『ぼくらの』と倫理的問題(その2)――生きるとは生きがいを感じるということなのか?

 『ぼくらの』という作品の最も衝撃的なところ、『ぼくらの』という作品が先行する様々な作品から影響を受けて作られているとしても、それまでの作品とは一線を画すようなところとは、いったい、どこだろうか? それは、言うまでもないことかも知れないが、巨大ロボットの操縦者が、そのロボットを一度操縦しただけで死んでしまうというところにあるだろう。


 この設定は、TVでアニメが始まる前に、「動力は命」というふうに、何度も強調されて宣伝されていたので、この作品を語るにあたっては、もはや当たり前となってしまった設定のように思われるかも知れないが、しかし、改めて考えてみると、この設定はやはり衝撃的であり、まさに、その点こそが、倫理的問題の地平を開くと考えられるのである。つまり、この設定は、敵と闘って勝っても死ぬし、負けても死ぬわけだから、個人の生という水準で、その戦闘の意味を(あるいは、その戦闘によって賭けられているものの意味を)、未来に繋ぐことができないわけである。言い換えれば、この設定は、生き残ることがすなわち絶対的な価値になっているようなバトルロワイアル状況に疑問を呈することになっているのである(しかし、後で問題にすることにしたいが、それでもまた、『ぼくらの』も、バトルロワイアル状況における闘いを描いているのである)。


 この設定の重大さは、そのストーリー展開だけからでも、十分に読み取ることができる。つまり、この設定は、小高勝(コダマ)の死まで、意図的に伏せられているわけだが(単行本で言えば2巻の冒頭まで)、作者は、この設定を明らかにすることによって、読者に大きなショックを与えたいという意図を持っているはずである。しかしながら、このような引き延ばしは、単なるショックの増大という意図の他に、先に明示したような倫理的問題の提出という意図も持っていることだろう。つまり、自分が死ぬことを知らないままにロボットを操縦していた二つの物語、それは、まさに、自分の死を考慮に入れないことによって可能となるような物語なわけだが、そうした物語を疑問に付すことがここでは狙われていると言えるのである。その物語とは、和久隆(ワク)の物語とコダマの物語である。


 ワクの物語、これは、旧来のヒーローものの物語、全世界(地球)のために敵と闘うヒーローの物語である。旧来のヒーローものにおける道徳的な価値観は、非常に単純なもので、それは、善と悪との対立に基づいている。しかし、そこでの対立軸を詳細に見ていくと、そこで対立させられているのは、絶対的な悪と絶対的な善ではないだろう。そこで対立させられているのは、絶対的な悪と共通の善である。共通の善とは、誰にとっても良いことということであり、こうした善は、逆説的なことながら、絶対的な悪の存在によって下支えされているのである。


 世界征服というのは、そのような絶対的な悪の存在が掲げる典型的な目的であるが、世界征服という名で行なわれることの実質的な内容は、多くの作品において、非常に希薄であると言えるだろう。いったい、世界征服をすることによって何がしたいのかということが非常に不明確なのである(好意的に考えれば、そこでの悪の存在の目的とは、ある種の帝国主義的な目的、つまり、最も合理的な仕方で財を搾取することにあるだろうが、しばしば、そうした悪の存在は、都市を攻撃することによって産業を破壊するなどして、当初の目的と見えたものとは矛盾した行ないをする)。従って、世界征服が(そして悪の存在が)ヒーローものの物語において持つ機能とは、そうした悪の存在以外の人たちにとって、その悪を排除することが共通の利益となること、まさに、そのような共通の利益(共通の善)を作り出すことそのものにあると言えるだろう。


 いったい、ワクの問題(悩み)とは、どこにあるだろうか? 彼の悩みとは、簡単に言ってしまえば、小さな物語ではなく大きな物語に参与したい、ということであるだろう。ワクは、小学生のころ、サッカーチームに所属していて、県大会にまで出場していた。しかし、中学校に入ってからはそのサッカーをやめてしまう。その理由は、父親との関係にある。ワクの父親も、小学生のときに、サッカーをしていて、全国大会にまで出場している。しかしながら、その父親は、現在、ワクの目から見てみれば、平凡なサラリーマンになってしまっているのである。


 ここで問題となっているのは欲望である。ワクは、明らかに、父親のようにはなりたくないと思っている。父親のような地味な人間にはなりたくない、と。しかし、父親の持っている欲望が自分の持っている欲望と極めて似ているものだとしたら、どうだろうか? つまり、現在の欲望を突き進めていった結果、まさに、自分が好まない父親のような存在になってしまうとすれば、どうだろうか? この問題に突き当たったときに、ワクは、自分の欲望に歯止めをかけてしまうのである。言い換えれば、ワクの抱いていた幻想(夢)にひびが入ってしまったわけである。


 平凡な人間とそうでない人間との対立というテーマは、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』で提出されていた問題でもある。自分にはそこそこの才能があると思っていたとしても(他の人間とは違う特別な人間だと思っていたとしても)、同じように思っている人間が他にも何千人、何万人いるはずだ、という発想が、最初の考えにひびを入れるわけである。小さな物語の中では自分が主人公でも、そうした小さな物語をいくつか並べて比較してみれば、ひとつの物語の価値は相対的に低下することとなる。


 こうした点からすれば、何度か問題にしたことだが、『らき☆すた』における共通感覚の逆説的な効果というものを見出すことができるだろう。つまり、そこでは、共通感覚によって(もちろん、この共通感覚はフィクションであるが)、小さな物語が過度に強調されているために、大きな物語(例えば、個々人の日常生活を取りまとめて全体化するような歴史的過程)の可能性がほとんど遮断されているのである。そして、その結果、あるひとつの小さな物語が大きな物語の代わりをし、そのために、日常生活の多様性、小さな物語の多様性というものが、ほとんど視野に入らないようになっているわけである(『らき☆すた』の世界が可能となるための条件とは何か、ということを少し考えてみるべきだろう。例えば、どのような要素が入り込めば、『らき☆すた』で描かれているような穏やかな日常生活が破壊されるのかということを)。


 話を『ぼくらの』に戻すと、問題となるのは、ワクの「隠されたヒーローになる」という決意である。つまり、旧来のヒーローものの作品のように、地球の存亡を賭けて外敵と闘うという大きな物語に参与するという決意を、ワクは、ロボットを操縦しながら抱くこととなるのである。このとき、ワクは、現在を生きることの充実さを感じるわけだが、ここで注目すべきなのは、地球を守るために敵と闘うという物語が、彼にとって、非常に個人的な水準でしか捉えられていないということである。つまり、そこで問題になっていることは、言ってみれば、個人の生きがいであって、個人のレベルを超えた正義や善といったものを見出すことはできない。言い換えれば、ワクは、それが正しいから敵と闘うのではなく、それが楽しいから(それによって生の充実さが得られるから)敵と闘うのである。


 このような個人的な水準が、この『ぼくらの』という作品をセカイ系たらしめている重要な要因だと考えることができる。つまるところ、典型的なセカイ系作品において問題になっていることも、生の充実さをどこに見出すのかということなのである。あるいは、同じことであるが、そこで探求されているのは、「私」を「私」たらしめているものは何か、ということである。この点において、セカイ系における典型的なカップルである「きみとぼく」は、お互いがお互いの生を意味づけているそのような場所として考えることができるだろう。社会的な場所(所属)が自分のアイデンティティになっているのとは対照的に、セカイ系においては、「きみとぼく」との相互承認が、お互いのアイデンティティを構成しているのである(もちろん、これは、理想的な状態であって、実際には、そうした試みは破綻せざるをえないだろう。その点で、セカイ系作品において、社会的な水準が、どのように潜在的に代理的に機能しているのか、ということを見ていく作業が今後必要になってくるかも知れない)。


 ワクの問題とは、生きがいを感じるために何をするかということ、そのような形で生を意味づけることである。この水準では、サッカーをすることも、野球をすることも、ロボットを操縦して地球を守ることも同じ行為だと言える。しかしながら、そこに質的な違いがあるとすれば、それは、ロボットを操縦して地球を守るということが、非常に特殊な行為であり、そうした特殊な行為が、彼のアイデンティティ(他の誰とも異なる「私」)と密接に繋がることになるということである。その点で、ワクの存在は、それほど「隠され」ているわけではないだろう。というのも、サッカーの試合のように周囲にギャラリーはいなくとも、彼の行為は大きな物語のうちにしっかりと刻み込まれているはずだからである。


 しかしながら、作者は、このようなワクの物語をあっさりと否定する。物語がこれから始まろうとする瞬間に、ワクの物語は終わるのである。そこで提出されているのは、死という限界である。死が、個人の生の充実に、限界を設けるのである。


 ワクの望みは、非常にささやかなものだったと言えるかも知れない。そこで問題になっているのは、生きて何をするのか、ということである。ここでの前提とは、すなわち、生きているということ、これからもしばらくの間は生きているということである。


 この生きていることそれ自体に価値を与えようという思想が、サブカルチャーの領域においても、70年代くらいから非常に顕著になってきたと言える。「平和ボケの日本」とか「危機意識の欠如」とか、そのような挑発的な言葉によってもたらされるのは、生きていることそれ自体の価値の再発見である。さいとう・たかを『サバイバル』、士郎正宗アップルシード』、大友克洋AKIRA』、望月峯太郎ドラゴンヘッド』、奥浩哉GANTZ』といった一連の世紀末的雰囲気の作品において、現在まで、絶えず問題になっているのは、生きることそれ自体の価値の再発見であるだろう(この点から、生の価値づけに役立つことが、死を物語のうちに回収する典型的な方法だと考えることができる。そのことは、死をモチーフにした、いわゆる感動的な物語についても言えることである)。


 サバイバルの価値とは、簡単に言ってしまえば、次のようなものだろう。すなわち、生きるとは生き残ることである、と。この発想がバトルロワイアルの形式に繋がっていくわけであるが、このような同じ系統の作品の中にありながら、他の作品とは一線を画すような問題を真正面から提出しているのが、この『ぼくらの』という作品なわけである。


 ワクの物語を引き継ぐような形で始められたコダマの物語では、ワクがまったく問題にしなかったような死の問題が取り上げられている。しかしながら、それも、もちろん、自分が死ぬということを考慮の外に置くことによって可能となるような物語である。コダマの物語において、バトルロワイアルの形式が最初に提示されていると言えるだろう。そこで問題になっているのは、簡単に言ってしまえば、弱肉強食の価値観である。この点に関して、次回、問題としてみることとしたい。