『けいおん!』と現在時の肯定――京都アニメーションにとってのチョココロネ

 毎度のことだが、新作アニメの消化がスムーズに進まない。前クールのアニメもまだかなり残っている。


 そんな中でも、話題の『けいおん!』は見ているのだが、すでにネット上でかなりの人がこの作品について語っているので、別に今この作品をあえて問題にしなくてもいいかなあ、と漠然と思っていたのだが、昨日、たまたまYouTubeにアップされていたオープニングの曲を歌詞を見ながら何度も聞いてしまって、その歌詞があまりにも良かったので、それに引きずられるような形で、『けいおん』のアニメについて、現在思っていることをちょっと書いておきたい。


 今のところ、三話まで『けいおん』を見たが、僕は、この三話だけで、この作品を完全肯定していいと思っている。それは、アニメの出来不出来という問題の他に、個人的な思い入れももちろんあるのだが、そこら辺のことをちょっと書いてみたいと思う。


 以前に書いたことであるが、僕は、『らき☆すた』の第1話に出てくるチョココロネのエピソードに、かなりのショックを受けたことがある。なぜ、このチョココロネがショッキングかというと、言ってみれば、このチョココロネというのは、完全にどうでもいい代物であり、チョココロネの細いほうと太いほうのどちらから食べるかなどという話もまったくどうでもいいと思ったからである。そんなふうにどうでもいい代物についてどうでもいい話をすること。僕は、こうした振る舞いのうちに、世界と戯れるための最良の方法なり、この世界でよりよく生きていくための秘訣なり、といったものが示されているように思ったのである。つまり、ここで端的に示されているのは、世界に対する肯定の思想ではないかと思ったのである。


 ちょっとした比喩を用いれば、『らき☆すた』におけるチョココロネは、イタリアのネオリアリズム映画にとっての「自転車」と似たような代物ではないかと思うのだ。「自転車」というのは、もちろん、デ・シーカの映画『自転車泥棒』の自転車である。自転車というのはまったくありふれていて、極めて日常的な代物だと言えるが*1、この映画の自転車は、登場人物たちの人間関係や社会のあり方というもの、極端なことを言えば、世界と人間とがどのような関係を結んでいるのかということすらも象徴しているところがあるのだ。


 自転車を通すことによって人間が世界とどんなふうに関わり合っているかということを窺い知れるのと同様に、『らき☆すた』においては、チョココロネが、人間と世界との関係を端的に告げているように思うのである。これこそが、ある種、イタリア映画のネオリアリズムに比較されうるような、京都アニメーションのリアリズムではないかと思うのだが、そこで語られている思想とは、まさに、どうでもいい代物と戯れることが世界と戯れるための有力な方法であり、そんなふうに戯れた結果、現在の生というものを極めて充実したものにすることができるという、そのような思想であるように思える。


 『らき☆すた』のチョココロネと同種のものとして、『けいおん』に出てくるのは、もちろん、ギターであるが、しかし、このギターという物質は、チョココロネと比べると、そのどうでもよさが上手く伝わらず、変な形で誤解されてしまうことになるのではないか、という危惧を覚える。


 『けいおん』における楽器、唯にとってのギターとは、こなたにとってのチョココロネと同種のものとして考えるべきであり、自己実現のための道具というふうに間違っても捉えてはならないと思う。唯は、自分が何をしたいのかよく分からない女子高生という、ありがちな設定の下に登場してくるが、そんな彼女が音楽と出会い、自分の才能を伸ばしていく、というのがもし『けいおん』の物語だったとしたら、僕は『けいおん』をまったく評価しない。僕が『けいおん』を評価するのは、現在までの三話を見ると、軽音部の彼女たちにとって、とりわけ唯にとっては、ギターや音楽などというものは別にどうでもいいものではないか、と思えるところがあったからである。


 こんなふうに物語を区別してみるのが分かりやすいかも知れないが、自己実現の物語とは、現在の自分はダメだけれども、輝かしい自分が未来には待っているはずだという、そういう物語だろう。これは現在を否定し、未来を肯定する物語である。これに対して、『けいおん』は、まさに、現在を肯定する物語ではないかと思うのである。つまり、武道館を目指してバンド活動を始めるなどという話が最初に出てくるが、こんな目的は完全にフェイクであり、まさにそれがフェイクだからこそ、現在の時間を肯定するのに役立つのではないかと思うのである。


 第2話で、最終的に5万円でギターを買えたのなら、なぜ唯たちはわざわざバイトをしたのか、という問いを提出していた人をネットで見かけたが、このエピソードで強調されていたこととは、目的意識というものに縛られることの拒絶だったのではないかと思う。目的意識が重要だとしても、目的を達成することにばかり縛られていると、つまり、現在というものを未来への奉仕にばかり用いていると、それは、結局のところ、自分の人生にとって、本末転倒の事態を招くだけではないのか。むしろ、重要なのは、目的を持って活動したときに生じる、様々な副次的な効果のほうではないのか。言い換えれば、何かの目的に向けて活動することの最大の成果とは、未来に獲得されるものではなく、現在の時間を充実したものにできるということ、まさにこれではないのか。といったようなことがこの第2話のエピソードでは示されていたように思うのである。


 こうした点で、『けいおん』において最も重要なシーンとは、軽音部のメンバーたちが様々なお菓子を食べるシーンであるように思える。彼女たちがおしいくお菓子を食べることができるのは、バンド活動をするという目的があるからだろう。おそらく、おいしいお菓子を食べる会みたいなのを作って活動すると、それほどおいしくお菓子が食べられないのではないかと思う。楽器を演奏するという軽音部の活動目的からすると、お菓子を食べることはどうでもいい副次的な要素であるが、まさに、現在時の肯定というところからするならば、このどうでもいいことが重要なのである。


 こんなふうに僕は『けいおん』のアニメを見ていて、そういう評価基準から、この『けいおん』というアニメは非常に素晴らしい作品だと思っている。そして、上記したような『けいおん』の路線(現在時の肯定)は、『涼宮ハルヒの憂鬱』→『らき☆すた』というこれまでの京アニの路線に完全に合致すると思っていて、そのことがオープニングの『Cagayake! GIRLS』の歌詞にはっきりと示されていると思うのである。


 例えば、こんなところである。

スカート丈2cm
詰めたら跳ぶよ
昨日より遠く
おとといよりオクターブ高く

 僕のような悪しき心を持っている人間からすると、こういう一節はかなり心に響くというか、胸に鋭く突き刺さるものがあるわけだが、この一節で表現されていることとは、スカートの丈がたった2cm変わっただけで、世界の見え方が根本から変わってしまう、ということである。客観的に見れば、そのときに世界に起きた変化とは、スカートの丈が2cm短くなっただけなのだが、まさに、このような些細な変化が、世界と戯れるための有効な手段として、ここでは提示されているように思うのである。実際には世界は何も変わっていないかも知れないが、重要なのは、何かを変えることそのものではなく、何かを変えようとしてもたらされる副次的な効果のほうである。何かを変えるのではなく、何かを変えようと思ってワクワクすること。つまり、そんなふうにワクワクしたのだとしたら、世界はその分だけすでに変わったと言えるわけだ。


 実際には、この世界には悪しきものが充満しており、僕なんかは、ついついそっちのほうが気になってしまうのだが、そうした現実との対決を、チョココロネやお菓子やギターといった代物で、上手いことやり過ごそうとする、そうした京都アニメーションの現実肯定の方向性というものには、やはり感服せざるをえない。


 『けいおん』に関して若干気になるところは、唯たちは果たしてどこまで楽器との間に距離を取れるのかというところであり、楽器がなくなったら生きてはいられないなどということにはならないだろうが、楽器との上手い付き合い方を最後に暗示するような形で終わってくれるのなら、最高の作品になるのではないかと思う。

*1:コメント欄を参照のこと