日常の風景のうちに見出される最小限のギャップ――『はたらく魔王さま!』の感想

 『はたらく魔王さま!』のアニメを見ていて、いくつか気になる点があったので、そのことについてちょっと考えてみたい。


 このアニメは、魔王と勇者との闘いという類型的なファンタジーの形式を通して、現代日本社会の日常生活(戯画化された貧乏生活)を描いている作品だと言えるが、ここには、簡単に言って、魔王と勇者との闘いという大状況と、日本の都市におけるしがないフリーター生活という小状況との間に大きなギャップがある。まさに、この作品は、このような寸法の違い=ギャップを利用して、日本社会の現状のうちにひとつ違った角度からの視点をもたらしていると言える。


 単純に考えて、この大状況と小状況との間には、二つの視点の方向性が存在していると言える。ひとつは、この平凡な日常生活から、「ここではないどこか」という遠くの世界(異世界)を夢想するという方向性。取り立てて大きな出来事が起こらない平凡な日常生活から、何がしか大きな出来事を夢見るといった方向性がある。


この方向性は、現在のサブカルチャー作品の多くに見出される視点であり、この視点においては、まさに、主人公たちの平凡な社会的なポジショニング(その大半が中学生か高校生という学生)が一時的に括弧に入れられ、何かこの世界の危機・秘密・陰謀に関わるような巨大な出来事へと、ある種の使命の下、駆り立てられる。


 『魔王さま』においてはこのような類型的な作品設定にある程度は従いつつも、そこにおいて大きな出来事と見えたもの(魔王と勇者との闘いに象徴される善と悪との闘い)が、この日常生活の小さな関係性のうちに位置づけ直されてしまう。魔王は、その魔王という地位から行動するよりもむしろ、ファーストフード店のアルバイト店員という地位から行動するほうが、自らのアイデンティティにとって、つまりその存在の意味づけにおいて、極めて重要な価値を持つかのように振る舞う。ここにあるのが第二の方向性であり、それは大状況を経ることによって再び小状況のうちに戻ってくる視点(平凡だが穏やかなこの日常生活の価値を再発見する視点)の方向性である。


 魔王と勇者との闘いという物語自体がすでに旧時代的なものとして類型化され、それが持つ寓話的な意味合いのリアリティが薄れてしまっているという現状もあるだろうが、この作品において試みられているのは、「ここではないどこか」を夢想するまなざしがこの日常生活へと逆転して向けられる、そのような視点の転換である。


 このような日常への視点の転換、日常的な価値の強調という方向性は、ここ最近のサブカルチャー作品によく見出される傾向だと言えるが(とりわけ「日常系」と呼ばれる作品群において顕著である)、『這いよれ!ニャル子さん』のような異世界からやってきた他者たちを描く作品においても、そのような傾向を見出すことができるだろう。


ニャル子さん』におけるクトゥルー神話のモチーフは他者性の水準において極北であると言えるが、そこにおけるまったき他者性(「名状しがたい unspeakable」とか「名づけられない not to be named」というような否定形によって示されるもの)、想像不可能である極めて異質なものが、美少女キャラの装いの下、身近な日常生活のうちへと顕現する、というところがこの作品のギャグになっているところである。把握しがたいもの、捉えどころがないものが、極めて俗なもののうちへと(とりわけオタク的な想像力のうちに)変換される。このような変換行為のうちに狙われているのは、異質な他者性の馴致化、異質なものを身近なものへと想像的に同化させるといったこと以上に、むしろ、すでにここにある身近なもののうちにあるギャップ、身近であるがゆえに死角に置かれてしまっているようなものへの再認識といったものではないだろうか(それは、まさに、今日のオタク的な消費文化そのものの異質性、そうした想像力そのものの不気味さを改めて意識させることに繋がる)。


 同様の意味で、『魔王さま』は、異世界から他者がやってくることによって、この日常を何かしら非日常的なものへと変えるという作品類型に大筋は従いながらも、やはり、この日常のうちに見過ごされていたギャップに焦点を合わせるという視点が存在しているように思う。


 こうした微小な差異、微小なギャップ、(スラヴォイ・ジジェクがしばしば述べるような)「最小限の差異」は、例えば、マンガ『ドラえもん』の実質的な最終回である「さようなら、ドラえもん」のエピソードにおいて、ドラえもんのいなくなった部屋を「がらんとしちゃったよ」という言葉で表現しているときに示される、その空白と同様のものであるだろう。のび太の部屋それ自体は、ドラえもんが来る前も去った後も変化はない。しかし、ドラえもんの去ったあとには、部屋の中の空間部分が、何もないことそれ自体が強く意識されるようになる。ここに暗示されているのは、そこに何かが付け加わることによって初めてその喪失が意識されるような空白である。


 こうした喪失については、『魔王さま』のOPとEDにおいて明確に示されている。そこに描かれているのは、この作品の主要人物の中で唯一異世界の住人ではない佐々木千穂が、魔王を初めとした他の登場人物との間に見出す決定的な差異である。OPでは、魔王を初めとした異世界の住人たちが異世界の風景(魔王城)をバックに立ち並んでいるところに千穂が後ろから走ってやってくると、異世界の風景が現代日本の風景(魔王たちが住むアパート)へと変わる。EDにおいては、ショーウィンドウのうちに魔王たちの服(彼らが現代日本社会で生活しているときに着ている服)を着たマネキンが立ち並んでいるのをガラス越しに千穂が眺めている場面が描かれる。


 いずれにしても、千穂と他の登場人物との間にある差異が強調して描かれているのだが、この差異は、もちろん、彼女が魔王たちと出会う以前は意識することすらなかった差異だろう。これは再会と喪失を同時に示す差異だと言える。EDのショーウィンドウの場面について、次のような連想を働かせることが可能だろう。すなわち、ここで描かれているのは、前世で共に闘った仲間(「ソウルメイト」などとも呼ばれる)との再会といったオカルト話に顕著に示されるような忘却されていた記憶の想起の瞬間であり、また同時に、自分がかけがえのないものをすでに失っていたことに気づく瞬間である。彼女がこれまで日常生活を送っていたときにはその喪失に気づくことはない。しかし、ひとたびショーウィンドウのマネキンを見たときに、そこに決定的な喪失を実感するのであって、この意識が同時にまた、ガラスによって象徴される彼らと自分との隔たりを意識させることになるのである。


 このような再会と喪失というテーマは、まさに、セカイ系と呼ばれる一連の作品の主要なテーマだと言えるが、今日における問題とは、このような再会と喪失というある種すでに類型となってしまっている物語の枠からいかに抜け出し、そこからどのような新しい物語を生み出すことができるのか、といったことにあるだろう。


 例えば、類型的なセカイ系作品と見なすことができるようなアニメをこれまで作ってきた新海誠の最新作『言の葉の庭』はこのような問題系に貫かれた作品だったように思う。言い換えれば、『言の葉の庭』は、ある種のセカイ系批判を行なっていた作品だったように思うのだ。セカイ系からいかに脱却するかという試みについては、すでに前作の『星を追う子ども』においても行なわれていたと言えるが、『言の葉の庭』は、そうした脱却を「失敗したセカイ系」とでも言うべきものを描くことによって試みているように思う。


 『言の葉の庭』は、前半と後半で大きく話を分けることができる作品であるが、その後半が始まるのは、メインの登場人物である男女が、お互いに、その社会的なポジションと名前とを認識し合う瞬間からだと言える。それまで、その前半部において、新宿御苑の東屋で雨の降る午前中のみに会っていた二人は、言ってみれば、セカイ系における再会を果していた「きみとぼく」だったわけであり(二人がそのときに初めて出会ったとしても、そこでの出会いは再会である)、この東屋こそが二人にとっての永遠の約束の場所だったことだろう。しかし、二人の社会的なポジションが明確になり、それによって二人の関係性がはっきりと意識されるようになった後半部においては、そこで再会の経験は喪失してしまったと言える。つまり、その社会的なポジションが明らかになる以前、どこの誰かも分からないという状態だからこそ、ここには何かしら、ロマンティックな遠さの観念が生まれていたのであり、二人の関係が明確になって以後は、たとえ二人が実際に会っているとしても、そこには取り戻すことのできない決定的な喪失が存在する(二人が至上の幸福を実感する場面があるが、こんなふうに幸福を実感する瞬間こそ、その幸福の終わりを暗に意識している瞬間だと言えないだろうか)。その意味では、主人公がその後に経験する失恋は、単にその最初の喪失の反復でしかないことだろう(この点で、二人は約束の場所である東屋のうちでもう二度と出会えないのであり、二人の関係を繋ぐ靴は、その場所に永遠に捨て置かれるしかない)。


 この作品に見出されるセカイ系批判とは次のようなものである。まず第一に、遠さの観念がなくなったところから物語が(別言すれば人生が)始まるということ。第二に、物語(=人生)が開始されるためには、永遠の場所を放棄しなければならない、ということである。『言の葉の庭』それ自体が何かしら新しい物語を提示していたかと言われれば、そこまで十全に物語を展開していたとは言いがたいところがあるが、いずれにしても、そこにおいて強調されていたのは、「きみとぼく」という二者関係からの堕落(楽園からの追放という意味での堕罪)であり、まさに現にある社会的な人間関係のうちから物語を再開するということである。


 『魔王さま』に話を戻してみれば、この作品のメインの話は、OPやEDに示唆されているような遠さの観念はほとんど前面に出されずに、日常における戯れのみが描かれている。もちろん、そこには、類型化されたファンタジーの形式が大きな役割を担っており、言ってみれば、こうした類型を通して、日常における二重化された風景(ファンタジーの風景と現代日本の風景)が描かれていると言える。


 こうした二重化された風景については、『ソードアート・オンライン』(以下『SAO』)においても描かれていたが、この作品においてもまさに、隣の部屋にいる兄妹の関係性の距離感とオンラインゲーム上における二人の関係性の距離感といった形で、そのギャップが示されていたように思う。『SAO』が『言の葉の庭』と異なるのは、兄妹の関係性が明らかになった以後も、オンラインゲーム上での関係性が続くということである。


 『魔王さま』も『SAO』と同じような形で物語が展開していると言えるだろう。つまり、ファーストフード店のアルバイト店員の正体が魔王だと分かってからも、魔王はそのアルバイト店員の価値観の下で行動する。もちろんここには、アイデンティティのレベルにおいて、ズレが存在しているのであり、このズレをどのように考えるのかが大きな問題だと言える。


このズレ、このギャップを、ひとまず、自分自身とのズレと考えることができるだろう。 おそらく、このようなズレはネットの出現によって、より意識しやすいものになったと言えるだろうが、それを単に「ネット/リアル」のような二分法で簡単に分けて考えられるかと言えば、そうとも言えないだろう。一面においては、いまここにいる自分から距離が取れやすくなった時代だとも言えるが、逆から見れば、そんなふうに容易に距離が取れるからこそ、いまここにいる自分の重みがどうしようもなく逃れがたいものに実感されるようになった、とも言える。


 おそらく『魔王さま』に見出される解放感は、このような自己の存在の重みと関係している。例えば、『魔王さま』の物語を『SAO』のようなネットとリアルとの関係性に置き換えて考えてみたらどうだろうか。つまり、魔王とフリーターとの分裂をネットゲーム上の人格とリアルの人格との分裂というふうに考えてみたらどうだろうか。彼がフリーターとしての自己に同一化できているのは、まさに彼が自身の本性を魔王であることのうちに見出しているからである。つまり、彼が単にネットの世界では評判の高いフリーターだったとしても、そんなふうにネットの世界のうちに自己の本性を見出しているからこそ、リアルな自己との同一化が上手くできるようになっているのではないか、などと考えてみることもできる。


 しかし、上記したように、単純にネットとリアルというふうに物事を分けることも難しいだろうし、自分自身との最小限のギャップを意識するのもまた難しいことである。おそらく、多くの人が、『言の葉の庭』で描かれるような堕落(堕罪)として、自己自身との関係を実感しているであろう状況においては、『魔王さま』のように自己との同一化を果たしているのは、一種の諦念のように見えるかも知れない。しかし、『魔王さま』においても、やはりそこには遠さの観念が、つまり、この自己は仮の姿だという観念が残っているように思える。この遠さの観念をどのような水準に位置づけるのかがひとつ問題としてあるだろう。


 ネットの自由さは、『SAO』の最終回が示していたように、いつでもどこでもログインすることができるところにあると言える。失われていたと思っていたものを再び自分たちの上空に出現させることもできる。むしろ、そこに遠さの観念がある限り、約束の場所は決してなくならないことだろう。しかし、そこに立ち現れるのは、休日の晴れた午後の新宿御苑でしかないのかも知れない。だが、重要なのは、この午後の新宿御苑そのもののうちに最小限のギャップを見出すことだ。当たり前のことだが、雨の降る休日午前の新宿御苑そのものが永遠の場所であるわけではない。雨の新宿御苑は、晴れた新宿御苑のうちにすでに存在している最小限のギャップを思い起こさせるための迂回路、遠さの観念だと言える。


 六畳一間のアパートを「魔王城」と呼び、アルバイトに行くための自転車を「デュラハン号」と呼ぶこと。ここにあるギャップはもちろんギャグであるわけだが、六畳一間のアパートに住んでアルバイト先のファーストフード店に行くために自転車に乗るような人が実際にいたとしても(実際にいるだろうし、様々なヴァリエーションの生活を無数に想像することが可能であるが)、そこには何かしら、自己とのギャップが存在しているはずなのだ。いったい自分は自分の住んでいる家や部屋を何と呼び、自分が通勤や通学に使っているものを何と呼んでいるのか。そこに名前がないとすれば、そこにある「名状しがたいもの」こそが日常生活における死角を構成していると言える。このギャップのうちにこそ、自分にとっての生の場があるのだ。