『人魚姫』の持つ今日のリアリティ――『崖の上のポニョ』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について

 最近、偶然にも、アンデルセンの『人魚姫』を現代風にアレンジした二つの作品を見たり読んだりした。ひとつは、宮崎駿の最新作『崖の上のポニョ』であり、もうひとつは、桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』をマンガ化した作品である(漫画:杉基イラク)。言ってみれば、これらの作品の作者は、『人魚姫』という古典的な作品から現代的なリアリティを読み取ったわけだが、いったい、この『人魚姫』という作品のどこに現代的なリアリティがあるのだろうか?


 アンデルセンの『人魚姫』のストーリーに忠実なのは『砂糖菓子の弾丸』のほうである。この作品では、最後、海野藻屑という名の少女が、その名の通り、海の泡になってしまう。これに対して、『ポニョ』のほうでは、ポニョが泡になることはない(つまり原作の物語の展開とは異なる)。この差異はいったい何を意味しているのだろうか?


 『ポニョ』において、ポニョが海の泡になることはないが、しかし、そのことの可能性は常に潜在している。つまり、この作品の背後には、常に『人魚姫』の物語の潜在していて、作品中、登場人物が『人魚姫』の物語のことを暗に指摘しさえもするわけだが、まさに、そうした意味で、この『ポニョ』という作品が『人魚姫』の物語を反復しないところに、物語の核心があると言える。


 公式サイトで、宮崎駿は『ポニョ』の物語のコンセプトを次のように説明している。「アンデルセンの「人魚姫」を今日の日本に舞台を移し、キリスト教色を払拭して、幼い子供達の愛と冒険を描く」。『人魚姫』から「キリスト教色を払拭」してしまうと、いったい後には何が残るのだろうか? そこに残る物語こそが、まさに『人魚姫』の現代的な物語だと言えるだろう。


 『人魚姫』の世界では、永遠の魂というものが問題になっている。人間の命は短いが、その代わり、人間には永遠の魂がある。それに対して、人魚は300年くらい生きることができるが、死んでしまったあとにはどこにも行くことはできない(海の泡になってしまう)。こうした世界観において、主人公の人魚姫の課題とは、単に愛する王子と結ばれることではなく、その愛の力によって、永遠の魂を獲得すること、つまり、動物の世界から人間の世界へと編入し、さらには、神の世界へと赴くことなのである。


 最終的に人魚姫は泡になってしまうのだが、しかし、永遠の魂を獲得できるかも知れないという可能性を示唆されて物語は終わる(泡になった人魚姫は空気の精になり、空気の精は永遠の魂を獲得できる可能性がある)。つまり、ここには救済の可能性が残っている。だが、こうした救済の可能性、つまり、永遠の魂という死後の生の問題を一掃してしまったとすれば、その後に何が残るだろうか? その後に残るのものとは、まさに、決断と選択という実存的な問題であり、現世において何を成し遂げるかという問題だと言える。


 人魚姫は、言ってみれば、賭けに負けたわけだが、しかし、この賭けに負けた生を自分自身で引き受けたということはできる。つまり、王子の婚約者となった女性を殺すというルサンチマン的な選択をすることなく、彼女は自分の死を受け入れた。そのような実存的な決断を行なったのである。ここにおいて、人魚姫は、現世において王子の愛を獲得することはできなかったかも知れないが、ひとつの倫理的な決断を行なうことによって、倫理的な価値観を提出することはできたと言えるだろう。言ってみれば、人魚姫は、正義の問題を提出したのである。


 さて、こうしたことが、『崖の上のポニョ』という作品についても言えるように思える。つまり、問題になっているのは、ある種の選択や決断であり、そうした選択や決断そのものがひとつの価値を持つのである。


 ポニョと宗介の関係は、一見すると、非常に素朴である。しかし、『人魚姫』の物語を横に置いて考えてみると、ここでの関係は、極めてリスクを負った関係だと言える。つまり、永遠の魂を獲得できるか、それとも海の泡になってしまうかという、全存在を賭けた選択がここにはあるのだ。


 ポニョも宗介も非常に幼い。ポニョも宗介も、果たして、自分の言っていることが何を意味しているのかを理解できているのかどうか分からない。むしろ、彼らは、何も分かっていずに、重大な選択をしてしまっていると言える。例えば、ポニョが宗介に会いに来るということ。この単純な行為が意味していることは、津波を引き越して、地上の世界を海の下に埋没させることなのである。ポニョはそのことを知らないが、それが意味するもの、それが引き起こす結果というものは非常に深刻である。


 そして、さらに、宗介は、ポニョのことを守ってやると約束する。守ってやるだけでなく、ポニョのことを愛すると約束する。しかし、このことの意味も非常に深刻である。ポニョというのは、言ってみれば、自然の力そのものであり、全世界そのものでもある。ポニョが何を思うかによって、世界の運命が決まってくる、そのような存在である。この点で、宗介が愛さなければならないというポニョの真の姿とは非常に謎めいたものである。それは魚か人間かというレベルのものではないだろう。それは、生命の力、自然の力そのものとでも言えるものであり、何かを生み出す力であると同時に何かを破壊する力でもある(この自然の力は『もののけ姫』ではシシ神という形で描かれていた)。例えば、癌細胞とかHIVなども生命の力だろうし、老いもまた生命の力であるだろう。病気が治ることも自然の力であるが、病気になることも自然の力である。こうした二面性を持ったものをどれだけ肯定できるのか。そうした課題を宗介は背負ってしまったわけである。従って、この作品の中だけでは、彼らの行なった選択がどのような結果をもたらすのかということは描かれていない。それは未来の話であり、その未来には、『人魚姫』のバッドエンドの可能性が常に潜在しているのである。


 『砂糖菓子の弾丸』については何が言えるだろうか? この作品において『人魚姫』が果たしている役割とは、言ってみれば、現代のリアリティをもたらすこと、人魚という存在をメタファーとして用いることによって現代の生にリアリティをもたらすことである。ここには、人間と人魚との間の分裂、二つの世界の分裂がある。人間の世界にやってきた人魚、その存在は不完全なものである。アンデルセンの童話において、人魚姫は、数多くの不利な条件を負って人間の世界にやってくる。彼女は喋ることもできないし、歩くたびに苦痛を感じなければならない。『砂糖菓子』において、このような人魚の生は、現代人における孤独な生、誰かと繋がることのできない孤独な生として描かれている。登場人物の海野藻屑は、彼女に関わる人たちに様々な誤解を生み出す存在である。彼女の話している言葉は空虚な絵空事にしか聞こえない。そこにはリアルな生活に基盤を与えるような「実弾」は存在せず、「砂糖菓子の弾丸」しかない。だが、この「砂糖菓子の弾丸」が意味しているものは、根源的なコミュニケーション・ギャップであり、コミュニケーション・ギャップがそこにあるからこそ、そこで話される言葉は実質を欠いた言葉として聞かれるのである。


 『ポニョ』と『砂糖菓子』の両方の作品に特徴的な点は、作品の中心的な視点が、人魚姫のほうにではなく、人魚姫を受け入れる人間の側に置かれているところである。原作の『人魚姫』では視点は人魚姫のほうに置かれている。従って、人魚姫の考えていることと人間たちが人魚姫をどのように扱うのかということとの間のギャップが明確になる。それに対して、『ポニョ』も『砂糖菓子』も、人魚姫が何を考えているのかは明確ではない。『砂糖菓子』のほうでは、明らかにそこにひとつのミステリーがあり、海野藻屑の言っていることを信じるかどうかということがひとつの問題になる。『ポニョ』のほうでも信じるということが問題になっていると言えるだろう。なぜ宗介はポニョが人間になってやってきたとき、それが魚のポニョだと分かったのだろうか? 彼女が自分のことをポニョだと名乗ったからと言って、それを信じることができるだろうか? 宗介は素直にそれを信じたわけだが、まさにそうした点にこそ、信じることの問題が見出せる。


 ここに愛の問題があると言えるが、ここでの愛とは飛躍することである。不合理さや不可解さがあったとしても、それを乗り越えることである。ここに賭けの問題がある。現代における賭けの問題とは、まさに、このような形で、いかにして異質なものを受け入れるかというところにあるだろう。あらゆるものに対して安全や安心といったものが求められる時代にあって、見知らぬものや異質なものは、すぐさま排除・隔絶の対象となることだろう。そうした異質なものを受け入れるためには、ある種の不合理さ、飛躍が必要になってくる。『ポニョ』においては、そのような信頼によってもたらされる飛躍が、5才の男の子の素直さによって成し遂げられるわけである。つまり、ここでの賭けとは、5才の男の子に世界の運命を委ねるということである。この選択の意味は重い。つまり、すでに成人してしまった大人たちだけでなく、大人の考えを持った子供たちをも賭けの対象からは除外するという(彼らには飛躍を成し遂げることはできないだろうという)、一種の絶望がそこにはあるのだ。5才の男の子なら素直に何かを信じることができるだろう。ここに表現されているのは、宮崎駿の抱いた一抹の希望であり、かつ、根源的な絶望である。


 『砂糖菓子』のほうで、信じることの主体となっているのは、中学生の女の子(主人公の山田なぎさ)であるが、彼女は、結局のところ、人魚姫の声なき声を聞き届けるには、非常に遅すぎたと言えるだろう。彼女が何かを理解したときには、人魚姫はすでに海の泡になってしまっていた。ここには、根源的な断絶があり、この断絶が現代のリアリティをもたらしている。われわれは、何かの声を聞かないことによって、何かを見殺しにしている可能性がある、ということである。


 アンデルセンの『人魚姫』の物語の興味深い点は、人魚姫に関わった人間たちの誰もが、彼女が元人魚であるということを最後まで知ることはなかった、ということである。つまり、周囲の人間たちには、彼女が日々感じている激しい苦痛に気がつくことができないのである。人魚姫は自分が苦痛を感じていることを表明するための声を奪われている。こうしたコミュニケーションの断絶を『砂糖菓子』という作品は非常に上手く描いていると言える。『砂糖菓子』の人魚である海野藻屑は、ちゃんと声を持っているが、しかし、彼女の言っていることを理解することはできない。「自分は人魚だ」というふうに言う彼女の言葉の真意を捉えることができないのである。ここに、単なる音声によって表わすことのできない声の問題が生じてくる。


 声なき声は、そこに声がないのだから、それを聞き届けることは不可能だと言っていい。声なき声を聞くためには、普通に声を聞くような形で耳をすませるのではなく、声を聞くというのとはまったく別の考え方をする必要があるのだ。


 『人魚姫』の今日的なリアリティとは、その断絶の表現にある。人魚と人間との間に引かれた決定的な切断線。それを乗り越えようとする人魚姫の試みは狂的であると言える。そこでの切断線をひとたび乗り越えてしまえば、そこには断絶がなくなるかと言えばそんなことはなく、断絶の痕跡は常に残っている。むしろ、そこでの断絶の痕跡を認めないことが、根本的なコミュニケーション・ギャップを生み出すことになるのだ。同一性か差異かという二者択一が問題なのではない。同一性を根底から支えている差異が問題なのである。


 『砂糖菓子』では愛することの意味が問題になっている。海野藻屑は「死んじゃえ」という言葉が愛情表現だと言う。彼女は父親から虐待を受けているが、彼女はそこに父親の愛情表現を読み取る。「好きって絶望だよね」という逆説がそこにはある。ここには、まったく出口のない袋小路がある。彼女たちはこうした現状から逃げようとしても元の場所に帰ってきてしまう。『人魚姫』の物語にはそうした出口のなさがある。アンデルセンはそうした出口のなさに宗教的な救済をもたらしたと言えるが、死後の生というものを問題にしないとすれば、いったい出口はどこにあるのだろうか?


 宮崎駿がもたらした出口とは未来にあるだろう。これは、希望というよりも、むしろ絶望である。なぜなら、現在においてはやはり出口なしということだからである。『ポニョ』は非常に明るいアニメなので、ただこれを普通に見ていても、そこに潜在的に漂っている絶望感を察知することは難しい。子供たちにとっては、街が海の下に沈むということは、確かに、楽しい出来事なのかも知れない。人間をやめた存在であるフジモトにとっては、多くの出来事が破滅的に見えるだろう。彼は人間をやめたが、やはりひとりの人間、人間に絶望している人間である。それに対して、海そのものであるグランマンマーレの考えは広大である。彼女は生命の源が泡であったと語る。つまり、海の泡になってしまった存在も、そこから再び新しい生命が生まれるための源となることだろう。ここに、キリスト教とは別の形での死後の生の問題が提示されており、そこにおいては、人間的なものは超越されている。言い換えれば、そこでの観点とは、人類が滅亡したとしても大したことではない、というものである。


 しかし、われわれは、人間的なものを離れることはできないだろう。人間に絶望したとしても、われわれは依然として人間のままである。この点で、『ポニョ』の出口は『伝説巨神イデオン』の出口に似ている。『イデオン』では、人類を超越した新しい生命の可能性が提示されている。そこでは、単に人類と別の種族との間に出来た子供が問題になっているのではなく、新しい段階でもたらされる何か別のものの可能性が示唆されているのである。加えて、『ポニョ』には、『交響詩篇エウレカセブン』で提示されていた問題も見出せる。人間と別の生物との間のコミュニケーションの問題である。この点は、まさに、現在の人類が抱えている問題であると言える。言ってみれば、人間は地球全体とコミュニケーションを取る必要があるのだ。


 しかしながら、そこでもやはり、断絶を強調すべきだろう。人類も宇宙船地球号の乗組員のひとりだということを強調するのではなく、人類は地球号に巣食っている癌細胞、ある種のエイリアンのようなものだと考えるべきかも知れない。同質性を強調することは、異質性を排除することに繋がる。従って、根源的なコミュニケーション・ギャップから常に出発するべきなのだ。

 お姫さまたちは、どんな人間よりも、美しい、きれいな声をもっていました。あらしがおこって、船が沈みそうになると、その船の前をおよぎながら、それはそれはきれいな声で、海の底がどんなに美しいかをうたいました。そして、船の人たちに、海の底へしずんでいくのをこわがらないでください、とたのむのでした。けれども、船の人たちには、お姫さまたちのうたう言葉がわかりません。あらしの音だろうぐらいに思いました。それから、その人たちは、美しい海の底を見ることができません。それもそのはず、船が沈めば、人間はおぼれて、死んでしまうのです。そうしてはじめて、人魚の王さまのお城に行くのですからね。
(『人魚の姫』、矢崎源九郎訳、新潮文庫、1989年、209頁)

 ここにあるのは紛れもない善意であるが、船が沈みそうになるときに歌声を上げ、人間を海の底に引きずりこもうとしている存在に対しては、やはり、悪意しか感じられないことだろう。つまるところ、こうした悪意こそが、考えの出発点に置かれるべきものなのである。