『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その4)――自明性の回復というオタク的な努力、見た目と語りとの間のギャップ

 共通前提の崩壊の問題と不快な他者の侵入の問題との間には密接な関係があるように思える*1。つまり、他者が、たとえ善意からだとしても、何か介入的な行為をしたときに、そうした行為をひとつの越権行為、自分を害するために行なわれた攻撃的な行為と見なす、ということがありうるだろう。例えば、『らき☆すた』の第1話で、チョココロネの食べ方に対して、みゆきがこなたに行なったような介入は、場合によっては、不快な他者の侵入として感じられることだろう(「うざい」などという言葉が示しているのは、まさに、このような他者の不快な侵入のことだろう)。


 ここにおいて、つまりは、許されている行為と許されていない行為との区別があるわけだ。しかしながら、その境界線がまったくはっきりしないということ、そうした境界線が常に流動的であるということをこれまで述べてきたわけである。


 不快な他者の侵入の最もよい例は喫煙である。喫煙についてしばしば語られる言説の構造に着目してみれば、この他者の存在をより明確化することができるだろう。すなわち、喫煙にあたって問題なのは、主流煙よりも副流煙のほうが有害だ、ということである。つまり、煙草を吸う人の楽しみというものは、煙草を吸う人が支払うリスクだけによって構成されているのではなく、煙草を吸わない人の支払うかなり多くのリスクによっても構成されている、ということである。彼の楽しみは私にとっての害悪である。私の楽しみが奪われることが他者にとっての利益となる。


 それゆえ、おそらく、十数年前くらいから顕著になってきた、分煙化の推進における真の目的とは、懸念される様々な実害(健康被害や、路上喫煙によってもたらされるとされる火傷や火災)の防止にあるのではなく、不快な他者の侵入によって引き起こされる様々なトラブルの回避というところにあるだろう。このような方向に社会が進むとすれば(つまり他者との接触を極力回避するという方向に社会が進むとすれば)、われわれの関係性はますます分断されたものになるだろう。


 ここ数年、様々な分野で行なわれる議論において、しばしば見受けられる対立軸というのは、次のようなものであるだろう。すなわち、合理的で開かれた社会は、誰にとってもアクセス可能で、自由で便利な社会であるが、そのような社会からは決定的に抜け落ちるものがある。様々な自明性が失われるというのがそれである。合理性やアクセシビリティを重んじるか、それとも、地域共同体などの伝統的な生活世界を重んじるか。ひとまず、こうしたところに大きな対立軸があると言えるだろう。


 これまで、この『らき☆すた』論では、オタクについて問題にしてきたわけだが、それは、オタクと呼ばれる人たちのことを、前者の立場よりも後者の立場のほうを重んじる人たちであると考えてきたからである。オタクとはナショナリストであるということがしばしば言われる。例えば、東浩紀は『動物化するポストモダン』の中で、アニメ『機動戦艦ナデシコ』を取り上げて、次のように述べている。

この作品では、七〇年代のロボットアニメやヒーローアニメが抱えていた右翼的な精神性と同時に、また、そのようなアニメを介してしか生きる目的を学べなかったオタクたちのあり方が、ともに戯画的に抉り出されている。
講談社現代新書、2001年、18-19頁)

 ここで東はナショナリストという言葉は使っていないが、オタクと「日本的なイメージ」との密接な関係を強調している。いったい何が日本的なものなのかという問題は常に残るとは言え、「日本」や「日本人」という言葉は、ある種の自明性を指し示す言葉として機能することになるだろう。


 日本的なものの内実の曖昧さについては、東浩紀も問題にしていることであって、オタク系文化の源流がアメリカにあることを指摘している(同書の20頁)。こうしたことは、また、大塚英志もしばしば指摘していることである(例えば『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』)。


 しかしながら、問題になっているのは、内実ではなく形式のほうにあるということが言えるかも知れない。つまり、何が日本的なものかということをはっきりさせることが問題なのではなく、何かを日本的なものだと名指す(あるいは何かを非日本的なものと名指す)振る舞いそれ自体が問題だ、ということである。つまるところ、問題になっているのは、どのように線引きをするのかということであり、まさに、何かを非日本的なものというふうに特定することによって、遡及的に、日本的なものが構築されることになるだろう(例えば、韓国や中国のアニメを日本のアニメのパクリだというふうに過度に告発することによって、日本のアニメのオリジナリティが遡及的に構築されることだろう)。こうした線引きの問題は、オタクと非オタクとの間に引かれる境界線の問題と同種のものである。


 こうした点から、オタク的な努力とは、失われつつある内実(自明性)を何とかして構築(仮構)しようとする努力であると言えるかも知れない。例えば、聖地巡礼というオタク的な行為は、それが土地というものと密接な関係を持っているという点で、一種の伝統への回帰であると言える。『らき☆すた』信者にとっての巡礼地である鷲宮神社について言えば、まさに、そこで再発見が行なわれているのは、土地の固有性である。合理性やアクセシビリティを重んじるのであれば、どこの神社においても同種のサービスが受けられるという点こそが重要になってくることだろう。しかしながら、まさに、聖地巡礼という行為においては、方向性が逆になっており、そこでしか得られない何かというものが問題になっているのである。


 主知主義主意主義という対立項があるが、オタク的な振る舞いとは、どちらかと言えば、主意主義的であるだろう。つまり、そこでは、何か不合理なものを重んじる傾向があるのであり、例えば、運命のような、関係の絶対性を重んじる傾向があるのだ。セカイ系作品をオタク的と呼べるかどうかは問題であるが、少なくとも、セカイ系作品で問題になっているのは、まさに、そのような関係の絶対性であるだろう。そこでは、「きみとぼく」との唯一の関係だけが、代替不可能な絶対的なものになっていて、なぜこの関係でなければならないのかという問いが入る余地はないと言えるのである。


 土地というものは、まさに、そのような関係の絶対性を指し示すものである。なぜ私が日本に生まれたのか、なぜ私は日本のこの土地に生まれたのか。そんなふうに問うこともできるかも知れないが、問いをそこまで突き詰めることなく、この偶然の運命に、あらゆるものの根拠を見出す態度こそ、ナショナリズムであると言えるだろう。


 問題を整理する基準のひとつは、代替可能性と代替不可能性である。そして、そこには、自己の存在の問題、アイデンティティの問題が付着している。以前に『GUNSLINGER GIRL』を取り上げたときに問題にしたことであるが*2、この作品に登場する少女たちが、ぞっとするような殺人行為を冷淡に行なうことができるのは、ひとりひとりの少女に付いている担当官との間に絶対的な関係性が構築されているからである。担当官との関係は代替不可能なものであり、そうした土台の上に彼女たちの強靭であると同時に壊れやすい身体が支えられているのである。


 しかしながら、このようなベタな関係性とオタク的なアイロニカルな振る舞いとがどのように関係づけられるのかは問題である。例えば、オタク的な事柄に関して、かがみから鋭いツッコミを受けたこなたが、そのツッコミに対してマジギレする、などという場面を想像することができるだろうか? そうした点で、アニメ『らき☆すた』の第15話における、「涼宮ハルヒの激奏」のライヴシーンが特別な重みを持ってくるのである。つまり、そこで描かれるのは、ライヴに圧倒され、無口になるこなたの姿であるわけだが、こうした瞬間こそ、非常にベタなものが回帰してくる瞬間だと言える。アイロニカルな態度が作り出していたはずの距離が、こうした瞬間に、まったくなくなってしまうのである。


 さて、こうした観点から、近年のアニメ作品における語りの問題について議論を展開していきたいと思っているのだが、長くなりそうなので、詳しくは次回に回したい。ひとまず、導入として、『みなみけ』について少し語ってみたい。


 『みなみけ』は、『魁!!クロマティ高校』や『ギャグマンガ日和』のいくつかのエピソードと同様、登場人物の置かれている役割やポジションとその語りとの間のギャップによって、ストーリーを展開させていく作品だと言えるだろう。『ギャグマンガ日和』では、著名な歴史的人物を何人か取り上げ、彼らに漫才のようなことをさせるわけだが、同様に、『みなみけ』では、南家三姉妹のうち、次女夏奈と三女千秋に独特の語り方をさせている。このギャップは絵柄のギャップとしても示される。つまり、ときおり挿入される劇画調の絵柄は、彼女たちの話し方に相応しい絵柄として提示されているのである。ネットでよく見かける言葉に「中の人」というものがあるが、まさに、夏奈と千秋においては、彼女たちの見た目とその中の人とのギャップが問題となる。彼女たちが作品の中で置かれているポジション(見た目)と彼女たちの発話が生み出されるポジションとの間にギャップがあるのだ。


 こうした二層構造(ギャップ)は、例えば、『クロマティ高校』のメカ沢、あるいは、『みなみけ』のマコちゃんにおいても問題になっている。メカ沢においては、ロボットという見た目と不良高校生としての発話との間にギャップがあり、マコちゃんにおいては、男性の身体と女性的な発話との間にギャップがある(あるいは、女装キャラというところにアクセントを置けば、女性的な見た目と男性的な語りとの間にギャップがある、と言ったほうがいいかも知れない)。いずれにせよ、このようなギャップが、様々な誤解や齟齬を生み、ストーリーを展開させていると言えるだろう。


 こうした構造にメタレベルの問題を組み入れるためには、そこに、読者や視聴者の視点を関わらせる必要がある。作品内に多様な視点を配置することによってギャップを生み出している作品もあるだろうが、ある種の知識や文脈を前提にして、作品外の視点に対して、ギャップを作り出している作品というものも存在することだろう。『らき☆すた』の個々のエピソードにおける反復性(すでにどこかで語られたということ)がそうした外部の視点を考慮しているように思えるのである(そして、このことは、作品内における「らっきー☆ちゃんねる」というメタレベルの存在によって強調されている)。


 『クロマティ高校』で、メカ沢がロボットであることを周囲の誰もがツッコまないことに対して、登場人物の神山と林田とが違和感を持つというエピソードがあるが、このとき、神山と林田とは、ある種、視聴者の視点を先取りしていると言えるだろう。同様に、『らき☆すた』の第5話で、ネットゲームの用語の理解しがたさを「らっきー☆ちゃんねる」で問題にするという場面があったが、このことは、本編ですでに、かがみがこなたに対してツッコミを入れているということを考慮に入れれば、極めて複雑な所作であると言えるだろう。つまり、作品内にすでに反復の構造が見られるわけである。


 深夜アニメであるはずの『らき☆すた』が深夜アニメについて問題にしたり、ドラマCDとの差異を問題としたりするといった自己言及的な構造もそこにはある。こうした構造とその効果とをより明確にするためには、近年の同種のアニメとの比較検討が必要だろう。そうした点で、これから『絶望先生』や『ギャグマンガ日和』について問題にしていきたいと思っているわけである(次回に続く)。

*1:不快な他者の侵入については次のエントリを参照のこと。「部分的な悪としての不快な他者の侵入――実存の問題をどこで決着させるのか?」http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20070120#1169286044

*2:「世界−社会=「私」」http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20050820#1124554581