『エヴァの喰べ方、味わい方』(その2)

主人公のシンジは人とのつきあいが苦手で、生の存在不安に揺れ続け「僕って何なのだろう?」と自問を繰り返していく。彼らの心の世界は「自己」「自我」が直接身体的にかかわる身近な関係だけに囲い込まれていて、まるで社会や国家、あるいは政治といった観念が欠落しているように見えるのは不自然ではないだろうか。
(中略)
 社会や政治は、つきつめるとその国で生まれた人々の歴史や文化が立脚点なのだが、それを喪失した国で生まれ育ったシンジたちにとって「自己」「自我」だけが唯一の存在の根拠となるのは納得できることだ。
(有栖脱兎「「戦後国家」の奇妙なパラレルワールド」、13-15頁)

 ここで指摘されていることは、まさしく、『エヴァンゲリオン』という作品のセカイ系的な側面である。
 しかしながら、自己や自我といったものが、それ単独で存在するものだとは、僕には思えない。自己や自我といったものも、まさしく、文化的な産物ではないだろうか。つまり、社会や歴史といったものに規定されているのではないだろうか。
 そうした点で言うならば、「僕って何なのだろう?」という問いに代表されるような空虚な自己像が生み出された歴史的社会的な背景について考える必要がある。そして、こうした自己像の問題が現在ではどんなふうに解決されようとしているのかということについて考える必要がある。
 現在のアニメ作品のことを考えると、方向性はいくつかあるように思われる。まずひとつ目は、既存の社会的なポジションの価値を再発見していこうとするもの(家族的関係性の重視)。二つ目は、これはひとつ目とも重なるところがあるが、日常生活の素朴な生というものの価値を再発見していくことである。こうした方向性においては世界の謎も「私」の謎も問題になることはないだろう。
 しかし、例えば、『とらドラ!』のような作品においても、超越的な問題設定、つまり、世界の謎と「私」の謎がそれなりに提示されていたところに注目するならば、セカイ系の問題は依然として残り続けていると言える。
 あるいは、『コードギアス』や『ガンダム00』に見出されたような、政治的な手続き(民主主義的な手続き)に対する素朴な信頼といったものにももっと注目してもいいかも知れない。
 しかし、セカイ系的な感性の出発点とは、家族も信じられないし政治も信じられない、そのうえ、終わりのない日常生活にも耐えられないという、そのような不信と倦怠感ではないのだろうか。こうした点で、家族の価値や日常の価値を再発見する方向性が単なる反動ではないのかどうか、よく検討してみる必要がある。
 セカイ系と日常系は、ある面では、非常に似たところがあるかも知れない。それは、つまり、戦争や革命のような大きな社会的な変化がもたらされなくても、非常に小さな個人的なものが何かを大きく変えることがあるという発想である。セカイ系作品においては、しばしば、世界の終わりのような大きな出来事が描かれるが、これは、非常に小さな個人的なものの価値を際立たせるための手法だと言える。つまり、世界全体と「ぼく」にとっての「きみ」が同じくらいの重要性を持つということが、セカイ系作品では提示されているのである。こうした方向性が小さなものの価値を消極的に輪郭づける方向性だとすれば、日常系というのは、小さなものの価値を素朴に積極的に描き出そうとする方向性だと言えるだろう。
 こうした点で、ほとんどセカイ系作品だと言える『CLANNAD』が家族的な価値の重視と結びつくことになったのもほとんど必然だと言える。「ぼく」と「きみ」というセカイ系の世界に「小さなてのひら」が加わったのが『CLANNAD』という作品だと言えるだろう。