『ぼくらの』と倫理的問題(その6)――自らの死をどうしたら受け入れられるのか?

 前回も少し問題にしたことであるが、カコの物語には、現代人の孤独な生を見出すことができる。家族や友達がいないわけではないが、いや、むしろ、ちゃんといるからこそ、そこで、一種の疎外感を意識している。そこでの問題とは、簡単に言ってしまえば、いったい自分の居場所はどこにあるのか、ということである。


 カコは、学校では、同級生にパシリとして使われている。両親は、なかなか理解がありそうだが、カコの問題に踏み込むところまでいってはいない(カコのことを心配する素振りが、むしろ、カコとの間に壁を作っている)。カコの姉はカコのことをバカにしている(ようにカコには見える)。おそらく、カコにとって唯一の友達と言えるのがキリエであるが、キリエは、夢の中でカコの姉が言っていたように、カコが甘えることのできる存在、カコにとっての逃避場所になっている(だからこそ、どうしようもない状況になったときに、カコはキリエを殴る)。


 カコが求めていたのは、このような逃避場所だったのだろう。カコがチズを襲ったのも、単に性欲を満たしたいがためだけでなく、そのような意図があってのことだったろう。しかし、当然のことながら、個人の死というものは、決して逃れることのできないものである。死ぬ時期を延長させることはできるとしても、それをなくすことはできない。そこに、個人の生の問題が生じてくるわけだが、カコは、まだ、その問題に直面する準備ができていないわけである。


 果たして、カコにとって、生きるとはどのようなことだったのだろうか? これは、つまるところ、われわれ現代人にとって、生きるとはどのようなことであるのか、という問いとほとんど同義である。今までに、ワク、コダマ、ダイチ、ナカマという四人の生を見てきたわけだが、これら四人の生と比べてみると、カコの生には決定的に足りないものがある。


 ダイチとナカマは、自らの死を受け入れる覚悟ができていたわけだが、カコには、それを受け入れる覚悟がまったくない。言い換えるならば、彼に死を受け入れさせるための口実が何ひとつない、ということである。カコは、ダイチと違って、守るべきもの、愛すべきものを持っていない。家族や友達はいるが、そうした人たちを守るために、敵と闘うという発想がまったくない。その点で、彼は孤独であり、彼の持っているものは、自らの生以外に何もないと言えるのである。


 カコは、どうせ死ぬのだから何をしたっていい、という考えを持っている。しかし、実際のところ、カコは、何ひとつすることができない。その点で、彼は、死を受け入れていないわけである。どうせ死ぬのだから何をしたっていいとすれば、われわれ人間は誰もが死ぬのだから、いついかなるときでも、何をしたっていいということになる。つまるところ、カコにとっての生とは、それなりに長く続く有限の時間というだけであり、彼は、その生をまだ自分のものにはしていない、と言うことができるだろう。


 カコの生にとっては幸福が問題であったと言えるかも知れない。つまり、生きている間に、できるだけ多く、快感を得る、ということである。しかしながら、こうした行動原理は、積極的な意味合いよりも、消極的な意味合いを持っていることだろう。つまり、苦痛の状態よりは快適な状態のほうがいいとか、とりたてて他に目標とすべきことがないから快感を得ることを目標にするとか、そのような消極的な意味合いであるだろう。カコは、死ぬことよりも生きることを求めているわけだが、それは、単に、死にたくないというだけであって、生きてどうこうしたいという思いはまったくないことだろう。


 このような孤独な生というものを決して軽視すべきではないだろう。これこそが、まさに、現代的な生であると、僕には思われるのだ。このような生、生きていることに積極的な意味を見出すことができない生の問題は、キリエの物語に引き継がれる。キリエの問題とは、ほとんど無意味であるような自らの生が、バトルロワイアル状況において、他人を蹴落としてまでも存続すべき価値があるのかどうか、というものである(この問題設定は、個人の生を超えて、世界の存続の問題にまで広がっていく)。


 カコの物語に続くチズの物語は、積極的にこの世界に対して憎しみの感情を抱いている人間の物語だと言えるだろう。この点で、チズは、自らの死を受け入れることができるわけである。というのは、ある点で、生きていることは、死ぬことよりも、もっとつらいことだからである。この点でも、カコは中途半端であると言えるだろう。なぜなら、彼は、生に対して肯定も否定もしていないからである。


 ただ生きていること。どこにも出口のない生。こうした生の問題は、『ぼくらの』という作品から逆説的に照射される問題である。『ぼくらの』の登場人物たちは、自らの死に直面することで、ある意味で、濃縮した生を生きることが可能になっている。しかしながら、それよりももっと過酷な問題というのは、希釈されて薄まったほとんど意味のない生をどのように生きるかということだろう。非日常的な物語を読む場合に常に考えなければならないことは、それと対照的な位置にあるわれわれの日常生活であることだろう。


 次回は、カコを殺すところから始まる、非常に過激なチズの物語を見ていくことにしたい。