『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その1)――オタクと非オタクとの間

 以前、このブログで、アニメ『まなびストレート』を取り上げて共通前提の崩壊について語ったことがあったが(共通前提の崩壊、学園ものの危機――『まなびストレート』を中心に)、もちろん、共通前提の崩壊という現象は、『まなび』という作品だけに見られるものではなく、最近のあらゆるサブカルチャー作品にその片鱗を見出すことができる。小さな物語を扱っている作品には、共通前提の崩壊を、少なくとも潜在的な形で、見出すことができると言える。まさに、その点で、逆説的なことながら、われわれの共通感覚を過度に強調しているような作品は、その背後にある共通前提の崩壊を暗黙のうちに示していると言えるだろう。


 その点で、例えば、『らき☆すた』のような作品は、われわれの共通了解というものが、いったい、どのような領域で、どのようなレベルにおいて確認することができるのか(あるいは、確認することができないのか)ということを検証している作品であると言える。つまり、そこで、ある種の会話(それは雑談と言ってもいいだろう)が行なわれているとして、そのような会話を提示することで争点となっているのは、何が正しいことであり何が間違っていることなのかということであり、そうした検討作業は、単なる(正しさや間違いの)確認作業を超えて、(何が正しいことであり何が間違っていることなのかを決める)ある種の闘争を行なっていると言えるのである。


 こうした会話においては、真偽と同時に、善悪も問題になっていることだろう。われわれは、日常生活において、時に、真偽と善悪とを明確な区別なく同時に判断することがあるだろう。論理的に正しいことが同時に道徳的にも正しいと言える場合がある、あるいは、何かを道徳的に判断するときに論理的な正しさをそこで援用してくる場合がある。『らき☆すた』で行なわれている会話というものは、まさに、そうした真偽や善悪の決定作業であり、何が正統であり何が異端なのかを確定する検証作業であると言える。


 このような確認作業や決定作業が問題となるのは、まさに、われわれの共通前提が崩壊しているからである。つまり、いったい何が正しいことであり、何が間違っているのかということの自明性が薄らいできているのである。その点で、われわれの共通感覚を確認するという作業が極めて重要になってくる。そんなふうに共通感覚を確認することは、われわれを辛うじて結びつけている細く切れやすい糸がどれだけ残っているのかを確認することに他ならないだろう。


 アニメ『らき☆すた』の第一話を見ることによって、以上に述べたことを確認してみたい。


 まずは、オタクと非オタクとの間の分断線について考えてみたい。『らき☆すた』において、泉こなたの担っている役割とは、オタクと非オタクとの間に引かれる分断線を提示することにあるだろう。そもそも、一番最初に提示されるエピソードが、そうしたことを扱っている(こなたが運動部に入らないのはゴールデンタイムのアニメが見られなくなるためというエピソード)。こなたの提示する共通感覚の多くは、非オタクにとっては、ストレートには共有できないものであるだろう。「オタクの常識、世間の非常識」というやつである。


 しかしながら、ここで引かれる分断線は、その実質が「オタク」という項目にしかないゆえに、オタクの出現によって初めて明確になる分断線であると言える。オタクと対立する項目を何と呼ぼうとも(一般人、普通の人、等々)、オタクと対立する何か実質のある言葉を持ってこない限り、そこに明瞭な対立軸を描き出すことはできないだろう。少なくとも、こなたと他の三人の主要キャラクター(つかさ、かがみ、みゆき)との間に引かれる線は、そのような「オタクと非オタク」というオタクにしか実質のない分断線である(しかし「オタク」という言葉が何を指しているのかということも問題である)。


 数年前にテレビなどのメディアを中心にしてオタク(そして秋葉原)が注目を浴びたが、こうした注目のされ方も、われわれの共通前提の崩壊と何らかの関わりを持っているかも知れない。例えば、『電車男』であるが、そこで語られた恋愛物語は、オタクの男性と非オタクの女性との恋愛というふうに輪郭づけられていた。しかし、このような関係性が、このカップルにとって、果たして本質的だったろうか? 例えば、非オタクの女性として特徴づけられたエルメスについて、その階層(上流階層)に注目して、階層の異なる男女の恋愛というふうに位置づけることはできなかったのだろうか?


 ここには、ある種のアイデンティティの問題がある。電車男2ちゃんねる掲示板で最初に自己紹介をするときに、彼は自分のことを「普通のアニヲタ、ゲーヲタ」というふうに自己規定している。これは、もちろん、ネットに書き込むという状況(個体特定されてはならない等々)を考慮に入れなければならないだろうが、しかしながら、「自分とは何ものか?」という問いに対して、「オタク」という言葉がひとつの答えになる状況があることは間違いないだろう。「オタク」と言っただけで何か了解されるものがあるのだ。


 『電車男』の書き込みをまとめた記録を読むだけだと、オタクと非オタクとの間に引かれた分断線はそれほど強調されていないように思える。しかしながら、この物語は、様々な表現媒体で作品化される過程で、あるいは、この物語を伝聞する過程で、オタクと非オタクとの恋愛というふうに戯画化されてしまったと言える。その結果失われてしまったのは、電車男エルメスとの間にあるはずのもっと多様な分断線であり、そうした多様な分断線が「オタク」という言葉に回収されてしまうと、そこに残された課題は、いかにしてオタクを脱し、普通の人間、一般人になれるのか、ということでしかなくなってしまうことだろう(可能性としては、もちろん、エルメスのほうがオタクに近づくというような分断線の乗り越えも考えられるだろうが)。


 オタクを一般人や普通の人と対比させることは、そこで「一般人」とか「普通の人」とか名指されている人たちの中にある多様な分断線を無視することに繋がる。しかし、もちろん、そこには大きな利点があることだろう。つまり、オタクという実質を提示することによって、オタクと自称する人たち、あるいは、そう呼ばれた人たちは、ひとつのグループを形成することができるだろうし、非オタクの人たちも、非オタクという否定的な名辞によってひとつのグループを形成することができるだろう。


 常識/非常識ということで言えば、オタクの言っていることは「世間の非常識だ」と言うことによって、ある種の共通前提が(否定的な形で)提示されることだろう。普通の人はそんなふうには考えないと言うことによって、ある種の共通前提を仮構することは可能であるだろう。


 このような分断線に関して、更科修一郎は、『電車男』に関連させて、次のように述べている。

本来、外国人、犯罪者、被差別部落出身者、障害者などが据えられていた位置に典型的なオタク像を配置し、大衆と異人の融和という古典的な物語を展開したこの作品は百万部以上の部数と二〇パーセント以上の視聴率を獲得したが、大衆との融和を拒むオタクにとっては、長い年月をかけて仮構した幻想を破壊していく一種のホラーに見えたのではなかろうか?
(「敵は遠くにありて想うもの」、『ユリイカ』2005年8月臨時増刊号、「総特集オタクvsサブカル!」、170頁の註8)

 ある種のマイノリティが分断線を形作るということは間違いない。そうした点では、オタクも、まさに、マイノリティだろう。『電車男』のテーマが「融和」にあるかどうかは疑問であるが、ここで注目すべきところは、更科にとって、「オタク」という名辞は、アイデンティティを仮構するための防護壁になっているということである(しかし、仮構されないアイデンティティなど果たしてあるのだろうか?)。従って、更科の考えでは、オタクが分断線を越えて受け入れられるということは、オタクにとっては最も困った事態になるということなのだ。


 さて、『らき☆すた』に話を戻すと、アニメの『らき☆すた』において、こなたのオタク的な発言は、この作品を見ている人たちもまたオタクであるはずだ、というある種の前提の下に提示されていることだろう。だからこそ、運動部に入らないのはゴールデンタイムのアニメが見られないからだとか、プロ野球が始まると深夜アニメの時間帯が云々という話は、それがたとえ「世間の非常識」だとしても、『らき☆すた』を見ているアニオタたちにとっては、自分たちの持っている共通前提を確認することになるという以上に、そうした共通前提を遡及的に作り上げることになっているだろう。


 しかしながら、当然のことながら、オタクの中にも様々な分断線が見出されるだろうし、『らき☆すた』においても、そうした分断線は強調されていることだろう。例えば、MMORPGを知らない人にとっては、こなたの話の一部は理解できないだろうし、年長世代でないと、いくつかのアニメ作品や特撮作品への言及が分からないことだろう。


 こうしたオタク内での様々な分断線を描いている作品が『げんしけん』であると言える。『げんしけん』はオタクサークルを描いた作品であるというふうに言うことは間違っていないだろうが、そこにどのような分断線や対立軸が引かれているのかを見るのは重要である。


 そもそも、この作品は、オタクと非オタクとの分断線を強調することから始まった。春日部咲がオタクではない人間として、つまり、オタクの外部として登場することによって、オタクと非オタクとの間に緊張した関係が築かれていたと言える。オタク的な振る舞いがオタクの中だけで閉じてしまうことなく、咲の存在によって常に相対化されるのである。


 しかしながら、そうした対立軸は、次第にずれていって、例えば、男オタクと女オタク、濃いオタクと薄いオタク、等々といったような様々な分断線が引かれることになる(重要な分断線は、例えば、初代会長とその他のメンバーとの間、大野加奈子荻上千佳との間、原口とその他のげんしけんのメンバーとの間などに認めることができる)。そもそも、げんしけん現代視覚文化研究会)は、漫研でもなくアニ研でもない、ある種の中間領域的なサークルであり(主人公の笹原は漫研アニ研に入ることをためらう)、そうした微妙な位置にあるからこそ、様々な対立軸が次々に構築されるダイナミズムを実感することのできる作品だったと言える。


 こうした様々な分断線を、更科修一郎が言うように、オタクの「差異化ゲーム」と呼ぶことはできるだろう。そこで問題になっていることは、確かに、アイデンティティと関連した単なるポジショニングかも知れない。どちらが上でどちらが下かという序列を争っているだけかも知れない。しかし、問題の根はもっと深いように思える。共通前提の崩壊の問題は、オタクに限らず、広く一般に認めることができるだろう。何が正しいことであり何が間違っているのか、何が正統であり何が異端なのか。そうしたことは、オタクの活動の外においても、様々な領域で自明性が薄らいでいることだろう。


 だからこそ、ここで、まさに、『らき☆すた』という作品が注目に値するのである。『らき☆すた』は、単に、オタクと非オタクの間にだけ分断線を引くのではなく、もっと多様な分断線をそこに提示している。いったい、そこで何が争われていて、どのような仕方で問題が解決されているのか? そうしたことを読み取ることのできる作品が『らき☆すた』なのである。この点については、次回、もっと詳しく検討してみることにしたい。