近年のアニメ作品における同居と調和のテーマについて――家族的関係がはらむ暴力に関して

 極めて今日的なテーマとして暴力というものがあるだろう。いったいなぜ暴力が問題になるかと言えば、暴力を問題にする観点はいくつもあるだろうが、まずひとつ言えることは、われわれが他者と関わるときに、その他者が極めて暴力的な存在として浮かび上がってくるということがある。その他者自身には、周囲の人間を不快にさせようという悪意を持っていなくても、周囲の人間にとっては、その他者の行なうことが、さらには、その他者の存在自体が、不愉快な侵犯として感じられるということがありうる。結果、この他者を排除しようとするときに暴力が生じることになるだろうが、そこで暴力を行使する者は、往々にして、自分を被害者の場所に位置づけていることだろう。つまり、自分は先に他者から暴力を受けており、そうした暴力に対する正当防衛として暴力を行使するのである、と。


 今日のサブカルチャー作品で同居をテーマとして描いた作品はいくつもあるが、そこで、他者の侵入の不愉快さがあまり際立たせられていないのは少しばかり奇妙なことである。見知らぬ他人同士の同居を描いた作品は、往々にして、こうした共同生活が一種の擬似家族を形成することによって、他者の侵入の不愉快さというよりはむしろ何か快適なもの、居心地の良いもの、安定したものを提示することになる。例えば、古典的な作品を上げれば、『めぞん一刻』がそのような作品であるが、この作品における他者の侵入は、一方で、極めて不愉快なものとして描かれている。受験生である主人公の五代裕作の部屋に、毎夜毎夜、他の部屋の住人たちが宴会を開くためにやってくる。このような私的領域への過度の侵入は不愉快以外の何ものでもないだろう。しかしながら、他方で、このような過度な侵入こそが、言ってみれば、より深い人間関係といったものを築くことに繋がるのである。


 現在放送中のアニメ作品について考えてみれば、『セキレイ』もまた、同居を扱っている作品である。この作品に出てくる出雲荘という下宿屋は、様々な人間が寄り集まる場所、激しい対立や闘争が一時的に停止する場所、一種のアジールになっている。さらに、ある日突然ひとりの女の子が家にやってきて同居し始めるという、いわゆる「押しかけ女房」の物語タイプに注目してみれば、そこで何らかの不愉快さが生じるのは、見知らぬ他人が突然家に住むことになるというその事実によるだけではなく、そうした他人の侵入によって、それまで主人公が送ってきた日常生活が決定的な変更を迫られるということにもよると考えられる。『セキレイ』において、主人公は、受験生という生活様式からセキレイ計画というバトルロワイアル状況へと有無を言わさず移行させられる。バトルロワイアル状況にあってはゆっくりと勉強することなどできはしないだろう。というよりもむしろ、世界観の根本的な変更、自分の人生に対するヴィジョンの根本的な変更を迫られるのである。日常から非日常への暴力的な移行。こうした移行は極めて不愉快なものではないだろうか?(日常から非日常への移行に魅力を感じる人もいるかも知れないが)。


 いわゆるバトルロワイアル作品で問題になっているのは、このような世界観の根本的な変更、人間関係の根本的な変更だろう。映画『バトル・ロワイアル』では、中学生同士が殺し合いをすることになるわけだが、そこには、クラスメートという日常的な関係性から殺人ゲームの競争相手という非日常的な関係性への突然の移行が存在する。こうした暴力的な移行についてよく考えてみるのなら、中学生同士が殺し合いをするという点に暴力性があるというよりはむしろ、そんなふうに突然に関係性が変化するという点にこそ、つまり、法(「BR法」)の施行によって人間関係が強制的に変更させられるという点にこそ、根本的な暴力性があると言わなくてはならない。


 『新世紀エヴァンゲリオン』では、主人公の碇シンジが突然父から呼び出され、ロボットに乗って闘えと命じられる。ここにおける関係性の暴力的な移行とは、父子という親子関係から、上司部下という軍隊内における上下関係への移行である。碇シンジにとって問題だったのは、そんなふうに関係性が移行したとしても、父と子という関係性をきっぱりと切り捨てることができないということである。どこまで行っても、父と子という関係性が付いて回る。そのために、碇シンジは、ロボットに乗って敵と闘うという古典的なヒーローのポジションを最後まで受け入れることができなかったのである。


 これまでの多くのヒーローものの作品では、主人公は、正義の味方というその地位を甘んじて受け入れる(様々な葛藤を抱え込みながらも)。『機動戦士ガンダム』の第1話が典型的であるが、そこには、ロボットに乗って積極的に闘いたいという思いがある(何かを守るために、何かを守るための力を得るために、ロボットに乗る)。『勇者ライディーン』でも『無敵超人ザンボット3』でも、主人公は、突然ロボットに乗らなければならない事態になっても、それを素直に受け入れる。しかし、『エヴァ』だけは、ロボットに乗ることに対する根本的な抵抗があり、父の命令に従うことは碇シンジにとって極めて不愉快なことなのである。


 他者の侵入の不愉快さ、あるいは、人間関係の根本的な変更を強制的に引き受けさせられること、そうした暴力性を、いくつかの作品で、登場人物たちがやすやすと受け入れることができているのは、そこに絶対的な関係性とでも言うべきものが存在するからであろう。つまり、『セキレイ』のような作品が典型的であるように、そこに絶対的なパートナー関係(他のどの人間関係よりも本質的な関係)があるからこそ、主人公は、新しい困難な状況を引き受けることができるのである。そこに関係性の暴力的な移行があったとしても、そこでの移行が相対的なものではなく、偽の関係性から真の関係性への移行だったとすれば、そこで問題となる暴力とは、ただ単に、真実に強制的に直面させられることの暴力だけだと言えるだろう(もちろんこのことに抵抗する人もいるだろうが)。


 旧来のヒーローものの作品では、主人公が突然、世界の存亡を賭けた、善と悪との闘争関係に巻き込まれるわけだが、今日のいくつかの作品では、主人公が突然、何人かの女性キャラクターとの人間関係に巻き込まれることになる。しかしながら、ここでの人間関係は、恋愛関係に限定されるものではなく、擬似家族的な関係性となる場合もある。恋愛関係なのか(擬似)家族的関係なのかということの区別はそれほど判明ではない。『紅』で描かれていた真九郎と紫との関係性は、果たして、家族的関係なのだろうか、それとも、恋愛関係なのだろうか? この問いは、『フタコイ オルタナティブ』に対しても提起することができるが、結局のところ、どちらであってもいいことになるだろう。いずれにしても、ここで問題になっているのは、ある特定の人物との間のより深い情愛関係である。情愛関係が出来事の入口であり出口である。というのは、こうした作品においては、このような情愛関係を超えた制度上の事柄(例えば結婚)が問題になることはないからである。『フタコイ』で「三人でいたい」ということが問題になるが、三人でいるということが何を意味しているのかは判明ではない。この作品が「愛についての物語」であるとしても、そこでの愛が家族愛を指しているのか恋愛を指しているのかは判明ではない。


 もちろん、同居をすることによって、制度上の対立が明確になる、ということはありうるだろう。『紅』が見事に描いていたように、様々な対立やギャップというものは、まさに、制度と制度との間の争いでありうる。真九郎と紫との間で交わされる口論は、この二人の背後にある慣習や決まり事といった法制度上の対立を浮かび上がらせる。


 『鉄腕バーディー DECODE』も、まさに、同居を扱った作品である。しかし、そこでの同居は、ひとつの身体のうちに二つの意識が同居するという形での同居である。ここには、『エヴァ』で描かれていたようなシンクロの問題が提起されている。エヴァパイロットとの関係もそうであるが、シンジとアスカとの関係性においても、そのような問題が提起されていた(第9話「瞬間、心、重ねて」)。このエピソードで問題になっていたのはまさに同居である(文化や性別を越えた調和が問題になっている)。エヴァパイロットとの関係性においては、シンクロ率が高くなると融合という事態が生じる。人類補完計画もまさに融合である。融合という事態は、やはり、ひとつの行き過ぎと考えるべきだろう。同居することやシンクロすることにおいてある種の調和が問題となっているとしても、完全に同じであることが求められているわけではない。ある部分では違いを残したまま、ある部分で同じであることが求められているのである。


 以前にも少し書いたことではあるが*1、融合や同化の問題は、身体性の問題と関わる。この点で、『エヴァンゲリオン』は、優れて身体的な作品だと言えるだろう。思考や感情のレベルよりももっと下位にあるような、生理的・身体的なレベルでの反応が描かれるのである(エヴァパイロットとを結びつける極めて身体的な関係性とは苦痛であるだろう)。


 同居は近さや遠さといった距離の問題を提起すると言うこともできる。『LOVELESS』という作品が描き出していたのは、そのような距離の感覚である。主人公(青柳立夏)の母親は、主人公のすぐ近くにいるにも関わらず、主人公にまったく接近してこない。多くの作品で描かれているような、家族内でのコミュニケーション・ギャップがここにはある。身体的には近くにいても、心理的には遠く離れているのである。同時に主人公の理解者として登場する男性(我妻草灯)は、主人公が望めばいつでもやってくると言うが、彼が必要なときにやってくることはほとんどない。ここでは、逆に、身体レベルでの距離が心理的な近さに追いついていないのである。


 『蒼穹のファフナー』で描かれていた同化の問題は「あなたはそこにいますか?」という本質的かつ現代的な問いと関わっている。この問いを発するのは「フェストゥム」と呼ばれる未知の生命体であるのだが、この問いに確信をもって「イエス」と答えられないと、その人はフェストゥムと同化してしまう。つまり、「私」がここにいるという存在の問題と他の存在との差異性の問題とがここでは密接に関係づけられているのである。この点で、『エヴァ』における人類補完計画の描写は、実に見事だと言わざるをえない。人々がドロドロに溶けた液体になる前に彼らの前に現われるのは、彼らが最も会いたいと思っている人物、彼らが融合したいと思っている人物なのである。


 『七人のナナ』という作品が提示していたリアリティとは、自分自身との同居という設定である。自己が分裂して、自分の中から六人の人格が飛び出してくる。このことから、多重人格の問題を考えてみれば、多重人格とは、自己の中に引かれた分断線の強調であるだろう。この点から、『まほらば』という作品のことを考えてみれば、この作品に同居の問題に関わる二重性があることが分かる。ひとつは『めぞん一刻』的な同居の問題であり、そこでは他者とひとつの空間を共有することが問題になっている。他方で問題になっているのは多重人格であり、自己の内部に融合されえないもの(同一性を確立しえないもの)があるのだ。多くの異質な人間を温かく迎え入れる寛容な人間として描かれる管理人が、逆説的にも、自分自身の中の矛盾(自分の中の異質性)を受け入れることができないのである。


 他者との同居の不愉快さを描いた作品として、『無限のリヴァイアス』ほど徹底したものはないだろう。他者との同居が不愉快であるのは、空間が狭すぎて、どこにも行き場所がないからであろうか? それでは、いったい、どのくらい広い空間があれば、不愉快さを感じないで済むのだろうか? おそらく問題になっているのは、単に空間の大きさではなく、孤独になる可能性がそこでは徹底的に排除されているところにある。『無人惑星サヴァイブ』という作品が逆説的に描いていたように、孤独になることや孤立することは、小さな共同体にとっては、害悪なのである。


 距離を取ることができないという問題、ひとりになることができないという問題。つげ義春のマンガに『リアリズムの宿』というものがあるが、ここで扱われているのも、そのような距離感の問題だろう。つげ義春はここで「リアリズム」という言葉を「生活の臭い」という意味で用いているが、同居においては、まさに、日常生活のレベルでの他者の接近が問題になる。この作品の主人公は、宿のサービスの悪さに不満をもらすわけだが、ここでのサービスの悪さは生活の臭いが充満していることによってもたらされるのである。


 さて、これまでいろいろな作品をざっと見てきたわけだが、つまるところ、他者の接近によってもたらされる不愉快さは、われわれを孤独にさせずに調和させようとする圧力によってもたらされると言えるだろう。この圧力のことを端的に暴力と言うことができる。従って、他者が近くにいることそれ自体が不愉快さの原因なのではなく、他者と一緒にいなければならない圧力が不愉快なのだと言える。家族というのもそうした圧力装置のひとつだろうが、しかし、それは同時に緩和装置でもあるだろう。家族関係は無前提の情愛関係と見なされており、そのため、相互の助け合いが無前提に期待されている。「家族だから」というそのひと言で、様々な前提条件を不問に付す力がそこには働いているのだ。しかしながら、家族関係は決して自然必然的な関係性ではないだろう。だからこそ、関係性の廃絶を求めて、親が子を殺したり、子が親を殺したりすることがありうるのである。現在の社会問題とは、社会的な様々な問題の解決がそうした家族関係の力に過度に期待されているところにあると言える。家族関係が一種の万能機械のように見なされているのである。しかしながら、言うまでもないことだが、家族関係は万能ではない。つまり、人間が同居するにあたっては、別の関係性のことも常に考慮に入れておく必要がある。それでは他にどのような関係性が考えられるのかというのがここ最近の僕の課題であり、ここしばらくの間はこのあたりの問題に従事していきたいと思っている。