日常の脆弱な関係性から非日常の強固な関係性へ――アニメ『セキレイ』について

 現在放送中のアニメ『セキレイ』では、関係性(所属関係)の移行が問題になっている。浪人生である佐橋皆人は、突然、セキレイ計画と呼ばれるバトルロワイアルに巻き込まれることになる。結(むすび)という名のセキレイとの出会いが、彼の日常生活、彼の人生を大きく変える。日常生活に対するこの暴力的な介入こそが、物語の始まりを印づける。佐橋皆人のそれまでの人生はそこで切断され、新しい人生がそこから始まる。言ってみれば、彼は、何も書かれていない白紙の人物として、その生を再出発することになるのである。


 もちろん、あらゆる関係性が白紙になるわけではない。この物語においては、妹との関係が重要な意味を持っている。しかし、家族関係を始めとした多くの社会的関係が、この作品においては、極めて希薄である。佐橋皆人がどのような人物であるのかということは、まったく明らかではない。彼は浪人生であり、受験のために上京して、一人暮らしをしているという、ただそれだけの事実しか明らかにされていない。彼にとっては、妹を除くと、家族関係も友人関係も、存在しないも同然である(母親から仕送りをしてもらっているという形で母親との関係性は暗に存在している。また、父親がいないという設定が今後大きな意味を持ってくるかどうかは分からない)。


 『セキレイ』という作品を見ていても、いったい、佐橋皆人という人物がどのような人生のヴィジョンを持っていたのか(どのような欲望を持っていたのか)ということは定かではない。そこには、ただ、大学受験のために勉強している浪人生という規定しか存在しない。しかし、そのような浪人生という規定がはぎとられて、佐橋皆人は、新しい関係性のうちに組み込まれる。彼は、突然、浪人生という存在規定から、アシカビ(葦牙)という存在規定へと変化したのである。


 いったい、こうも簡単に、自分自身の規定を変えることができるものなのだろうか? こうした点で、佐橋皆人は、決して、何の特徴もない人物、何の取り柄もない人物とは言えない。それまで彼が持っていた関係性を捨て去り、新しい関係性を素直に受け入れることができるだけの寛容さを彼は持っている。彼は、言ってみれば、ある日突然、見ず知らずの女性の世話をしなければならない事態に陥るわけだが、こうした状況を、彼のように、そんなにあっさりと受け入れいることが果たしてできるものなのだろうか? 佐橋皆人には、多少の躊躇はあるかも知れないが、疑念や不信といったものはほとんど存在しない。例えば、彼の脳裏には、自分が騙されているのではないかという疑念が浮かぶことはない。『新世紀エヴァンゲリオン』で碇シンジが示した不信、「なぜ僕がそれをやらなければならないのか」という疑念がそこにはないのである。


 このような寛容さや信頼性といったものが、この作品の潜在的なテーマだと言えるかも知れない。皆人と結が住むことになる出雲荘の存在も、そういったものだろう。つまり、皆人たちは、新しい住居を探すために奔走するのであるが、そこで業者から様々な「保証」を要求されるために、彼らは新たに住む場所を見つけることができない。それに対して、彼らが偶然に入り込んだ出雲荘は、彼らが何者であるかを問うことなく、彼らをあっさりと受け入れる。出雲荘の管理人である浅間美哉は「来る者は拒まず」と言う。そこには、多くのリスクを引き受ける寛容さが見出されるのである。


 しかしながら、この作品では、単に信頼か不信かということを越えて、より強い関係性というものが問われているように思える。アシカビとセキレイとの関係性は、他のどんな関係性よりも強靭なものとして描かれている。アシカビとセキレイとの関係性は必然的である。つまり、彼らは偶然出会ったように描かれるが、しかし実際のところは、そこでの関係性は必然的なのである。このような関係性は、あらゆる社会的な関係性を越え出ていると言えるだろう。言ってみれば、それは家族の関係性をも超え出ている。だからこそ、佐橋皆人は、このように、容易に新しい状況を受け入れることができたと言えるかも知れない。言ってみれば、あらゆる社会的な関係は虚偽のものであり、それを超えたより強い関係性こそが真の関係性なのだ、ということである。これは、言い換えれば、アシカビという自己規定こそが真の自己規定である、ということである。佐橋皆人にとって、浪人生という自己規定は虚偽のものであり、アシカビという自己規定こそが本質的なものなのである。


 だが、ここには、人生に対する単純化といったものもあることだろう。セキレイ計画というバトルロワイアル・ゲームによっては、人生すべてを包摂することはできない。セキレイ計画が終わったあとでも、つまり、物語が終わったあとでも、人生は続くことだろう。ここにひとつの難問があると言える。


 しかしながら、ある関係性を他の関係性よりも上位に置くということはありうることだろう。例えば、『GUNSLINGER GIRL』に見出すことができるのは、そのような関係性の二重化である。この作品では、担当官と少女たちとの関係は、相対化されて描かれている。つまり、少女たちにとって担当官との関係は絶対的なものとして捉えられているが、しかし、担当官や社会福祉公社にとっては、必ずしもそうではない。少女たちにとって、彼女たちひとりひとりに付く担当官は、他の人物とは換え難い存在である。つまり、そこでの関係性は代替不可能なものである。しかしながら、担当官にとって、少女たちは、ひとつの道具、あるいは、消耗品に過ぎず、代替可能な存在である。それゆえ、少女たちは、担当官を絶対視することで、決定的に何かを見ていないと言える。彼女たちが行なう殺人行為について、彼女たちはそのことの意味を問おうとはしない。そこで行なわれるあらゆる行為は、担当官の要求に応えるというその一事に回収されてしまうのである。


 このような関係性の非対称性は『セキレイ』にも見出すことができる。セキレイがそのアシカビに向ける関係性は絶対的なものであるだろう。しかしながら、アシカビは、複数のセキレイと関係することができる。つまり、運命的な関係性が、ここでは奇妙にも、複数化され、分裂しているのである。セキレイにとってアシカビは代替不可能であるが、アシカビにとってセキレイは必ずしもそうではない。運命的な出会いが複数存在するということ。そこには決定的な分裂や矛盾があるにも関わらず、そのことが深刻な問題を引き起こさないということ。この点にこそ、『セキレイ』という作品がもたらしたリアリティがあり、『セキレイ』という作品のオリジナリティがあることだろう。


 もしかしたら、今後、主人公には、誰かを選ばなければならないという選択の問題が生じてくるのかも知れない。しかしながら、絶対的な絆を複数化しているところが、この『セキレイ』という作品の特異な点であることには変わりがないだろう。ここで描かれているのは、文字通りハーレム的な状況、一夫多妻的な状況である。


 しかし、それにしても、アシカビとセキレイとの関係性とはどのような種類の関係性なのだろうか? やはり、これは、一種の主従関係と見なすべきだろう。そして、このような主従関係こそが強い絆をもたらすというのが、今日の多くのサブカルチャー作品で描かれているリアリティだと言える。例えば、アニメの『ポケットモンスター』であるが、ポケモンとトレーナーとの関係は明らかに主従関係であるが、しかし、その関係は、しばしば、一種の友情関係として描かれる。つまり、仲間という意識がそこに生じている。だが、ポケモンとトレーナーとの関係は、決して対等ではないだろう。トレーナーという言葉が示しているように、そこには、訓練するものと訓練されるものとの関係性が存在する。人間と動物との間の決定的な差異が存在するのである。


 いずれにしても、佐橋皆人は、セキレイ計画に巻き込まれることで、確固とした自己規定を手に入れることができたと言えるだろう。彼が二度も受験に失敗した理由も、そのようなはっきりとしない自己の欲望の問題と関わっているのかも知れない。まったく茫漠としていて、断定的に物を言うことができない人生というステージから、彼は、バトルロワイアル・ゲームというルールも目的もはっきりとした狭い世界に逃亡したのである。簡単に言ってしまえば、日常から非日常への逃避がそこにある。だとすれば、問題は、彼が日常に帰るときにこそ生じると言えるだろう。日常からの逃避が一概に悪いとは言えない。一時的な避難というものが必要なときもある。だが、彼は、いったい、どのようにして日常に戻ってくることができるのか? バトルロワイアルを扱っている作品で常に暗に問われているのは、まさにこうした日常と非日常との関係性である。