『天元突破グレンラガン』から『機動戦士ガンダム00』へ、あるいは、セカイ系を避けるための二つの方法

 『天元突破グレンラガン』とは、いったい、どのようなアニメ作品だったと言えるだろうか?


 『グレンラガン』には、旧来のアニメ作品の反復という側面がある。もっと限定して言えば、それは、70年代から00年代にかけての(ロボット)アニメの反復である。しかしながら、過去のガイナックス作品のことを考えるのであれば、『グレンラガン』は、80年代にガイナックスが作った作品の反復である、とも言えるだろう(そもそも、ガイナックスの出発点は、過去のアニメや特撮をパロディにした作品を作っていたアマチュア集団である)。80年代にガイナックスの作った作品が、旧来のアニメや特撮の反復であるとしたら、『グレンラガン』は、まさに、そうしたガイナックスの行為の反復、「反復」の反復であると言えるだろう。


 具体的に作品名を上げれば、『グレンラガン』は『トップをねらえ!』の反復であるように思えた(特に物語構造上)。他にも、『王立宇宙軍』や『ふしぎの海のナディア』を想起させる場面もあったが、そこにひとつ欠けている作品があるように思われた。その作品とは『新世紀エヴァンゲリオン』である。


 『エヴァ』が『グレンラガン』に見出せない理由は明白である。というのは、『エヴァ』もまた、『トップ』や『ナディア』のような作品の反復を目指したところがあるが、途中から、そうした反復のプロセスを大きくずらしたところがあるからである。


 注目すべきはカタルシスの不在である。『グレンラガン』を見ていて気持ちがいいところは、天を突き破るところ、つまり、主人公たちの前に大きな壁(困難)が立ちはだかったときに、それを、視聴者の期待通りに、突破するところにあるわけだが、こうしたカタルシスを避けたところに、『エヴァ』の特異な点があったように思われるのである。大きな壁が立ちはだかったときに逃げ続ける主人公というのが『エヴァ』のシンジではないだろうか?


 『エヴァ』のTV版最終二話も、こうした観点からすれば、ひとつの逃避行為だったと言えるだろう。つまり、この最終二話でシンジが突破したのは、内面の問題であり、内面の問題を突破することが、現実の問題を突破することに繋がるという、旧来の物語展開からは大きくずれて、内面の問題の解決が物語の終わりになってしまったわけである。


 このような『エヴァンゲリオン』的な問題構成から派生したものがセカイ系だったわけだが、つまるところ、『グレンラガン』はセカイ系だけは反復しなかった、と言うことができるだろう。


 『グレンラガン』が前のクールで終わり、今クールから『機動戦士ガンダム00』が新しく始まったわけだが、この作品もまた、それが『機動戦士ガンダムSEED』に非常によく似ているという点で、セカイ系を避けることになるだろう、ということは容易に想像できる。


 『ガンダムSEED』がセカイ系であるかどうかということについて、このブログで以前何度も考えたことがあったが、現在の結論としては、この作品は、セカイ系作品が生み出されるような状況下で作られた作品であり、セカイ系との同時代性を見出すことはできるが、この作品自体がセカイ系であるわけではない、というものである。というのは、まさに、『エヴァ』に見出すことができた内面の問題が、ここでは決定的に欠けているからである。


 『ガンダムSEED』において主張されていることとは、簡単に言ってしまえば、「ひきこもっていないで行動に出ろ!」というものだろう。「守りたい世界があるんだ!」という、あの有名な台詞が意味していることとは、「私は行動に出るための根拠を持っている」、あるいは、「もしあなたにとって守りたい世界があるのなら、行動に出ろ」というものだろう。


 しかしながら、『ガンダムSEED』においても『ガンダム00』においても、そこで語られる「戦争」という言葉には、奇妙な非現実感が伴う。それは、セカイ系で語られる戦争と同様、登場人物たちを極限状態の中で行動させる単なる状況設定に過ぎないように思えるのだ。


 こうした点に、僕は、セカイ系との同時代性を見出すのだが、『グレンラガン』は、そうしたことを承知の上で、あえて、セカイ系を無視したように思えるのだ。『トップをねらえ!』の時代に、すでに、ある種の熱血(いわゆる「スポ根」)がすでにパロディの対象でしかなかったように、そして、そうしたことを踏まえた上で、『トップ』がパロディを加速化させる形で、旧来のアニメ作品の熱さを反復したように、『グレンラガン』も、過去作品の熱さを反復し、そうすることによって、セカイ系的な陰鬱さを払拭したように思えるのである。


 『グレンラガン』のようなハイテンションな熱血がセカイ系を避けるための第一の方法だとすれば、第二の方法とは、平凡な日常生活に満足することである。今日、この手の作品が無数に作られていることに注意すべきだろう。日常生活を生きる中で見出される小さな幸せを発見すること。例えば、『らき☆すた』の第1話で語られたようなチョココロネの話などは、われわれの陰鬱なセカイ系的宇宙観を破壊するほどの衝撃力があったとは言えないだろうか? チョココロネを、上か下か、どちらの方向から食べるかなどというどうでもいい話が、自己の生存と世界の存続というセカイ系的問題構成の重心を見事に滑らせるのである(このことをひとつの作品内で見事に成し遂げたと思うのが、『涼宮ハルヒの憂鬱』における「ポニーテール萌え」である)。


 しかしながら、現実生活において、チョココロネを買って食べればそれで満足というわけではないだろう。また、聖地巡礼をすれば事が済むというわけでもないだろう。


 『グレンラガン』の同時代的作品として、『人造昆虫カブトボーグ V×V』についても触れるべきかも知れない(『カブトボーグ』も最近最終回を迎えた)。『カブトボーグ』は、おそらく、ほとんど知名度のない作品だと思われるが、『グレンラガン』と同じテーマ、つまり、壁を突破するということを別の角度から扱っているだけに非常に注目に値する作品であり、それゆえに、まさに、『カブトボーグ』は、『グレンラガン』の作品構造を裏側から暴露しているとも言えるのである。


 『カブトボーグ』は、言ってみれば、ツッコミがないままにボケ続ける漫才のような作品である。つまるところ、この作品には、相対的な視点が(表面上)欠けているのである(しかしながら、もちろん、視聴者がこの作品をどう見るかということは十分意識されている)。ツッコミが入らずボケ続けることができるからこそ、物語は最後まで突っ走ることができる。


 こうしたボケとツッコミとの関係は、『グレンラガン』においては、シモンとロシウとの対立として描かれていることだろう。シモンとは、言ってみれば、考えない人間のことであり、衝動に突き動かされるままに行動する。それに対して、ロシウは、理性的に考え、シモンのような人間に対して「待った」をかける人間である。『グレンラガン』が『カブトボーグ』と似ているのは、このような理性の呼び声に対して、シモンのような人間が聞く耳を持たないところにある。つまり、「無理を通して道理を蹴っ飛ばす」わけである。


 しかしながら、注目すべきは、『カブトボーグ』の「毎回最終回」という物語構造である。つまり、『カブトボーグ』は、基本的に、一話完結であり、ある回で起こった出来事が次の回に引き継がれることはほとんどない。つまり、『グレンラガン』の宇宙では、突破されるべき壁が、空間的にも時間的にも、直線的に並んでいるのに対して、『カブトボーグ』の宇宙では、横に並列的に並んでいるのである。しかしながら、こうした二つの宇宙が同種のものだとしたら、どうだろうか? つまり、より大きくより厚くなってくる『グレンラガン』の壁が、単なる並行世界の可能性の違いに過ぎないとすれば、どうだろうか? このときに思い出されるのは、『ドラゴンボール』を始めとした週刊少年ジャンプの一連の作品である。つまり、主人公が強くなると、それに伴って、より強い敵が出てくるという、あのパターンである。こうしたパターンが繰り返されるとき、そこで問題となる「強さ」というものに、果たして何か質的な違いがあるのだろうか?


 もちろん、『グレンラガン』や『カブトボーグ』を見たときにわれわれが感じる爽快感というものは無視できない。しかしながら、『カブトボーグ』の比喩を再び用いれば、そこで注意しなければならないのは、最終回と最終回との間のわずかな時間である。あるいは、『グレンラガン』で言えば、第三部の冒頭に見出せたようなシモンたちの倦怠である。「果たしてあの壁を突き破ることができるのか」という問題よりももっと深刻な問題とは、「俺たちにはもはや突き破るべき壁などない」というものではないだろうか?


 こうした倦怠感が生み出した悪夢がセカイ系だとすれば、やはり、セカイ系はお祓いすべきものなのだろう。しかし、セカイ系を見て見ぬ振りするだけでは、セカイ系はいつまでも付きまとってくることだろう。


 その点で、今後、注目されるべき作品というのが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』である。セカイ系の端緒となった『エヴァ』が、いったい、セカイ系に対してどのような決着をつけるのか(あるいは、つけないのか)? 序を見ただけでは、まだほとんど何も言えないが、来年は、同時期に放送されるTVアニメも視野に入れつつ、『ヱヴァ』に注目していこうと思っている。