セカイ系の社会的な次元、あるいは、セカイ系のリアリティについて

 セカイ系作品はこれまで多くの批判にさらされてきたと言えるが、セカイ系を批判するときにしばしば持ち出される言葉がある。それは「閉鎖的」というものである。「セカイ系」という言葉の定義の一部をなしている、社会的な領域の欠如という特徴が含んでいるニュアンスもそうした閉鎖性であるだろうし、「きみとぼく」というカップルの関係についても、そうした閉鎖性が指摘されることだろう。


 宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』では、セカイ系が批判の対象になっているわけだが、そこでのポイントというのも、閉鎖性、閉じこもり、引きこもりである。宇野常寛のエッセイにおけるセカイ系のイメージは、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジに集中している。碇シンジは、劇場版(「Air/まごころを、君に」)での彼の行動が顕著であるように、世界が危機的な状況にあるにも関わらず、何か積極的な行動をすることもなく、引きこもる。


 このような指摘に対して、僕は、以前から、少なからず違和感を持っていて、「開く/閉じる」という認識の図式を何とかずらそうと試みてきた。セカイ系が閉鎖的であるという点はひとまず認めてもよいが、しかしながら、そこでの閉鎖性が持っている批評的なニュアンスとでも言うべきものを十分に抑えておく必要があるだろう。つまり、セカイ系の閉鎖性は、旧来のヒーロー物語に対する一種の拒絶になっているのである。例えば、『エヴァ』の監督である庵野秀明の80年代の作品である『トップをねらえ!』では、トラウマ的な体験を経て自虐的になり、一時的に引きこもっていた主人公は、ある場面で、復活する。何かショックな体験があり、その結果引きこもり、その後、何らかの形で、そうした引きこもり状態から脱するというのが、非常に典型的な物語構造であり、そうした物語は最近の作品にも見出されることだろう(例えば『天元突破グレンラガン』)。


 引きこもりからその克服へというプロセスは、『エヴァ』においても、何度か反復されている。エヴァに乗る/乗らないというやり取りは、劇場版以前に、すでに何度か繰り返されている。つまり、シンジは、すでに何度か壁を突破していたにも関わらず、最終的にはまた、引きこもり状態に戻ってしまうのである。


 われわれが、引きこもっている人に対して期待する物語というのも、同種のものだろう。引きこもりを特集したテレビ番組に見出される「物語」とは、ネガティヴな状態にあった人がポジティヴな状態に変化する、つまり、閉じた状態から開かれた状態に変わる、というものである。引きこもっていた人が部屋から外に出て、仕事を見つけ、社会復帰していくというのが、しばしば見出されるそこでのメインストーリーである。


 こうした点から考えると、『エヴァ』におけるシンジの徹底した引きこもり具合は異常である。そこには、ある種、頑固なまでの拒絶がある。何かを受け入れることへの拒絶がある。ある期待された社会的なポジションを引き受けることへの徹底した拒絶があるのだ。


 このような自閉的な態度がリアリティを持っていたのが90年代であると宇野常寛は言い、そうしたリアリティはゼロ年代にあっては「古い想像力」だと言うわけだが、仮にそうだとしても、僕は、もう少し、セカイ系にこだわってみたいと思っている。その理由というのは、セカイ系的なリアリティというものは、まだまだその内実がそれほどはっきしているとは思えないからだ。ひと口に「セカイ系」と言っても、そこで問題にされる個々の作品の内実はかなり異なったものだろうし、セカイ系という言葉だけを問題にしていては、非常に多くのものを取りこぼしてしまうのではないかと思うのである。


 そうした点で、これからも、これまでと同様、セカイ系作品について問題にしていきたいと思っているのだが、今回は、ひとまず、セカイ系作品で欠如しているとされる社会的な領域について考えてみたい。


 さて、セカイ系作品では、社会的な領野が欠如しているということがしばしば言われるわけだが、このことが意味しているのは、セカイ系作品では、様々な問題解決の手段として、社会的な領野が機能することはない、ということだろう。例えば、『機動戦士ガンダムSEED』について考えてみると*1、この作品では、ある意味、社会的な領野がしっかりと描かれていると言える。そこでは、国と国との争い、ある種の政治的な問題が常に提起されている。しかしながら、問題解決の手段として、そのような社会的なレベルでの交渉が十分に機能することはほとんどない。そこにおいて、問題解決の手段として用いられるのは、圧倒的な武力としてのガンダムという兵器であり、キラ・ヤマトという超人的な能力を持つ個人の存在なのである。


 そうした点で、『ガンダムSEED』は、社会的な領域における国家間の戦争の問題云々よりも、ヒーローの苦悩を描いた作品だと言える。キラ・ヤマトは、まず、人種間の問題で苦悩する。コーディネイターという高い能力を持った人種(遺伝子操作された人たち)であるにも関わらず、彼は、まさにそのために、普通の人間であるナチュラルとの間の違いに苦悩する。この悩みは、古典的なヒーローの悩み、例えば『新造人間キャシャーン』などの作品で描かれていたような悩みに似ている。その悩みとは、つまり、敵と闘うために人間であることをやめなければならないという苦悩であり、こうしたヒーローの苦悩は、現在の作品(例えば現在放送中のアニメ『ブラスレイター』など)にも引き継がれていると言える(こうした苦悩は、アニメ『デビルマン』の主題歌に、はっきりと示されている。つまり、「悪魔の力」を「身につけた正義のヒーロー」は「裏切り者の名を受け」ながらも「すべてを捨てて闘」わねばならないのである)。


 さらに、キラは、争いを止めるためには武力を用いなければならないというその矛盾に苦悩する(こうした矛盾がまさに『機動戦士ガンダム00』のテーマであるだろう)。ヒーローであるキラは、善を行ないたいと思っているはずだが、いったい何が善なのか、自分が善だと思っている行為もまた悪ではないのかということに悩むのである。


 こうした二種類の悩みを孤独なヒーローの悩みと呼ぶことはできるだろう。『ガンダムSEED』の続編である『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』では、キラの悩みと孤独は、より明確に描かれる。そこでは、殺人行為が絶対的な悪として措定される一方で、そのように自らの行動を制限しているために、自分の能力を最大限に活用することのできないヒーローの無力さが描かれるのである。


 「守りたいものがあるんだ!」とキラは言う。しかし、守りたいものを守ることと悪をなさないこととは、場合によっては両立しない二つの事柄であるだろう。つまり、守りたいものを守るためには、時には、自らの手を汚さなくてはならない。まさに、こうした問題を提起している作品が、『コードギアス』であるだろう。『コードギアス』のルルーシュは、守りたいもの(妹のナナリー)を守るためには、自らの手を汚すことも厭わないが、しかし、それと同時に、守りたいものを守ることと彼の復讐心とは、彼に生きる糧を与えているとも言える。つまり、現在放送中の『R2』で描かれていたように、その点で、ルルーシュは妹に過度に依存しているのである。


 ここにおいて、セカイ系作品と同種の問題構成を見ることができる。セカイ系作品の登場人物たちも守りたいものを持っている。「きみとぼく」という関係性で言えば、それは、パートナーのことであるだろうし、さらには、そこに、家族や友人などの存在を付け加えることができるだろう。『ぼくらの』のいくつかのエピソードで問題になっていたのも、そのような守りたいものがあるという動機である。『ぼくらの』においては、世界全体の運命をかけて戦闘を行なうことになるわけだが、そのような動機においては、世界全体などというものはもはやどうでもよく、世界全体を救うことが自分にとって大切な人たちを守ることになるために、世界を存続させるために闘うという動機が導き出されるのである。


 しかしながら、興味深いのは、『ぼくらの』においては、同時に、守るべきものなど何も持っていない人たちもまた登場するということである。こうした人たちは、いったい、何の名の下に闘えばいいのだろうか?


 善や悪という観念の下に行動するのであれば、そこでの観念は普遍的なものであるだろうから、個人的な状況に左右されることはないだろうが、守るべきもののために闘うというのはすぐれて状況依存的であると言えるだろう(そうしたところにルルーシュの弱さがある)。この点で、『コードギアス』よりも問題を徹底させているのは『DEATH NOTE』である。『DEATH NOTE』では、もはや、道徳的な価値観などほとんど問題にはなっておらず(当初は悪人を裁くということが問題になっていたにも関わらず)、ゲームをいかにして楽しむかということのほうにより高い価値が付与されているのである。


 『DEATH NOTE』に見出すことができる価値観とは次のようなものではないだろうか? 何が善で何が悪か、それは状況次第であり、絶対的に善なこと、絶対的に悪なことなどというものについては誰も何も言うことができない。従って、そうした善悪という価値基準で何かを判断することはやめて、より面白いこと、より楽しめることを求めるべきではないだろうか、と。


 こうしたニヒリズムには、現代社会の複雑さが密接に関わっていることだろう。いったい何が究極的な悪なのかという悪の原因を突き止めることの困難さがそこにはある。そもそもどこから悪がやってくるのかということは謎めいている。テレビを点けて報道番組を見てみれば、そこには非常に多くの悪人たちが映し出されていることだろう。『DEATH NOTE』で描かれている素朴な世界観とは、まさに、こんなふうにテレビに映し出される「悪人たち」を消し去れば、世の中が平和になるというものである。しかしながら、こうした想像力は、作品内でLがすぐに見抜いたように、日本の中のそれも一部の地域でしか問題にならないような想像力である。このことが示しているのは、夜神月もまた、非常に小さな世界にしかいなかった、ということである。


 ルルーシュ夜神月の行動に対して(さらには『ガンダム00』のソレスタルビーイングの行動に対して)、それなりの合理性があるとすれば、それは、次のようなものであるだろう。すなわち、もし正式な手続きを踏んで何かを変えたいと思っても、非常に時間がかかるし、そもそもそれで何かが変わるかどうかは分からない。それならば、それが悪と見なされる行為、非合法な行為だとしても、そうした手段に訴えて、迅速に行動するべきではないか、と。


 合法的な手段の無力さを端的に示す例が、選挙における一票の重さならぬ希薄さだろう。何万票、何十万票という票の背後にいる人たちとの間に一種の連帯感が形成されていれば、自分の入れた一票と他の無数の何万票との間に密接な関係が築かれ、そこには何らかの意味が付与されることだろう。しかし、そのような関連性がなければ、そこでの一票は他の数万票の中に埋没してしまうことだろう。昨年の東京都知事選の政見放送外山恒一が述べた「多数派」と「少数派」との区別というものは、多数派は多数派で連帯し、少数派は少数派で連帯し、多数派と少数派とが対立しているという関係性ではないだろう。少数派とは、むしろ、連帯することのできない人たちのことを指しているように思われる。つまり、そこで言われる少数派とは、多数の票の中に埋没してしまうバラバラな個人のことを指していることだろう(「選挙では何も変わらない」)。


 かくして、ルルーシュ夜神月も、言葉によって他人を説得するという合法的な手段を採用することなく、暴力的な手段に訴えかける。夜神月は「デスノート」によって端的に人を殺し、ルルーシュは「ギアス」によって他人の意志を自分の意のままにするのである。


 こうした暴力的な行為に対して、セカイ系は、非暴力的な行為によって立ち向かうのだろうか? いや、むしろ、セカイ系作品のほうが、圧倒的に暴力的ではないだろうか? というのは、セカイ系作品でしばしば描かれるのは、社会の変革どころではなく、世界の消滅、あるいは、世界の書き換えだからである。


 夜神月は国際社会を自分の意のままにしようとしたが、彼の死後、結局のところ、社会は元に戻ってしまったと言える。夜神月が支配していた社会とは、一種の恐怖政治下にある社会、姿の見えない支配者であるキラに殺されていることを恐れて、過激な行動を控えなければならないという一種のディストピア的管理社会である。それに対して、セカイ系作品は、社会ではなく世界を根底から変えようとする。それは、『ラーゼフォン』で言うところの世界の「調律」、世界を白紙に戻すことである(『エヴァ』の人類補完計画しかり、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『雲のむこう、約束の場所』における世界の書き換えしかり、『ノエイン』における別の未来しかり)。


 しかしながら、ほとんどのセカイ系作品では、この世界ではなくあの世界をという世界の書き換えは失敗する。碇シンジがそうしたように、この世界に留まることを多くの人が望む。従って、セカイ系作品の課題とは、社会の変革などというものではなく、世界の存立条件という究極の次元にまでいったん遡ることによって、世界に対する意味づけや関わり方を再検討することにあると言えるだろう。現在の社会には不満がある。だからといって、非合法な手段によって、あえてこの社会を変えたいとも思わない。だとすれば、できることと言えば、この世界との関わり合いを再考するしかない、ということではないだろうか?


 つまるところ、セカイ作品における社会領域の欠如には、社会的な領域で模索することの絶望があると言える。言ってみれば、社会的な領域があまりにも重く、絶対的なもののように見えるのである。社会をいったん括弧に入れ、世界の根源に立ち戻ること。そうした行為とは、社会的な領野の重みを軽減することに繋がるだろう(このような世界認識の変革という発想は、『エヴァ』のテレビ版最終話で描かれていたような自己啓発セミナー的なモチーフと通じるところがあるだろうし、まさに、それゆえに、『エヴァ』の最終話は批判の対象になった)。


 だが、やはり、社会的な領域は依然として重いと言わねばならない。それだからこそ、セカイ系の後に、あるいは、それと同時に、日常生活の小さな幸せを再発見するような物語が生み出され続けているのである(まさにこの同時性は『涼宮ハルヒの憂鬱』に示されている)。


 セカイ系作品の前提とは、この世界は生きづらい、あるいは、この世界は間違っている、というものだろう。しかし、なぜ生きづらく、なぜ間違っているのか? そのことを突き止めるのが非常に困難な現状があることだろう。だからこそ、世界それ自体が消失することの想像力、あるいは、この世界とは異なる別の世界の出現という想像力が生み出されるのである。


 鬱屈した人たち、絶望した人たち、未来が見えない人たちというのは、この日本に、たくさんいることだろう。そうした人たちに対して、セカイ系作品はまだまだリアリティを持っているように思われるのだが、そうしたことを強調してセカイ系作品を擁護するだけではなく、さらには、セカイ系作品をもっと詳細に分析して、そこで提出されている新しい認識の地平とでも言うべきものについて語っていく必要があるだろう。今後もそうした作業に従事していきたいと思っている。

*1:僕は、『ガンダムSEED』がセカイ系作品であるとは思っていないが、セカイ系作品に見出される様々な特徴を『SEED』にも見出すことができると思っている。この点については次のエントリを参照のこと。「『天元突破グレンラガン』から『機動戦士ガンダム00』へ、あるいは、セカイ系を避けるための二つの方法」。さらに、「寄る辺なき透明な存在の叫び――『機動戦士ガンダムSEED』の開いた地平」。