『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その2)――チョココロネの「正しい」食べ方

 チョココロネを細いほうから食べるか太いほうから食べるか? いったい、なぜ、そんなことが問題になるのだろうか?


 この問いに見出される問題設定とは、自明性の欠落である。おそらく、それほどの深刻さはないだろうが、泉こなたの思考にふと到来したものとは、そのような一種の不安、共通前提の崩壊がもたらした不安であるだろう。何が正しいことであり何が間違っているのか、何が常識であり何が非常識であるのか。そうしたことの自明性が薄れたことによってもたらされる不安であるだろう。


 昨年「KY=空気を読めない」という言葉が流行したわけだが、「空気を読む/読めない」ということが、現在になって、ことさらに問題になったのも、その背景には、共通前提の崩壊があることだろう。つまり、空気を読める能力というのは、過剰な流動性にさらされている現代のわれわれにとって、ある意味では、獲得される必然性のあった能力であり、こうした能力を身につけている人なら、その場の状況に応じて、ある種の一貫性を保ちながらも、自らの振る舞いや発言を(多重人格的に)自由に変化させることができるだろう。逆に、空気の読めない人間とは、失われた共通前提に過剰にこだわっている人間、ある特定のグループ内の振る舞い方や発言の仕方といった規則に過剰にこだわっている人間であると言える。そうした人間は、つまり、ある特定の場所や状況においては、非常に正確に空気が読める人間でもあるわけだが、そこで獲得された能力が一部のグループ内でしか通用しないというところ、言い換えれば、その能力があらゆるグループ内で通用する汎用性を持たないというところに問題の生じる余地があると言えるだろう。


 リアルな友達が少ないというこなたについて考えると、彼女もまた、空気の読めない人間なのかも知れない。オタクの父親ひとりによって育てられた彼女は、エロゲーや昔の特撮についてもよく知っている、言ってみれば、「オタクエリート」なわけだが、しかし、そうしたオタク的な教養が、いわゆる一般人との間に、様々な分断線をもたらすことは間違いないだろう。柊かがみのように、そこに構築された分断線を、激しいツッコミによって相対化してくれる友人がいるのであれば、そこには一抹の救いがあると言える。しかしながら、そうではなく、ただ単に分断線や相違点が確認されるだけだとするならば(オタクと一般人とは生きている世界が違うというふうにだけ語られるのだとするならば)、こなたのような人間は、必然的に孤立するだろう。こうした孤立感について、『らき☆すた』では描かれることはないが、この作品が提示する様々な分断線のことを考えると、こなたが置かれている非常に厳しい環境について勝手にいろいろな想像を思い巡らせたくなる(「スクールカースト」という言葉や豊島ミホのエッセイの題名にあるような「底辺女子高生」という言葉を考え合わせてみると、現在の高校生の置かれている環境というものは、非常に厳しいものではないだろうか?)。


 空気を読むというのは、まさに、状況次第ということである。それなりの原理原則というものはあるのかも知れないが、ひとつの原理原則にこだわって生きていくと、必ず壁にぶつかることだろう。チョココロネを細いほうから食べるか太いほうから食べるかという問いは、一見すると、他愛もない、どうでもいい問いのように思えるが、しかし、チョココロネを細いほうから食べると言わなければ、「空気を読めない」というふうに見なされてしまう、そんな厳しい環境も十分に考えられることだろう。そうしたことを考慮に入れて『らき☆すた』を見ていくと、こなたがチョココロネに関する常識/非常識を確認しようとする心理というのも、非常によく理解できるように思えるわけである。


 以下、『らき☆すた』の第一話において、こなたたちによって語られる食べ物の話について、そこで何が問われているのかということを分析してみることにしたいが、なぜそんなことをするのかと言えば、上で述べたように、個々の話の中の、いったいどこに共通感覚や共通了解が見出され、いったいどこに分断線が見出されるのかということを確認してみたいと思ったからである。こうしたことに注意して、以下の分析を読んでもらえれば幸いである。


 さて、チョココロネをどちらから食べるかのという問題は、そこからさらに、チョココロネの太いほうと細いほう、どちらのほうが「頭」なのかという問題を派生させることになる。ネットで調べてみると、チョココロネの「コロネ」とは、パンを焼くときに巻きつける円錐形の棒(「コルネ型」)から来ているらしく、そして、そこでの「コルネ」という言葉は、角笛などのラッパを意味するらしい。それゆえ、コロネを動物の角に見立ててみれば、細いほうが上で太いほうが下だと、ひとまずは言うことができるだろう。こんなふうに一般的な知を持ってくれば、この種の議論のある部分に対しては、問題解決をスムーズに行なうことができるだろうし、まさに、そのような知を持っているとされている人物が高良みゆきなのである(例えば、第一話で、「馬鹿は風邪をひかない」という決まり文句から派生して、それでは馬鹿はインフルエンザにもかからないのかという問題が提起されるわけだが、この問題に関して、みゆきは、風邪とインフルエンザとの間の共通点と相違点とを説明することで、一定の解決を導き出していると言える)。


 しかしながら、こなたとつかさとの会話において、チョココロネのどちらが頭なのかという問題は、単に正確な知を求めているだけではなく、チョココロネの形に関して、どのような連想やイメージが働くのかということが問題になっている。こうしたところで、われわれの共通前提が問題になるわけである。共通前提というのは、言ってみれば、個人的な感性を形作るための土台になるようなものであり、そうした土台は、生まれや育ちといったものに大きく影響されることだろう。それゆえ、まさに、チョココロネの形態に関して、貝を連想するか芋虫を連想するかは大きな違いであるが、しかし、その違いが何を意味しているのかは自明ではないだろう(こうした連想の結果から生まれや育ちを特定することは必ずしもできないだろう)。


 チョココロネのどちらが頭なのかということを扱う問いは、連想やイメージを問題にする問いであると言えるが、それでは、チョココロネを細いほうから食べるか太いほうから食べるかという問いは、いったい、何を問題にしていると言えるのだろうか?


 そこにおいても、共通前提が問題になっていると言えるが、しかしながら、そこからもう少し話を進めて、そこでの問いの性質というものをもっと明確にしてみることにしたい。というのは、チョココロネをどちらから食べるのかという問題には、どちらから食べてもいいという趣味の問題には留まらない、ある種の「正しさ」の問題が提起されているように思えるからである。つまり、この問いは、チョココロネをどちらから食べることが「正しい」のか、ということを問うているように思えるのである。


 高良みゆきは「食べ方は人それぞれ自由」と言う。しかし、もし自由であるとするならば、なぜ、彼女は、こなたの食べ方に対して介入したのだろうか? 細いほうから食べ始め、太いほうからこぼれ落ちそうなクリームをその都度舐めるというこなたの食べ方に、いったい、どのような資格で、みゆきは介入したのだろうか?


 おそらく、ここで問題になっている「正しさ」とは、美醜にまつわる正しさであるだろう。つまり、どのようにチョココロネを食べることが美しいのか、ということが問題になっているのではないだろうか?


 みゆきが提案するチョココロネの食べ方とは、細いほうをちぎって余ったクリームにつけて食べるというものであるが、この食べ方の利点とは、こなたがそうしたように、せわしなく食べたり舐めたりしなくてよい、というところにあるだろう。つまるところ、問題になっているのは、チョココロネを食べるときの見栄えであり、それが美しい食べ方であるかどうかということが問題になっているのである。


 だが、そこには、食べるときの見た目の美しさということには回収されない要素も見出すことができる。それは、言ってみれば、食事をするにあたっての合理性や効率性とでも言うべきものである。こなたの食べ方は見苦しいだけでなく、食事をするにあたっての効率性も悪い。それに対して、みゆきの食べ方のほうは、チョココロネを美しくかつ効率的に食べることができる。美しさと効率性というこの二点を強調されることによって、そこに、チョココロネの「正しい」食べ方というものが立ち現われることになったわけだが、その結果、こなたは、自分のチョココロネの食べ方に対して、少なからぬ反省を強いられることになったわけである(しかし、みゆきからそのようなアドバイスを受けても、こなたは自分の食べ方を変えようとはしなかったが)。


 みゆきのように、合理的な知によって問題を解決しようとする試みは、共通前提の崩壊によって立ち現われてきた様々な分断線を埋め合わせるための有効な方法であると言える。みゆきの持ち出す根拠とは、自明性を提示すること、つまり、われわれが昔から行なっている伝統や文化や風習を強調するというものではない。むしろ、彼女は、言葉を費やすことによって、他人を説得しようとする。つまり、みゆきの思考方法とは、極めて近代的だと言えるのである。そこで目指されていることは、誰にとっても了解可能な何かをもたらすこと、美的判断には個人差があるだろうが、効率性や合理性のような多くの人にとって了解可能な根拠を提示することによって、共通了解や合意を確立することである。食べ方は人それぞれ自由と言いながら、多くの人にとって了解可能な透明な基準を提示するということ。まさに、そうした点で、高良みゆきは、リベラリスト以外の何者でもないだろう。


 みゆきの試みは、確かに、われわれの様々な分断線を乗り越えさせ、新たな共通前提を構築するための土台を生み出す可能性があると言えるが、しかしながら、そうしたことが有効になるためには、まずは、みゆきの考え方それ自体を受け入れるために、言ってみれば、近代と非近代との間にある分断線を乗り越えなければならない。みゆきがいくら合理性や効率性を強調したとしても、自分はこの食べ方にこだわるという人が出てきたとしたら、そこには明確な分断線が再び出現してしまうことだろう。


 以上のことから、問題になっていることを次のようにまとめることができるだろう。すなわち、ある種の多様な価値観、多様な考え方を認めることは、相手の立場や考え方を尊重することであるが、そうすることは、われわれの間にある分断線をますます大きくすることに繋がるだろう。しかし、それにも関わらず、あるいは、だからこそ、われわれは、往々にして、何が「正しい」のかを問題にする。空気を読めるやつと空気を読めないやつとを区分けし、後者に否定的な評価を与える。それでは、いったい、われわれは、どのようなときに相手の意見や考えを尊重し、どのようなときに「正しさ」を問題にするのだろうか? ある時は相手の立場を尊重し、ある時は相手の立場を否定する。このような態度変更は、どのような条件の下で、行なわれているのだろうか?


 『らき☆すた』の第一話においては、このような態度の違いは、チョココロネとねぎタン塩という二つの食べ物の食べ方を巡る問題において、顕著なものとなる。この二つの食べ物についての語り方とその他の食べ物についての語り方との間には大きな違いがあるように思えるのだ。この二つの食べ物の食べ方においてだけ、食べ方の「正しさ」が問われているように思えるのだが、それは、なぜなのだろうか? こうした点については、次回、ひとつひとつの食べ物についての語られ方に注目していくことで、考えていきたいと思っている。