『エヴァの喰べ方、味わい方』(その1)

 エヴァはTV放送が開始された時点で、すでに制作の遅れは危機的な状況を呈していた。(中略)したがって、問題の最終二話は、単純に監督の強い自己表現だけでは説明できない、外在的な条件も大きかったと見るべきであろう。
(いがらしもも「庵野の開かれた態度について」、エヴァンゲリオン六本木委員会編『エヴァの喰べ方、味わい方』、第三書館、1997年、7頁)

 しかしながら、それでもやはり、内在的な条件について常に考えるべきだろう。外在的な条件について考えることは、結局のところ、作品それ自体を見ないということに通じる。外在的な条件を探し求めることのうちにはどこか、問いを大きくずらしてしまおうとすること、何かをあまりにも性急に理解してしまおうとすること、そのような欲望を見出すことができないだろうか。
 『エヴァンゲリオン』の謎というものそれ自体が、今日の時点から振り返って見ると、ひとつの謎である。あの作品が様々な謎を提起していたということそれ自体がひとつの謎になっているのだ。
 おそらく、そこには、ひとつの切迫した状況があった。『エヴァ』というテキストを解読しなければならないという切羽詰った状況がそこにはあったのだ。『エヴァ』を読み解くことが、文字通り、世界そのものを読み解くことと同義であったような、『エヴァ』の謎を解き明かすことが世界の謎を解き明かすことと同義であったような、そんな幻惑的な状況というものを再び思い起こす必要がある。そして、その状況に再び沈潜する必要がある。
 『エヴァンゲリオン』以後の時代、つまり、現在という時代について考えるためには、『エヴァ』という作品にどのような夢が託されようとしていたのかという、そのような過去の記憶を喚起する必要がある。多くの人が過去の『エヴァ』を忘れ(というよりも過去の『エヴァ』が受容されていた熱狂的な状況を忘れ)、新しい『エヴァ』をすんなりと受け入れようとしている現在という時代にあっては、ある種の喧騒というものが希薄なぶんだけ、過去の『エヴァ』を思い起こし、それに反省を加える絶好の機会だと思われるのである。