『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その3)――過剰流動性にさらされたオタク的文脈

 前回提起した問題、つまり、アニメ『らき☆すた』第1話の食べ物に関するエピソードについての問題とは、簡単にまとめると、こういうことである。すなわち、われわれは、ある時には、何かについての価値判断の多様性を認める。あるものに対する評価について、そこでの評価が多様になったり、相反したものになったとしても、そうした違いを相互に認め合うことができる。しかしながら、別の場面においては、何らかの「正しさ」が争われ、あることに対してどう判断するのかということを巡って、例えば、正常/異常、常識/非常識という区別がなされる。


 前回は、こうした議論を、「KY」という流行語と関わらせながら、展開していったわけだが、ここでのポイントとは、共通前提の崩壊という仮定にある。意見の相違や価値観の多様性などというものは、一般的に考えれば、極めて当たり前のことであって、ことさらに問題にすべきことではないだろう。しかしながら、共通前提の崩壊ということを考慮に入れれば、そうした価値観の多様性に関しても、少し違ったふうに問題化することができるように思えるのだ。


 問題を整理すれば、こういうことである。すなわち、お互いの多様な価値観を認め合うという振る舞いは、ある特定の枠内だけでそれが行なわれているということ、そうした枠組の境界線をひとたび越えてしまえば、多様な価値観などというものは認められなくなってしまう、ということである。


 空気を読む/読めないという問題は、つまるところ、そのような境界線を見定めているか否かという問題であると言える。許されている範囲内であれば、その範囲内での多様性は認められるが、その外に出てしまうと、多様性は認められない。つまり、価値観を一律なものにする境界線や基準がどこかに存在するのであるが、「空気」という言葉が使われているように、そうした境界線や基準は決して自明なものではなく、どこかにはっきりと規則として書かれているわけではない、ということである。


 こうした話もまた極めて一般的なものと思われるかも知れないし、そもそも、なぜ、このような話と『らき☆すた』とが関わるのかということを疑問に思う人がいるかも知れない。なぜ、『らき☆すた』という作品が問題になるかと言えば、まさに、この作品が、共通感覚というものをことさらに強調している作品だと言えるからである。2ちゃんねるなどで使われる言葉に「あるあ…ねーよ」というものがあるが、「あるある」にせよ「ねーよ」にせよ、そんなふうに発話することによって判断の対象になっているのは、まさに、共通感覚であるだろう。共通感覚というものがあまりにも自明であるとすれば、そうした共通感覚をあえて確認し合うなどということはないだろう(極端な話、それが共通感覚であると意識されることすらないだろう)。つまり、共通感覚をあえて確認するということは、その背後に、共通感覚の自明性が失われてきたという事態があると考えられるのである。


 『らき☆すた』は、まさに、「あるある」と「ねーよ」を問題にしている作品だと言える。ということは、この作品は、極めて外部依存的な作品だと言えるが、そのことは、言い換えれば、この作品がある種のメタレベルを問題にしている作品だということである。


 「お約束」という言葉があるが、何かが「お約束」として感じられるということは、すでに、そこに、一定の距離が、ひとつのメタレベルの視点が、確保されているということである。何かが最も自明である状態とは、何かをベタに信じている状態であるだろう。そうした状態が相対化されて、メタな視点が導入されると、自明性は失われる。「お約束」の外というものに意識が向けられるわけである。


 『らき☆すた』という作品は、それに先行する何かに対する距離を問題にしている作品である。『らき☆すた』で語られていることは、すでに誰かがどこかで語った何かであり、誰かがどこかで語ったどころか、誰かがどこかで語ったということを多くの人が知っているはずだという前提の下で作られた作品である。従って、この作品の内容に注目して、そこで語られていることを非常につまらないと思う人が出てきても、何の不思議もない(そのような感想をネットで見かけたことがあるが)。というのは、そこで語られていることが、一部の人にとっては、あまりにも自明で当たり前のことだからである。従って、『らき☆すた』という作品の多くのエピソードには、第一次的な情報の新しさなどというものはほとんどない。そこに見出されるのは、徹底された反復である。この作品を楽しむためには、このような反復を楽しむためのスキル(これはやはり高度なスキルと言えるだろう)が身についていないといけないのであり、そうしたスキルにこそメタな視点を見出すことができるのである。


 問題になっているのは、まさに、距離を取るという振る舞いであるが、こうした振る舞いは、ネットの様々な活動に見出すことができる。それは、例えば、ニコニコ動画はてなブックマークに見られるような、コメントをつけたりタグをつけたりするといった行為である。コメントをつけたりタグをつけたりするということは、単に何かを対象化して整理・分類するというだけの行為ではない。2ちゃんねるの書きこみにも見られることだが、距離を取るという行為にも、規則や文脈といったものが明確に存在するのであり(ある状況や場面においてはこういうふうに振る舞うべきだという適切さが求められる)、そこでは、対象に対してベタに判断を下すということが問題になっている以上に、パフォーマンスのレベルにおいて、対象に対してどのように距離を取るべきかということが問題になっているのである。


 つまるところ、僕が『らき☆すた』に関して言いたいのは、このような対象化のレベル、距離の取り方そのもののレベルが、作品の中で、まさに問題になっている、ということである。


 北田暁大の『嗤う日本の「ナショナリズム」』は、まさに、そのような距離の取り方を「アイロニー」という言葉によって分析した本であると言える。例えば、北田は、2ちゃんねる内でのコミュニケーションについて、次のようなことを述べている。

 「うそをうそであると見抜ける人でないと難しいですよ」とは、2ちゃんねる管理者西村博之の言葉だが、この言葉ほど2ちゃんねるの「本質」に迫った言葉も珍しい。世界の出来事を断片化し、その断片を編集・加工することによって、自らがコミットするコミュニケーション空間の素材=ネタにする。「ネタ」を「ベタ」と読み間違えて「ベタ」な反応をすること(パロディをパクリとして非難したり、冗談に本気になって怒りを表明すること)こそが、純粋テレビや2ちゃんねるにおいてもっとも忌避されるべき振舞いである。それは、不可視であるべき《内輪空間》の境界線を明示させる無作法な振舞いにほかならない。「メタ」を競い合うアイロニー・ゲームは、「ポスト八〇年代」のコミュニケーション空間のなかで、より磐石に実定化されたということができるだろう。
NHKブックス、2005年、217頁)

 問題は、ベタとネタ(メタ)との境界線が自明ではないことである。従って、そこには、「「メタ」を競い合うアイロニー・ゲーム」の生じる余地が出てくるのだろう(どこに境界線を引くかという問題)。一時的には、どのように振る舞ったらいいのかということを明示する「お約束」が固定化するかも知れない。しかし、それも一時的な固定化であって、いつまでも古い規則にしがみついていると、「空気の読めないやつ」というレッテルを貼られてしまうことになるだろう。


 最近、岡田斗司夫が「オタクの死」を宣告する著作を発表したようだが、僕は読んでいないのではっきりしたことは言えないが、そこで問題になっていることも、ここでの議論に絡ませて言ってみれば、共通前提の崩壊なのだろう。つまり、オタクと呼ばれる人たちが今まで築いてきたある種の語り方、対象に対する距離の取り方といったものが、過剰な流動性にさらされたために、その自明性をほとんど失ってしまったということなのだろう。別段、アニメやマンガの知識をたくさん持っているからと言って、その人がそれだけで「オタク」と呼ばれるわけではないだろう。オタクというのは、ある種の語り方、暗黙の規則を身につけている人たちだったと言える。こうした暗黙の規則との関わりで、前島賢はオタクについて次のように述べている。

 岡田が『オタク学入門』で提示した「オタク」――すなわち「粋の目」「匠の目」「通の目」の三眼によって、アニメを一目見ただけでそれの属するオタク的文脈から、関わっているスタッフの名前、そして業界裏事情までを一瞬にして見抜き、膨大なオタク知識を溜め込み、生活のすべてを犠牲にしてでもアニメを視聴し、あまった時間でゲームとマンガにも気を配る(第一世代にとっては、なによりもアニメこそがオタクにとっての主流であった)超人――になるのは、容易なことではなかった。というか、オタクの歴史を独学で身につけるなど、絶対無理。「オタクの記憶」を連綿と受け継いでいる大学や都内有名進学校の伝統あるアニメ研やSF研などに入ることができれば、それをケツの穴に、もとい身体に叩き込まれることができたかもしれないが、茨城出身で年長のオタク世代の知り合いなどいなかった筆者は、ふとしたことから話す機会を得た第一世代オタクの「そんなこといったって、君、「DAICON 4」のオープニングも見ていないんでしょう?」のひと言で沈黙するしかなかった。winnyもない当時に、どうやって、「DAICON 4」のオープニングアニメを手に入れられるというのか。ましてや、「あの時代の熱気は、やっぱり生で体験してないとね」などと言われた日には。
(「僕をオタクにしてくれなかった岡田斗司夫へ」、『ユリイカ』2005年8月臨時増刊号「総特集オタクvsサブカル!」、青土社、188-189頁)

 ここで前島がそれになることを断念せざるをえなかった「オタク」が、単に、様々なオタクの中のひとつのグループや潮流というものに相対化される事態こそ、「オタクの死」に他ならないだろう。オタク的な振る舞いにとって重要なのは決して知識の量ではない。「DAICON 4」のオープニングアニメを見ているか見ていないかが問題なのではない。ある文脈において、「DAICON 4」の名前を出すことが重要なのである。竹熊健太郎がしばしば語る「オタク顕教/オタク密教」という区別があるが、オタク的な振る舞いとは、ある時は対象に対するベタな思い入れを語り、またある時は、対象に対してシニカルな距離を取る、そのような臨機応変な態度変更にこそあったと言えるだろう。そして、そのような振る舞い方には、一定の文脈や規則があったと考えられるのである。こうした文脈や規則が細分化され断片化していった事態こそが「オタクの死」であり、今日のネット文化の一部を形成しているのは、そのような多様な文脈や規則であると言えるだろう。


 『らき☆すた』に話を戻すと、『らき☆すた』という作品も、ある種のオタク的な文脈を暗黙の規則としていることだろう。いくつかの文脈や規則を押さえていないと、『らき☆すた』を「正しく」見ることはできない。しかしながら、『らき☆すた』という作品は、そこでメタレベルの情報がやり取りされているという点で、そのような暗黙の規則の相対化をもその作品の中に含み込んでいると言えるのである。『らき☆すた』という作品の中に他者の視点が導入されているとまでは決して言えない。しかし、今日の過剰な流動性(とりわけネットの世界に見出されるような)を十分に意識して作られた作品だとは言えるので、その点では、この作品の中に、批評的な観点を見出すことができるように思えるのである。


 注目すべき点は、この作品が、物語を提示するというよりも、ある種の語りを提示しているところにある(雑談という形で)。そして、こうしたことは、近年の他のギャグアニメ、ギャグマンガ作品にも言えることであるが(例えば『魁!! クロマティ高校』や『さよなら絶望先生』など)、こうした語りの提示という方法論が、今日的なメタレベルの状況と関わる最良の方法論のように思えるのである。つまり、物語を提示することよりもむしろ、何かについて対象化して語るというやり方のほうが、現在の状況に適合しているということである。こうした点から、次回もまた、『らき☆すた』を問題としてみることにしたい。