲気が重要になっているように思える。その点で、中山美穂や『ママはアイドル』の名前が出てくるのも、非常に納得がいく感じなのだ。


かんなぎ』OP『motto☆派手にね!』のモデルは『ママはアイドル!』OP『派手!!!』(中山美穂)(Syu's quiz blog)
http://www.syu-ta.com/blog/2008/10/06/151010.shtml


 こうした類の参照は、中山美穂や『ママはアイドル』のことを知っていれば、このアニメのことがもっと楽しめる、といったような類の参照ではないだろう。むしろ、こうした参照は、作品にひとつの基盤、ひとつの明確な雰囲気を作り出すのに役立っているように思えるのだ。


 従って、単にドラマが描かれるだけでは十分ではなく、そこに登場してくる人物たちが実際に生きて生活しているような、そうしたドラマの基盤としての場所を提示する必要があるように思える。そうしたことに極めて敏感なアニメ作家が山本寛なのだろうし、だからこそ、彼の関わった作品を見た人たちは、積極的に聖地巡礼を行ないたくなるのだろう。実際にある土地の風景が作品の中に出てくるからその場所に行ってみたくなるのではなく、その作品の中で醸成された雰囲気が土地に染み込むからこそ、その場所に行って、その場所の雰囲気にどっぷりと浸かりたくなるのだ。


 僕の感じた『かんなぎ』の昭和の香りというのは、おそらくそのような場所の雰囲気だったろうし、そこで示されているものはただ単に知識や記憶にだけ訴えかけるような代物ではないだろう。『かんなぎ』と同様に日常生活を送る神様を描いた『かみちゅ!』がまさに昭和後期の尾道を舞台にしていたように、その作品が根付くための時代と場所というものがあるように思われるのだ。