世界は素晴らしい、しかし、それにも関わらず――新海誠の『遠い世界』

 「other worlds」。異世界。この世界とは別の世界。


 副題が「other worlds」にも関わらず、この作品に描かれているのは、別の世界、異世界ではない。異世界は、常に、この世界とは別の場所にあるものとして、ほのめかされているだけである。そこにあるのは、ある想定や仮定である。つまり、もし、この世界とは別の世界がありうるとすれば。


 鬼頭莫宏のマンガ『ぼくらの』で、登場人物たちが闘う相手というのは、この世界とは別の世界の住人たち、この世界とは別の可能性の下にありうる世界(いわゆる「平行世界」)の人たちである。この世界がこのようなものである必然性はそこにはない。この世界は、たまたま、このようなものになったというだけであって、そこには別の可能性もありえた。別の世界が提示されるための条件として、このような偶然性や可能性、あるいは、代替可能性というものが想定されることだろう。そこには、どうしてもこの世界でなければならなかったというような必然性が欠けているのである。


 そうであるとするならば、この「私」が存在する必然性というものも、非常に希薄である。別段、この「私」は、存在しなかったかも知れない。存在する必然性はそこにはない。たまたま存在したということは、たまたま存在しなかったということもありうるということである。


 「あなたが、いつか、ほんとうの半分を見つけるまで、ずっとそばにいるね」。ここには、セカイ系カップル(永遠のカップル)を結びつけるような、必然的な絆は存在しない。セカイ系カップルは必然的な絆によって結びつけられている。お互いは、お互いにとって、「ほんとうの半分」である。しかしながら、この作品では、二人の関係は、極めて不安定である。そこには、二人の関係に確実性を与えるものは何もない。この関係が最良の関係であるのかどうかは分からない。むしろ、そうではないかも知れないという不安が常にそこにある。そうした確信のなさが苦痛をもたらすのである(「そんなにつらい?」)。


 別の世界とは、常に、この世界よりも良いとか、この世界よりも悪いとか、そのような仮定の下に現われてくる世界であるだろう。複数形で示される「other worlds」。それはまた、「遠い世界」でもあるのだろう。そこにはたどり着くことのできない遠い世界。われわれに欠けているのは、こうした遠い世界へと飛翔して行くための鳥の翼、空を飛ぶ能力である(「そら、とびたい?」)。


 つげ義春の『無能の人』に出てくる鳥師。彼にも飛翔のイメージが与えられている。そこで目指されているのも、別の場所、別の世界なのだろう。この世界ではない別の世界。同種のイメージは、浅野いにおのマンガ『素晴らしい世界』の中の「シロップ」というエピソードにも描かれている。このエピソードは、間違いなく、つげの「鳥師」の別ヴァージョンである。


 空を飛ぶことができない、つまり、飛躍することができない。それゆえ、われわれは、地上を歩いていかなければならない。鳥師もシロップも、飛ぶことは、端的に、死を意味していた。生きながら、別の世界を目指すことは可能なのだろうか? 『遠い世界』のカップルは、どこかを目指して進んでいく。電車に乗って、この二人は、どこかを目指して進んでいくのである(「一緒にいく?」)。


 どこかに向かって進んでいくこと。ここに提示されているのは距離の観念である。こうした距離の観念は『ほしのこえ』にも示されている。私たちはここまでやってきた、と。しかしながら、いくら距離を重ねたとしても、別の世界に行き着くことはできないだろう。別の世界に行くためには飛躍が必要である。別の世界はいつまでも「遠い世界」のままであるだろう。


 最後のシーンで、電車の窓に当てられた手に重なる手。この二つの手は、『彼女と彼女の猫』の同様の場面で、どんな他の手も重なることなく、そのままに放置される孤独な手と対照をなしている。この振幅が、新海誠の作品を彩っていると言えるだろう。あるときには、そこに二つの手があり、あるときには、たったひとつだけの手がある。どちらか一方だけが本当なのではない。どちらかでしかありえないのだが、そのどちらでもありうるということ。ここに立ち現われているのが平行世界や可能世界の観念であるだろう。


 「世界はきれいね。でも、うけいれることができない」。ここに示されている感性は、『ぼくらの』においても提示されている。「世界はこんなに美しい。世界はこんなに素晴らしい。おそらく、たとえ私が傷つけられても」。同様のことは、『彼女と彼女の猫』の最後でも述べられる。「僕も、それからたぶん彼女も、この世界のことを好きなんだと思う」。


 ここに示されている感性は、どれも、ある種の譲歩を含んでいる。つまり、「世界はこんなにも素晴らしいのだが、……」、あるいは、「それにも関わらず、世界はこんなにも素晴らしい」。この二つの物の言い方は、厳密に言えば、やはり、ニュアンスが異なるだろう。しかし、重要なことは、『ぼくらの』がはっきりと述べているように、この世界の素晴らしさに「私」の存在などというものはほとんど何の役にも立っていない、ということである。


 しかしながら、世界の素晴らしさを認識するものがいなければ、世界の素晴らしさもまた存在しない、と言うことはできるだろう。新海誠の映像が示していること、それは、世界は美しいということであるが、しかし、そのことを登場人物自身が認識しているかどうかは分からない。むしろ、登場人物の気がつかないところで、登場人物が見ていないところで、世界は光輝いていると言えるだろう。


 「私」の存在の希薄さ、それは、「私」の存在の代替可能性と言えるが、そのような「私」の存在と、「世界」というふうに名指されるものの風景とが密接な関係を結ぶようになる。土地に根づき、共同体の中で意味づけられた風景ではなく、世界という茫漠とした広がりの中で提示される風景。私は世界の中で生きていて、世界の中で存在しているということ。こうした関係性こそが、まさに、セカイ系という名で呼ばれる関係性であることだろう。