神なき時代の正義と悪――『機動戦士ガンダム00』の物語に関して

 大した感慨もなく最終回を見ていたのだが、アニメ『機動戦士ガンダム00』について、これまで考えてきたことをざっと書いておきたい。


 まず、この作品のアクチュアリティ(現代性)という点について。この作品は、「ガンダム」という古い物語をいかにして現代という時代に組み込むかということにかなり奮闘した作品だ、ということはひとまず言えるように思う。「ガンダム」というのはどのような作品なのかということを問うた結果が、このような形になったわけで、人類の革新なり何なりというところは、確かに、『ファーストガンダム』のニュータイプ思想というものを想起させて、今回の「ガンダム」も(『ガンダムSEED』などと同じく)、ある種の原点の反復をなそうとしているところがある、というのはよく分かった。


 しかしながら、大きな問題なのは、そのような「ガンダム」の核心とでも言うべきものと、現代の国際的な政治状況を始めとした現代的な問題とを上手く繋げることができたのかどうか、というところである。こうした点で、僕は、端的に、失敗しているのではないかと思った。


 あらゆる紛争に武力で介入する組織というアイディアはなかなか面白い。ソレスタルビーイングのラディカルさというものは、まさに、純粋に理念に基づいて行動しているところにあったように思う。つまり、彼らの存在は純然たる道具であって、究極的な目的を実現するために行動するコマにすぎない。彼らが考えるのは、いかにして個々の具体的な活動を上手く遂行するかということであって、全体的な計画というものにはノータッチである。ソレスタルビーイングのヘッドにあたる部分にいるはずのイオリア・シュヘンベルグはすでに死んでいて、彼の意志を伝えるのはヴェーダという名の巨大コンピュータでしかない。


 だが、このような意志の伝達のあり方は、ソレスタルビーイングの活動の根にある理念が何であるかというところにもまた、疑念を生じさせるものであったと言える。つまり、イオリアが何を考えていたのかということとヴェーダが導き出す計算との間に何らかの齟齬があってもおかしくはないだろうと思うのである(イノベイターの独走、さらには、ソレスタルビーイングの独走というのも最初からイオリアのシナリオにあったのかどうか謎である)。こうしたことから理解されるのは、イオリアの存在こそが、まさに、死んだ神を代理しているのであり、後に残された人々は、いったいこの神がどのような人類のシナリオを描こうとしていたのかということを何とかして読み取ろうとしていたと言える。死んだ神であるイオリアの思想というのは、このように究極的には謎であって、そこで表面的に語られている理想なり目的というものも、果たして文字通りに受け取ってもいいものなのかどうか、その背後には常に別の理想なり目的なりが何かあるのではないか、という可能性が常に潜在するのである。


 こうした点で、ソレスタルビーイングの武力介入というものは、第一シリーズで描かれていたような、三つの勢力の対立や個別の地域紛争とは、まったく別の存在様態を持っていたと言える。というのは、地域紛争というものが、常に、民族なり宗教なり国家なりといった、具体的な属性の名の下に人々が対立関係を築いているのに対して、ソレスタルビーイングというのは、民族も宗教も関係のない、まったく抽象的な存在者だと言えるからである(ソレスタルビーイングには帰える場所がない)。つまり、そこでの武力介入というものは、メタな次元にある超越的な武力介入とでも言えるようなものであり、ガンダムの存在というものも、少年の頃の刹那がそこに見たように、聖性を帯びた存在、天使のような存在なのである。


 だが、イオリアソレスタルビーイングのメンバーたちも、結局のところは人間であり、そうした点では、彼らの立場もひとつの立場にすぎないと言える。ある瞬間にはメタの位置を取れたとしても、そのメタのさらにメタというものを考えることができる以上、ソレスタルビーイングの立場というものは決して特権的なものではない。つまり、ソレスタルビーイングの武力介入にさらに武力介入する別のソレスタルビーイングの存在が出てきてもまったくおかしくはないのであり、第一シリーズに出てきたトリニティ兄妹たちがそのような可能性を示唆していたと言える。


 つまるところ、ソレスタルビーイングは、自分たちの立場を特権化しようにも特権化することができない、そのような矛盾をはらんだ組織であって、そのような矛盾をどのように解消するかというところがこの作品のひとつの課題であったように思う。だが、第一シリーズから第二シリーズにかけての物語の展開を見ていくと、刹那を始めとしたソレスタルビーイングのメンバーたちは、自らの特権性というものを忘れていったのではないかと思うところがある。忘れていったというよりも、イオリアのシナリオによれば、ソレスタルビーイングは、世界の統合のために壊滅しなければならなかったわけだから、大義のために殉死するという、自らの死を彼らは受け入れることができなかったということなのだろう。


 ここでの反転が、僕には、この作品が一歩後退してしまった契機であったように思う。死を避けるという選択がありだとしても、そのような選択とこれまで自分たちがやってきたこととをどのように関連づけるのかというところがあまり上手くいっていないように思えるのだ。このことは、彼らの敵として立ち現われる者たちが、ソレスタルビーイング自身の姿を映し出す鏡になっているところがあるという、そうした側面にまったく気がついていないように思えるところからも理解される。つまり、ソレスタルビーイングの究極的な敵とはソレスタルビーイングそれ自体だったのではないかというところにまで問いが到達していないように思えるのだ。


 アレハンドロ・コーナーにしろ、リボンズ・アルマークにしろ、さらには、アロウズという組織にしろ、彼らがやろうとしていることは、簡単に言ってしまえば、武力を主として用いることで、世界を自分の思い通りにしようとする、というものだろう。それぞれの立場を特権化するその理由づけは異なるにしても、やっていることはみな同じであるように思える。そして、そんなふうにして、自らの立場の特権性を前面に押し出す者たちに対して、刹那たちソレスタルビーイングは立ち向かっていくわけだが、しかし、まさに、ソレスタルビーイングそれ自体が彼らと同じことをやっていたのではなかったか。第一シリーズにおいては、虐げる者と虐げられる者との関係などは無視して、そこに紛争があるのならば、ありとあらゆる紛争を否定するという立場を取っていたソレスタルビーイングが、なぜ、第二シリーズでは、ひとつの立場を代表するにすぎないカタロンに肩入れするのだろうか。


 最終回において、刹那は、「世界平和のための抑止力になる」みたいなことを言っていたが、しかし、このような立場表明は、リボンズのそれと大差ないのではないか。別の言い方をすると、ソレスタルビーイングは、あえて悪をなすというところがあったように思うのだが、そのような悪の立場というものを彼らは次第に忘れていってしまったのではないかと思うのである。


 『ダブルオー』における根本的な問題提起というのは、こういうものだろう。すなわち、神というものがいなくなった現代において、人類を正しい方向に導くためにはどうしたらいいのだろうか、と。ひとつの立場としては、究極的に正しい方向などというものはなく、みんながみんな、それぞれに持っている欲望をそれぞれが可能な限り満たしていけばいいだけだ、というものがあるだろう。こうした立場をニヒリズムと呼ぶことはできるだろうが、まさに、そのような考えが人類を終わりのない紛争に駆り立てているのであり、そうした紛争を止めるためにはどうしたらいいのか、ということがこの作品では問われていたように思える。そうした点では、ソレスタルビーイングの敵とは、アレハンドロ・コーナーリボンズのような指導者ではなく、個々人の欲望であると言えるかも知れない。だが、人間そのものを蔑視するリボンズを否定したというところから考えるのなら、この作品の回答というものは、個々の人間の善なる意志のようなものに賭けるしかない、というものなのだろう。人間はどうしようもない存在かも知れないが、しかし、善なる意志も持っている。現在の段階からさらに進化して、新しい段階に踏み出すことができる(地球の中での紛争をやめて、宇宙に進出する)。ここに見出されるのが「人類の幼年期の終わり」なのだろう。


 人間は分かり合えるというのがこの作品のひとまずの結論なのだろう。そんなふうに結論づけてしまうと、あまりにも単純素朴であるが、最終回までの展開を考えると、もともとは天使のような神々しさを帯びていた存在が、次第にその聖性を失い、最終的には月光仮面ぐらいの素朴な正義の味方に堕してしまった、そのような物語と言えそうである。つまり、人間は、神のような超越者の存在がなくても、自分たちだけで良き未来のために尽力することができる、そのような希望を提示した物語なのだろう。だが、これだと、どうしようもない人間たちのために、あえて悪の立場に就くという最初の設定が何の意味も持たなくなってしまうと言える。いったい、どのようにして、人間は、他者に対する信頼性を獲得することができるのか。第一シリーズではそれなりにラディカルに提示されていたこのような問いが、第二シリーズにおいてはとことんまで問われなくなってしまった。例えば、沙慈とルイスが分かり合えたのは良かったかも知れないが、ルイスはネーナを殺してしまったわけだから、そうした点では、他者とは分かり合えなかったのではないだろうか。こうした、いくつかの点で、突っ込みの甘いところがあるように思うのである。


 『コードギアス』の第二シリーズが偶然にも、悪の立場に就くことで人類の平和を実現しようとする物語だったのだから、『ダブルオー』の第二シリーズも、もう少し、このような悪の立場にこだわってほしかった。武力で人々を支配する存在を否定するのはいいとしても、それならば、悪の場所を占めたソレスタルビーイングが、自らを否定していくことによって、その聖性を剥ぎ取っていくとか、それぐらいの展開があっても良さそうだとは思っていたのだが、残念ながら、落ち着くところに落ち着いてしまった、という感じである。


 現在は、単純な正義の味方よりもダークヒーローについていろいろと考えたほうが実りがある時代ではないかと思うので、そういう点では、タブーを犯したヒーローが出てくる『鋼の錬金術師』の新しいアニメに少しばかり期待したいところである。